月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

七夕の夜に -地上に降ろされた織姫と彦星、そして天の川-

2006-07-08 00:23:41 | 民俗・信仰・文化
 7月8日を少し過ぎましたが、七夕についてです。
 七夕の信仰・伝説は、中国・朝鮮半島より伝わったと考えられます。
 
 朝鮮半島をむいて並ぶ、福岡県の、宗像・大島・沖ノ島の宗像三姫神の神社のうち、大島神社にもその影響が見られます。それは、境内を流れる小川をはさんで祭られる牽牛宮と織姫宮です。天で繰り広げられる恋模様をそのまま降ろしてきているのです。

 さて、そのような天の川の恋模様は、宗像神の出張所とも言える、近江の国・琵琶湖は沖島に関連する神社にもみられます。

 では、こちらへどうぞ~~

二つの「円山」と二つの大都市

2006-05-04 21:38:50 | 民俗・信仰・文化
 今回は共謀罪をお休み。
 前々から頭にあったことを吐き出したいと思います。
 それは、札幌の円山と京都の円山。
 
 聞いたことがある人も多いと思いますが、平安や平城の都は、天皇が北の中心に位置するようにつくられました。また、ここでも述べたように風水・陰陽五行の法則に則って東西南北に四聖獣を配置する造りとなっていました。
 
 さて、円山の話をする前に、京の円山が位置する、都の「東」にスポットを当てたいと思います。平城の都・三条通りの東には藤原氏の氏社である春日社とさらに東側にその神体山三笠山が位置します。また、その神宮寺ともいえるこれも藤原氏の氏寺・興福寺というお寺も春日社のすぐ側に位置しています。三笠山は古代の出土から西側(都)から拝める状態となっていました。
 では、平安の都はどうなのでしょうか?
 三条の東には祇園新宮といわれる粟田神社、その南にはかつての祇園社である八坂神社。その東には(名前忘れました(; )山の上に神体山ともいえる将軍塚が位置しています。この将軍塚に埋められている坂上田村麻呂もまた、西を向いているそうです。また、祇園社は藤原氏の崇敬を受けており、かつては藤原氏の氏寺である興福寺の管轄下にあったとされています。つまり、祇園社は平安版の春日社と
いうことができるでしょう(山田貴生「祇園祭の研究」2001年度龍谷大学国際文化学研究科修士論文)。
 春日社の祭神が鹿島明神であるのと比べて、祇園社の牛頭天王(すさのおのみこと)の朝廷へのまつろわぬ度が高いということでしょうか?この変更は、平安時代において、御霊信仰がさかんになり、藤原氏もまた御霊の報復を恐れていたことに起因するのでしょう。
 
 さて、このようにしてつくられた平安の東・祇園も、明治維新を向かえ大きな転機を迎えます。それは、約1100年ぶりの東京遷都。その遷都にともない、東山三条に平安神宮が作られます。さらに、祇園社の東に「円山」公園もつくられました。 京の都の東側は、まつろわぬ神をまつる宗教施設と、円山公園の配置となりました。

 一方、明治時代より本格的な開発が始まった札幌。
 この都の配置には興味深いものがあります。
 まず、北に札幌駅。西に出雲系の神「八千矛神」をまつりさらに西に円山公園。その西に神体山ともいえる山々(荒井山か三角山、もしくは藻岩山が神体山か)が連なります。この配置を南北ひっくり返すと、京都の都作りと一致するのです。
 
 このような札幌の都作りは、明治時代の文明開化における、西洋文化の流入に端を発するのではないかと考えます。
 というのは、平安京が天皇を天体という自然にあわせて都をつくっていたのに対して、札幌はまずは天皇ありきで都をつくっているという点です。江戸時代の神道家・本居宣長の書物にも、神を絶対者としてあがめるキリスト教の影響があらわれているといいます。それと同様に、札幌のデザインの仕方にも、「神」を絶対者としてあがめるキリスト教・西洋文化の影響が現れているのではないでしょうか?


  
京都  
    北
   天皇

           東 祇園社(出雲系神) 将軍塚(神体山)
              円山公園 


-----京都駅----------------     



札幌
    南
   天皇

           西 八千矛神(出雲系神) (神体山)
              円山公園 


-----札幌駅---------------- 


          

道真 -怨霊の系譜-

2006-04-30 09:59:25 | 民俗・信仰・文化
 共謀罪の話が続きますね。
 この法律は、ホンマ、暴動が起こってもおかしくない法律ということで、飽きた人もご容赦ください。
 さて、この共謀罪で罰せられた有名人が過去にもいます。
 それは、ホームページでも取り上げましたが、天神さんこと菅原道真公です。
 優秀な学者であった道真は、朝廷においてもめきめきと昇格をとげていきました。それに危機感を抱いた藤原時平。そこで時平は、道真が謀反を企てていると讒言しました。
 道真は反逆者の疑いを掛けられ、大宰府に左遷されてしまったのです。
 これは、道真がその意志を持っている(実際はもっていなかった)というだけで罰せられた「共謀罪」といえるでしょう。

 大宰府で憤死した道真は怨霊(御霊)となり、疫病や落雷、地震、戦乱を引き起こしたと伝えられています。その猛威は、時平やその血筋のもの以外にも、醍醐天皇まで地獄の業火で焼くにいたったと伝えられています。
 では、道真の怨霊が起こしたとされる戦乱とはどのようなものがあるのでしょうか?
 それは、将門の乱です。
 「将門記」によると、道真が将門に「新皇」の位記を授けたとされています。
 将門といえば、「太平記」では俵藤太を媒介として、呉公(呉の国の王様)とムカデと三位一体となっているとといたあの人です。   
 切られた後の将門の首は笑ったとか。
 将門の怨霊はすざまじいものがあり、各地で信仰されています。東京のオフィス街の将門の首塚は、GHQが撤去しようとしたのですが、関係者が原因不明の病気に倒れて行ったそうです。そして、その首塚はオフィス街の真ん中に今でも残っています。
 
 東京にある神田明神(将門)と湯島天神(道真)。その怨霊の系譜を示すかのように南北にまっすぐ並んでいます。南の神田明神を拝むことが、その奥の道真を拝むことにもなるようです。

平和な都 架け橋は水道橋

2006-03-10 22:37:53 | 民俗・信仰・文化
 前一世紀から五賢帝とよばれる王達の統治時代は、ローマ帝国が平和のうちに治められたパックス・ロマーナと呼ばれる時代です。
 この頃、都市の需要により、公衆浴場、競技場、そして水道橋などの建築技術が発達しました。特に水道は、現在でも当時の物を使っているところがあるそうです。
 
 さて、そこから遠く離れた京の都にも水道橋が存在します。
 それは、隣の滋賀県の琵琶湖から京都に水を引くための琵琶湖疎水です。 前述の通り、琵琶湖から水が流れ出る唯一の瀬田川は京都を通らず宇治川に流れつきます。
琵琶湖からの水をひくことは、京都の人にとっては長年の夢でした。 
 特に、明治維新に伴う遷都により活気を失っていた京都にとって、長年の夢をかなえることは、その後の京都の行く先を大きく変えるものだったのでしょう。この疎水は日本初の水力発電などに利用されました。
 この疎水は、古の都・京を通るためにその景観にも配慮されました。
 そのために建てられたのが、南禅寺境内を通る水路閣です。この水路閣が古代ローマの水道橋を参考につくられたそうです。
 794年より明治維新まで続いた平安京(天皇は現在も江戸に行幸していることになっているらしいので、本拠地は京都ということになっている。)。その名前は、戦乱の平安の京(みやこ)たることを祈って作られました。

 その歴史に幕を閉じたとき、そのまるで、ここが都だったことの証をしめすかのように、築かれた西のパックス・ロマーナの水道橋。思い返せば、平安の都では、疫病が流行り、貴族は怨霊の祟りに恐れ、応仁の乱で都は焼け野原になりました。
 一方、ローマの都も、平和が保たれたというものの、闘技場では剣奴たちの殺し合いが日常茶飯事だったようです。

 それでも、平安と活気ある京の復活を祈りつつ、パックスの象徴を築いた当時の人々の願いはどのようなものだったのでしょうか?
 ただ分かることは一つだけあります。たんなる幸運か、それとも何らかの理由があるのか、京が都でなくなってから、パックス・ロマーナの水道橋ができてからは、京都は他の都市と比べて、大規模な破壊の憂き目に会っていないということです。

ヒト -ナメクジの仲間-

2006-03-04 18:06:25 | 民俗・信仰・文化
 理科で習いましたね?
 ヒトことホモ・サピエンスは何類だったでしょうか?
 えー、体温はほぼ一定であり、胎生、母乳で子供を育てる、体毛があるので、哺乳類となります。他には、犬、猫、豚、馬、像、イルカから蝙蝠、ライオン、鹿etc...
 これは生物学上の分類となります。

 しかし、日本や中国が使い続けてきた東洋の科学・陰陽五行道においては、ヒトは少し違う位置におかれていました。

 陰陽五行道とは、万物・事柄を陰陽と五行に当てはめていくものの考え方です。
 丁寧に説明するといつまでたっても終わらないので、まずは陰陽についてはここでは省略します。
 
 「五行」とは世界を構成する「木」「火」「土」「金」「水」の五元素のことです。その五行にはそれぞれ、下のように方角、色、などが割り当てられました。この原理は、平安京の選地にも用いられました。東・木・蒼龍(賀茂川)、南・火・朱雀(小椋池)、西・金・白虎(山陽道)、北・玄武(北山)とこんなかんじです。そうなると、中心の町にいる人間は「土」の象徴となります。
 さて、五行思想には、蒼龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣だけでなく、その他の生物も、四聖獣をその一族の筆頭としてその特徴ごとに分類されていました。
 蒼龍を筆頭とする鱗蟲とよばれる動物は、鱗を持つ動物で各種魚、蛇などがこれに属します。朱雀を筆頭とする羽蟲は、羽を持つ動物で、各種鳥類・蝙蝠などがこれにふくまれます。玄武を筆頭とする甲蟲は、甲羅を持つ動物で、エビなどの甲殻類、カタツムリなどが属します。そして、白虎を筆頭とする毛蟲は、毛をもつ動物で犬や猫など哺乳類の多くと、毛虫が含まれます。
 ところが、毛蟲にはヒトは含まれないのです。それは、ヒトが、玄武・朱雀・白虎・蒼龍に囲まれた、町という中心に住む裸蟲の長であるからです。
 裸蟲とはその名のごとく、裸の動物であり、毛も羽も鱗も甲羅もない動物のことです。その長が体毛の退化した人間なのです。そして、それにふくまれるのは、、、、ナメクジ、ヒトデ、ミミズ、、、、、。
 人間なんてララーラーララララーラー♪ こんなものなんですね(--;
 



五行l 木   火      土   金  水
方角l 東   南      中   西  北
聖獣l 蒼龍 朱雀(鳳凰)     白虎 玄武(亀)
 蟲l 鱗蟲  羽蟲    裸蟲  毛蟲 甲蟲

  

琵琶湖 -文明開化がもたらした正負の遺産-

2006-02-22 23:12:10 | 民俗・信仰・文化
 琵琶湖。
 かつて天智天皇は湖が見える大津に都を気づきました。
 淡水の海ということで、淡海(あわうみ→おうみ)と呼ばれ、琵琶湖周辺の地方を都に近い水辺ということで、近江と書かれるようになりました。

 日本史でたびたび登場した比叡山延暦寺もこの湖を望み、比叡山の麓・日吉大社の祭礼では御神輿が琵琶湖を渡ります。その都の傍の湖は、様々な物資の運搬、交通の要所として注目されました。また、ムカデのところでも述べたように、近畿の水がめとしての役割もにないました。そして、鮒やシジミ、鮎、モロコ等、その豊富な水産資源が日本の食文化の形成に一役買ったことも否めないでしょう。 

 このように大きな影響を日本史に及ぼし続けた琵琶湖も、幕末から明治にかけての文明開化に始まる西洋文化の導入の影響を受けることになりました。
 
 滋賀県人なら誰もが知っている「琵琶湖就航の歌」。第三高等学校(後の京都大学)在学中の小口太郎が作詞、吉田千秋が作曲をしました。琵琶湖の名所を巡る情緒あふれる小口の詩につけた、吉田の曲はどういったものだったのでしょうか?
 この曲は、もともと英国の「ひつじ草」という詩に吉田が曲をつけたものがはじめだったそうです。この「ひつじ草」、ハイカラな第三高等学校生の間で流行りました。英国の詩からインスピレーションを受けてつくられた吉田の曲で、歴史豊かな琵琶湖を情緒的に巡る小口の詩が歌われ、「琵琶湖就航の歌」は完成しました。「琵琶湖周航の歌」は、歴史豊かな琵琶湖とハイカラさんとの出会いがもたらした、歌ということができるでしょう。
 この歌は、文明開化が琵琶湖にもたらした正の遺産ということができるでしょう。
 
 
 では、文明開化が琵琶湖にもたらした負の遺産とは何になるのでしょうか?
 それは、1925年、赤星鉄馬が箱根の芦ノ湖に持ち込んだブラックバスです。魚食性かつ天敵のいない琵琶湖において、ブラックバスは爆発的にふえ、固有種を駆逐していってしまったのです。
 
 美しく歴史豊かな琵琶湖をハイカラなセンスで歌った時代、実は、それらの破壊もまた始まっていたのかもしれません。
 
 
 
  

left と right -残された左-

2005-12-27 22:54:33 | 民俗・信仰・文化
この本でも書いてあったことですが、、、、、
 右のことは英語で"ライト right"、左のことは英語で"レフト left"と言います。で、rightの別の意味は、「正しい」となります。一方leftの方は、leaveの過去分詞形で形容詞的に使うと「残された」という意味になります。
 なるほど、「右へならえ」という言葉は、「正しいとされる方向に従え」ということなのでしょう。とある宗教では右手は食事、左は大便の紙拭きと完全に分業されているそうです。
 「左利き」の僕としては少し悲しい現実です。
 ですが、「正しい」と考えられていない残された方向「left」に、みんなが見落としたものが見つけられるのではないかと、期待しています。

樟葉(くずは)、その地名の起源・クソハカマ

2005-11-14 22:27:12 | 民俗・信仰・文化
 我々が普段使っている地名には、色々な物語や伝説が秘められていることがよくあります。
 ここでは古事記に記されてる、ちょっと変わった(汚い??)けど、素敵な地名の語源説話を紹介します。

 大阪府枚方市の「樟葉」。この語源は「(--;」です。 
 その起源は第十代の天皇である、崇神天皇の時代にまでさかのぼるとされています。では、その起源とやらを見てみましょう。 
 
 この天皇に対して、タケハニヤス王という崇神天皇の叔父が叛乱を起こしました。天皇は、叔父オホビコ命(みこと)を大将として、副将としてはヒコクニブク命を叛乱の征伐に向かわせました。
 
 ヒコクニブク命は、山城のイズミの地(現在の京都府木津市あたり)でタケハニヤス王にまず矢を射させましたが、その矢は当たりませんでした。
 ヒコクニブク命はタケハニヤス王に矢を射返したところ、見事命中、タケハニヤス王は死んでしまいました。
 
 王が死に、反乱軍はちりぢりに逃げ惑いました。その軍勢を追い詰めて、葛葉の地にいたります。その頃には、みな責め苦しめられて、糞をもらして褌(はかま)にかかるほどだったそうです。

 その頃から、この地を糞褌(くそはかま)と呼ばれ、それがなまって久須婆(くずは)と呼ぶようになりました。それがやがて、葛葉や樟葉の字に変わっていったということです。

 では、このような語源の地名が、何故延々と使われていたのでしょうか?
 確かに、日本書紀や古事記でも糞などは一応汚いものとして扱われる節もあるようです。しかし、農産物の肥料として糞は非常に重要なものであるという事実があります。水田が広がる木津川一帯のこの地も例外ではありません。だからこそ、糞褌(くそはかま)が語源の地名が使われ続けたともいえるのでしょう。
 
 樟葉という地名は、ただ、その語源がユーモラスなだけではないようです。「本当に大切なもの」をしっかり見据えたからこそ使われ続けてきた、本当に素敵な地名ということがいえるのです。
 

天皇・日本・女性

2005-11-10 21:55:26 | 民俗・信仰・文化
 天皇家の跡継ぎ問題について今回は考えていきたいと思います。
 天皇とは、現在の日本に該当する国家すべてではなく、あくまで大和民族・神道文化圏における宗教的首長(時代によっては政権も担っていた)といえるでしょう。琉球王国やアイヌの各部族の宗教的首長とはいえないと考えています。
 そして、そうなると、日本に該当する国家における天皇家というのは、憲法で象徴と規定されるべきものというよりも、日本という国家における「宗教史上の文化財」というもべきものではないのかと考えています。 

 それはさておき、天皇家にようやく生まれた跡継ぎ候補の愛子ちゃん。
 あくまで、僕の印象ですが、「愛子ちゃんが跡継ぎでええやん。」そんな声が大勢を締めているような気がします。
 しかしながら、昨今では、皇族の一部と一部の識者(?)が、「伝統」を盾に天皇は「男性」であるべきと主張しています。
 しかしながら、この主張には(?)です。
 歴代の天皇には、称徳天皇や推古天皇などの女帝が名を連ねています。
 そして、「日本」という「太陽の国」の象徴ともなった皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)という「太陽の神」は女性でした。
 こうしたことから考えると、天皇は女性でもいいのではないかという気がします。

 ちなみに「天皇」という言葉の由来は、中国の「天皇大帝」という唯一の不動の天体である「北極星」に由来するそうです。
 中国の皇帝である「天子」は「天皇大帝」からの命を受けるものであると考えられていました。そのため、「天子」自体は血筋の重要性がなくなり、戦乱が勃発するようになったとか。
 それに対してかつての大和民族は、「天皇大帝」の「血筋」を決めることで、王の血筋(天皇家の祖)の安定化をはかったそうです。 
 また、そうすることで、「太陽」の象徴であった大和民族の王は、中国の「北極星」の象徴にもなったということだそうです。それと同時に儒教の影響を受け、男子が王位を継ぐようになったのでしょう。
 しかしながら、「北の方」が奥さんのことをさすように、「陰」の北極星もまた、女性の象徴であるとも考えられます。
 となると、やっぱり天皇家は女性でも男性でもかまわないということになるのでしょう。


 天皇家が男子のみとなるのか、そうならないのか自体には興味がわきませんが、「天皇」の名を語ってドンパチする時代の再来は勘弁してほしいものです。
 
 そういえば、現在の皇太子さんには、「職業選択の自由」という基本的人権は存在しないのでしょうか?

中古が好き3 -ジーンズも神社も山車も2- 保存と技術継承のジレンマ

2005-11-04 22:33:13 | 民俗・信仰・文化
 中古が好き -ジーンズも神社も山車も-で僕自身、古い山車が好きと書きました。その嗜好は、僕の実家である兵庫県三木市などに分布する布団屋根型太鼓台(以下・「太鼓台」を「屋台」と呼ぶことにする)にも共通します。
 また、屋台を彩る彫り物や刺繍などの各種工芸は、江戸時代から昭和にかけての技巧が凝らされた名品が数多く残されています。
 しかしながら、「色あせたものをきらびやかにしたい」、「小ぶりなものを大きくしたい」といった祭礼当事者の思いと、地域振興の推進という時代の波にのり、屋台を新調する地域が増えています。
 その新調された太鼓台も、きらびやかで大きくなった「だけ」ではありません。かつての名品に勝るとも劣らない技巧が凝らされた彫刻や刺繍を要する「名屋台」が生み出されるケースが増えているようです。
 また、こうした新調の流れが、「屋台装飾の技術」を「伝承」するための重大な機会となっていることも否めません。
 
 ですが、その一方で、文化財ともいえる「古い」屋台はその役目を終えなければならなくなります。その多くは、町や博物館で保存されることが多いのですが、古いものが祭りを彩るという価を持つことができなくなり、それはそれで非常に寂しいものです。

 技術の伝承のためには「新調」をしなければならない。
 古い屋台を残すためには、「新調」をしてはならない。
 悩みどころです。