下の写真は、以前、日本と韓国の九尾の狐伝説を比較した時に掲載したものです。
淡路島のだんじりに使われていた幕で、九尾の狐をテーマにとりあげています。
ですが、だんじりなどで用いられる浮き物刺繍においては、龍や虎などの勇ましい動物を用いられることが多く、「九尾の狐」をモチーフにするのは珍しいものです。
では、なぜこのような珍しい図柄が淡路で用いられたのでしょうか。
その答えをさぐるべく、淡路島のだんじり文化と、それに密接に結びついている人形浄瑠璃文化を辿っていきます。
(淡路市立北淡歴史民俗資料館所蔵の写真、斗之内浜だんじり幕)
●淡路島の人形浄瑠璃と大阪の文楽
淡路人形浄瑠璃の誕生と伝播
「淡路島の人形浄瑠璃と大坂の文楽」は特に指定がない場合、洲本市の淡路文化博物館にあった展示の内容を参考にして書いていきます。
引田家の書冊によると、淡路島の人形浄瑠璃は、西宮の人形遣い百太夫が三原郡三条村に伝えたと書かれているそうです。百太夫と三原郡三条村の引田家の娘との間の子・源之丞が百姓たちと人形座を作り、元亀元年(1570)京都御所から綸旨を賜ります。
江戸時代になると阿波藩主の篤い保護を受け、18世紀前半には、人形の三人遣いと義太夫節を取り入れ、浄瑠璃、三味線、人形の三位一体の芸術として大阪で完成します。(「阿波藩主の篤い保護を受け、大阪で完成」という意味は、自分では分からないのですが、)この影響はすぐに淡路に及び、百姓武士商人などを問わず親しまれる芸能として淡路に定着していきます。
人形座は40をこえ、その多くが阿波藩から「道薫坊廻百姓(どうくんぼうまわりひゃくしょう *道薫坊はデコとも読み、淡路では人形の頭部も意味します。その人形の頭部を廻して芸をする百姓という意味といえるでしょう)」という淡路藩特有の身分を与えられます。このような人形座は、島内だけでなく日本全国を巡業し、全国に淡路人形の影響をひろめます。
淡路人形座のパンフレット
大阪への影響
淡路の津名藩仮屋浦出身の文楽軒が19世紀前半に大坂で人形浄瑠璃の座を開設し、後の文楽座になりました。
後の話になりますが、由良(現在の洲本市由良)出身の人形師である由良亀は、大坂に移住し文楽の人形を手がけます。この初代由良亀、聞くところによると、人形浄瑠璃と文楽の複雑な動きをする人形作りのノウハウを活かし、初代の大坂食い倒れ人形を製作したそうです(管理人が由良にて聞き取り)。
最後に人形浄瑠璃と文楽の特徴を挙げます。人形浄瑠璃の方が、動きが激しいものが好まれ、その分、迫力が出やすい人形の造りになっているのでしょう。
由良の町並み
●大阪から伝わったと思われる淡路島のだんじり
ここでいうだんじりは曳き回すものではなく、いわゆる担ぐ、もしくは担いでいた布団太鼓とよばれるものとします。
大坂と淡路島のだんじりの流通をざっくり言うと、大坂から淡路島に五段屋根の布団太鼓が伝わってきました。ここまでは、大坂に残る布団太鼓の文献が古いことからの管理人の推測です。そして、淡路でも太鼓台文化が花開き、明治時代になると縫い師や大工などの業者が力をつけて、大坂でも商売をするようになり、大坂の布団太鼓の文化に影響を与えました*。
大坂方面から淡路に海路を通じて伝わり、淡路で熟成された文化が、また大坂に海路を通じて伝わり影響を与えるという意味では、人形浄瑠璃と同じ傾向といえるかもしれません。
写真(下左淡路、下右大坂)で比較してみると、ぱっと目が行くのは、五段の布団屋根や、シンプルな布団締めです。細かい構造の違いは様々あるそうですが、それでも、大坂と淡路の布団だんじりは似ているといえるでしょう。
また、管理人が見る限りでは、大坂や貝塚、堺などの多くでは梯子型の棒組みになっており、それは、淡路島の中部である生穂や洲本でもこの棒組みになっています。これもまた大坂との共通点といえるでしょう。
ただ、人の数が多く、より長い距離を担ぎたい大坂では、身長の異なるものが直立して担げるように棒の高さを変えたり、棒を細くして軽量化するなど、担ぐための工夫がみられます。
*某学生さんからいただいた卒業論文の記述を参考にしました。ちなみに、この卒業論文は、屋台・太鼓台研究史の金字塔と管理人は位置づける非常にすばらしいものです。ですが、管理人がその見事な卒業論文を適切に要約できていなかったり、誤読していたりする場合もあるので、その辺のところはご容赦ください^^;
洲本市 由良湊八幡神社 紺屋町だんじり 大阪府貝塚市 感田神社 中北太鼓台
●人形浄瑠璃の影響を受けた淡路島のだんじり文化
このように、人形浄瑠璃もだんじりも、淡路が全国に誇る文化となりました。そして、人形浄瑠璃とだんじりの文化は淡路島の中でお互いに影響しあっているようです。ここでは、主に、人形浄瑠璃の影響を受けただんじり文化を見ていきます。
だんじり唄
人形浄瑠璃の影響をうけただんじり文化として真っ先に思い浮かぶのがだんじり唄です。人形浄瑠璃に使われる台本を、人形を使わずに演じます。その時にだんじりの太鼓は伴奏用として用いられます。
だんじりの太鼓を伴奏にだんじり唄を奉納します。 南淡路市阿万 亀岡八幡神社
浮き物刺繍と九尾の狐
淡路島のだんじり文化の特色として、その刺繍文化が挙げられます。現在も活躍する梶内だんじりをはじめ、大歳、小泉などの業者が活躍しました*。浮き物刺繍ともいえるような、刺繍の内部に綿など詰め物をして、立体感を表す表現方法を多く用いられています。この浮き物刺繍は、だんじりに用いられる前から淡路島ではさかんだったのかもしれません。
というのは、淡路文化博物館では、だんじり刺繍を思わせる、見事な浮き物刺繍で孔雀?別の鳥?を、江戸時代の人形浄瑠璃用の人形用衣装が縫われていました。1997年頃に淡路島南部の図書館でも、浮き物刺繍で龍が縫われていた、同じく浄瑠璃用の衣装が展示されていました。このような浄瑠璃用の衣装が、淡路のだんじり刺繍文化の発展を促したという推測は無視できるものではないでしょう。
さて、このように、人形浄瑠璃の影響をうけた淡路のだんじり文化やだんじり刺繍文化の中で、上記の九尾の狐の刺繍は製作されました。実は、人形浄瑠璃の最も人気の演目が、「玉藻前旭袂(たまものまえあさひたもと)」と呼ばれるもので、各時代の傾国の悪女の招待が実は九尾の狐だというもので、この人気演目の九尾の狐を淡路で取り上げられるのは、極自然なことだったと思われます。
この「玉藻前」の人気の秘密は人形のからくりによるものと思われます。管理人の稚拙な絵しか掲載できないのが申し訳ないのですが、図の姐妃面は、紐を引くと、口が裂け開きそこから牙が見え、角が生え、目は赤くなるという恐ろしい仕掛けになっています。こうした人形師の匠の技が、だんじり刺繍にも新しい風をふきこんだのでしょう。
姐妃面の仕掛け(管理人が淡路文化博物館でとったメモより)
*上記卒業論文によると、大歳はだんじり製作の仲介業者だそうですが、大歳などの銘が入った刺繍が名品とされることが多いのと、文字数と文章力の都合上、刺繍業者として取り上げました。
●編集後記
ブログと論文
実はこの号で月刊「祭」を二年間続けたことになります。自分の中では、月刊「祭」を毎月発行し、京都民俗学会での研究発表を3年間続けました。しかし振り返ってみると、書籍化された論文等は一本もありません(T T; じゃ、このブログをやめて論文の一本でも書けばいいじゃないかという声も聞こえそうですが、ブログをやめりゃかけるというものでもなさそうです。
作りこまれた論文が、お笑い芸人でいうところの作りこまれた舞台上演のコントだとすると、このブログは路上で勝手にやる大喜利のようなものかもしれません。路上の大喜利は反応を一切気にしないのであれば、その場の思いつきで無責任にできますが、舞台上演のコントはそうはいきません。ここでは、路上の大喜利のよさを出せればと思います。
三木城は攻略ではなく、籠城するもの
黒田官兵衛のドラマがNHKではじまりました。三木人の管理人としては、やはり注目するところは、信長、秀吉、官兵衛ではなく、三木の英雄・別所長治公です。三木で教えられるのは、長治公が自らの命と引き換えに、民衆や臣下の助命を嘆願したということです。最近は秀吉はその嘆願を聞き入れなかったという説も出ているのですが、いずれにせよ、長治公の心意気は偽りではなかったのではないかと考えられます。
官兵衛の特集などでは、三木城「攻め」と書かれることが多いのですが、秀吉側に立った記事には魅力は感じません。三木城は「攻める」ものではなく、長治公と共に「籠城」するもの。国内の歴史認識にもズレはあるようです。