月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

兵庫県加古郡稲美町 草谷天神社屋台

2019-01-14 17:57:41 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台

 


写真1 兵庫県加古郡稲美町 草谷天神社屋台

 僕が在住する兵庫県三木市、そのすぐ隣が加古郡稲美町草谷天神社の氏子地域に当たります。

 この草谷天神社の屋台は、三木市別所の工業団地の方まで練り歩きます。
 そして、三段の布団屋根、棒の形等、屋台には三木市の物と類似する点が見られます。
 また、三木市の八雲神社(久留美)に見られるようなハナ(子どもを追い掛け回す天狗)の存在も三木市の祭と共通しています
 しかし、掛け声は、すぐ隣の三木市別所町興治の熊の神社屋台に見られるような、ドンドン ドンデドン ドンデドン に ヨイヤサの三木市の多くで使われるものではありません。明石市の御厨神社などと共通するマカセマカセの掛け声が使われています。ヨイヤサとマカセの掛け声における境界線に存在する屋台といえるでしょう。  また、大宮八幡宮の祭礼に負けない迫力ある石段上りを行うことでも知られています。残念ながら僕は見ることができませんでした。

 

さて、この屋台の中で特に目を見張るのが、稀代の名刺繍業者・絹常による提灯・水引幕・高欄掛です。
 水引は、「平清盛威勢を挫く」の場。これの場面についての解説は、屋台文化保存会のウェブページで詳しく記載されています。どのような内容かは、あえてここでは秘密にしておきます。皆さんがんばって調べてくださいね。

 この屋台の水引幕・高欄掛には、さすが絹常といえるさまざまな技巧が凝らされています。

 まずは、写真2を見てください。水引の乳部分(紐を通す黒い帯状の部分)には十二支が縫いこまれ、芸の細かさを見せてくれています。また、一枚一枚鱗を埋め込むという一枚鱗の技法で、龍を描いています。

 

写真2 水引幕・龍は一枚うろこの技法がなされている。また、糸よりによる見事なグラデーションが随所に見られる。

 次は写真3と写真4。3は平清盛、4は宮島の弁財天。その表情から衣装にいたるまで、細部まで工夫(例えば清盛手にあるの巻物など)が凝らされています。
 これまでは、絹常作品の中での一般的な特徴です。
 
 

写真3 水引幕・平清盛。持ち物の細部にまでこだわりが見られる。

 
写真4 水引幕・宮島弁財天 奥の社殿まで細かく描かれている。

 では、ここからは絹常の作品の中でも、珍しい特徴を見ていきましょう。

 まずは、写真5。これはそれぞれ、左が高欄掛、右が水引幕に縫いこまれた「絹常」の銘です。絹常の作品には、すべてに「絹常」の銘が入ります。その際にその本拠地である加東郡社町古瀬の「古瀬」の地名を取り、キャッチフレーズとして「古瀬請合」、もしくは「コセ請合」の文字も一緒に銘に縫いこみます。

しかし、左の高欄掛は、「播磨の加東郡もしくは、加古郡」という意味なのか、「播加請合」となっています。これもまた、ひじょうに珍しい一面であるといえるでしょう。

 

写真5 左が高欄掛。右は水引き幕。左の絹常の銘のキャッチフレーズが、従来の「古瀬請合」(右)ではなく、「播加請合」となっている。

 

 そして、絹常の一品一品の出来栄えもさることながら、草谷天神社屋台で目に付くのは、その絶妙の色使いです。
 写真6に見られるように、赤地に、水引幕の乳の部分と高欄掛の周囲の部分を黒くしたものが、平布団屋根型太鼓台のオーソドックスなスタイルです。一方、写真6のように、黒い屋根を持つ神輿屋根や、黒い反り布団屋根型太鼓台のオーソドックスなスタイルが、白地に水引幕の乳部や高欄掛の周囲の部分を黒くしたものとなります。
これらは、屋根の色の色調のバランスを考えて練り上げられていったスタイルといえるでしょう。

 

 

写真6 
赤地の縫い物を基調にした平屋根布団屋根型太鼓台 (三木市 八雲神社 旧・与呂木屋台)
赤地に高欄掛の周囲の部分と水引の乳の部分を黒くしたものが、平屋根屋台のオーソドックススタイルとなる。

 

写真7 
白地の縫い物を記帳にした黒い屋根の神輿屋根型太鼓台
(姫路市臼杵八幡神社 丁屋台)
神輿屋根型や、黒色反り屋根の太鼓台は、白地に水引幕の乳部や高欄掛の周囲の部分を黒いものが、オーソドックスなスタイルとなる。


 

 

 では、もう一度草谷天神社屋台の全体を見てください(写真8)。草谷天神社屋台は、赤色の平布団屋根型太鼓台にもかかわらず、白地の水引を使っていることから考えると、オーソドックスなスタイルからは外れています。では、オーソドックスなスタイルから外れたこの屋台は、色調のバランスはよくないのでしょうか?そんなことはありません。絶妙です。

 その秘密はどこにあるのでしょうか?
 それが、多くが黒になるところの高欄掛のふちを白くし、あえて布団締めも白を主体にしたものにすることによって、バランスをとっていることだといえるでしょう。ふんだんに白を盛り込むことで、全体としては、赤と白を基調とした、他では見られない、優しい色調の名屋台が生まれているといえるでしょう。写真8

 高欄掛のふちと布団締めを白くすることで、白地の水引幕とバランスをとり、従来の布団屋根型や神輿屋根に見られない優しい色調の屋台に仕上がっている。
 
 
 

 あとがき ―日本における韓国文化に対する姿勢を振り返って―(韓国寺院旅行記)

2019-01-14 11:39:00 | コリア、外国

この旅は、私にとっては一生忘れられない旅になりました。日本では、韓流芸能批判騒動真最中での旅行だったので、現地での冷遇を心配しましたが、全くの杞憂でした。韓国の人たちは本当に親切で、本当に感謝の言葉もありません。
 そのような親切に甘えながら、慶州、海印寺、高霊、釜山、金海を歩き回りました。少しかたむいた瓦、少し違う人たち、少し低い床、少し違うファッション、少し違う道路の風景。学生のころに外国の一人旅をしたことはありません。ですが、地図を片手に道を訪ねながら歩き、見たことのない景色が目の前に広がるたびに、熱いたぎりが戻ってくるようでした。 
その旅のなかで、荷物を預かってもらいました。キムチやカップ麺、まんじゅうをわけてもらいました。車で送ってもらいました。両替ができない時はバス代をまけてもらいました。ささやかな親切にふれる度に、この国が好きになり、また来たいという思いが強くなりました。


 驚いたのは、日本語を話す若い人が多いことです。昨今の韓流芸能の席巻の理由は、円高や会社の戦略だけではありません。その根幹には日本語力があります。
 一方の日本においても、「外来語」の教育があります。ですが、カルテやカードという外来語を教えても、キムチなどを外来語として紹介するように教科書ではなっていないようです。隣の国の言葉や文化に無関心なまま、韓国芸能だけをあれこれ言うのでは、進歩はありえません。韓国の人たちがしているように、隣国の言葉や文化をまず学ぶことから全ては始まるのではないでしょうか。

 とにもかくにも、今思い出しても胸が熱くなる旅になりましたが、拙文ゆえにそのたぎりの半分も伝わっていないかもしれませんが、ひとまずの旅行記の締めくくりにしたいと思います。
 

謝辞
 この旅は、私一人の力でなしえたものではありません。以下の方々に感謝申し上げます。
・この旅を快く許可してくださった職場の方々、同居の父母。
・右も左も分からぬ私に、親切に接してくださった、現地の方々。
 食事を頂いたり、荷物を預かってくれたり、道案内や車での送り迎えをしてくださった方もいました。
―特に、慶州市在住の済さん、海印寺バス停横の売店の方、高霊市
coffee story オーナー 金善英さん、金海市テウォンドゥリン代表 イ・ジョンデさん、釜山大学卒業生 Won-Junさん、
 本当に本当にありがとうございました。


2011年 本文を作成しgeocitiesのウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』 掲載、2019年本ブログに復刻移設


6 王陵はストゥーパか??

2019-01-14 11:36:03 | コリア、外国



--慶州、韓国の四天王寺式、薬師寺式、石窟庵の伽藍配置、と韓国、日本の王陵について--  

韓国の仏塔について
 仏塔と言うと、日本では法隆寺の五重塔や京都駅から見える五重塔など、人によって思い浮かべる塔は違いますが、木造の塔ということは一致しているかと思います。ところが、韓国においての仏塔は、必ずしも木造の建造物ではなく、超大型の石灯篭のような石塔が一般的になっています(写真29
 
写真29
仏国寺の西側の三層石塔と東側の多宝塔。本堂である大雄殿を北側要の位置におき、双塔が並び立つ薬師寺式の伽藍配置

 

 私が訪ねた慶州においても、東西両塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置のルーツともいえる、仏国寺も双方石塔(写真29でした。また、仏像も石窟庵のように石造のものが多く、韓国の方がやや「石の文化」が重宝されている感じがしました。この、石窟庵、石塔双方ともに、新羅の時代のもので、日本と対立していた新羅の石の文化はやや浸透するのが遅れたのでしょうか。

 

新羅式伽藍配置、百済式伽藍配置
 前述の通り、東西に仏塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置がなされている仏国寺は、新羅の支配下において作られたものです。薬師寺式伽藍配置は韓国においては新羅の時代のものが多く、新羅式伽藍配置ともいえるでしょう。

 一方の同じく皇龍寺は新羅の時代のものでありながら、塔を中心にした四天王寺式のルーツともいえる伽藍配置となっております(写真30。皇龍寺の伽藍配置は中金堂の他に東西の金堂を残しており、その点は違いますが、塔を中心にすえる配置は百済の寺院に多いそうです。

なお、皇龍寺はもとは黄龍寺(高霊黄龍寺と同じ名前になります。)とよばれていました。その理由は、宮殿造営中に黄龍があらわれたので、そこを寺院としたことによるといいます。「黄」龍は中心を意味する架空の動物であり、それを象徴するのが、伽藍の中心に位置する木造の塔だったといえるでしょう。


 
写真30 皇龍寺の伽藍配置図と仏塔跡から金堂跡を眺望した写真。 
              背後の神体山とみられるものが気になるが、遺跡らしいものを探すことができなかった。

 

ストゥーパと首露王稜

 このような塔を中心にすえる伽藍配置のルーツは、古代インドの寺院にあります。古代インドの仏教においては偶像崇拝は禁止され、崇拝の対象は釈迦のお骨であり、そのありかをストゥーパとしていました。ストゥーパは、鳥居の原型ともされるトーラナという東西南北の門の中心に位置し、ドーム状の形をしています(写真31。言い換えれば、元来のストゥーパとは、門の先にあるドーム状の形をした聖人の墓といえるでしょう。
 では、韓国の聖人たる王の墓、王陵はどんな形をしているのでしょうか。そこで、韓国でも最古の王稜の一つ、金官駕洛の始祖である首露王の墓を見てみます。これを見るとまさしく、ストゥーパを思わせるドーム型の形をしています
(写真32
 だからといって、これを即ストゥーパと言うのはあまりよくありませんよね。ですが、これらの王稜がやはりストゥーパの一種ではないかという思いをもたせるのは、首露王の妃の出自にあります。というのは、首露王の妃はインドの王家の出身とされ、首露王妃稜もドーム型をしています
(写真32。これらのことを考えると、韓国や日本の円墳は、ストゥーパの一種と考えることができるのかもしれません。


写真31 インドのサンチ仏塔。トーラナと呼ばれる門が四方にあり、その中心に仏塔が経つ。


写真32 上がインドから来たとされる首王露王妃陵 左下はそのさいに船に乗せていたとされる婆娑石塔 下が首露王陵 インドの仏塔と似た形の円墳。 

 

石窟庵と前方後円墳

  仏教において偶像崇拝が禁ぜられたとはいえ、仏教は元々「神の掟」というより、「哲学」や「考え方」に近い宗教です。民衆に教えを理解させるための方便となるならば、とばかりにお釈迦様の像が広まり、様々な仏が派生しました。やがて、その仏像がストゥーパに取って代わります。日本や韓国においては、塔の下や、ストゥーパを現す宝珠の下に仏像が作られるようになります。つまりは、墓であるストゥーパと仏像があるお堂は、ある意味同じものという視点が生まれます。

そこで、慶州の石窟庵を上から見ると、前方後円の形になっており、後ろのドーム型のところに中心仏が配され、ストゥーパの変形ともいうべき状態になってます。そして、前の方形のところは、拝殿の役割をなしており、ストゥーパに拝殿がついた形のものとなっております(写真33

 写真32 左から、石窟庵内部の図、ドーム型の石窟庵主堂内部、石窟庵外景。前方後円墳を思わせる形のお堂になっている。

石窟庵ができた新羅の時代は古墳時代より後のことなのですが、その以前からこのような形の「ストゥーパ」が韓国では多数つくられていたのではないでしょうか。日本に多数分布する前方後円墳もまた、このようなストゥーパを元に作られているのではないかと、思い、今後の研究テーマの一つにしたいと考えております。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


5 高霊、釜山と日本の寺院神 ―山の神と川の神―

2019-01-14 11:34:35 | コリア、外国

 

 日本の寺院には神仏習合の歴史があり、神仏分離令がしかれた後も、寺院に神祇がまつられたり、神社内に仏塔が残っていたりします。浄土寺も北側要の位置に八幡宮を配置するなど、一見すると神社ともいえそうな配置がなされています(写真26。他にも、比叡山延暦寺のように、比叡山には麓の日吉大社の祭神である大山咋神がいたとされることなど、元々山の神の居場所に寺院が創建されたという伝説はたくさん残っています。

 
写真26 浄土寺境内の八幡宮。薬師阿弥陀両如来を東西に見渡せる、北側要の位置に鎮座する
 

 一方の韓国でも、寺院内に寺院創立前からいたとされる山の神が祭られたり、伝説に残っ
ていたりしました。海印寺の局司壇に祭られている伽?山の局司壇に祭られる山ノ神、梵魚寺にのこる、山頂の鯉の伝説や山霊閣などです
(写真27。そして、注目したいのは、高霊黄龍寺の小川にある祠です(写真28。ご奉仕されているお坊さんの方に聞いたところ、この寺の山の神だそうです。川面に向いているところから、川を渡る性質を持つと思われ、加古川を越えると見立てられた浄土寺の迎講を想起させます。
 


 写真27 上が魚沼寺の北端にある山霊閣、下が海印寺入り口そばにある局司檀


 写真28 上が黄龍寺全景、山の麓を流れる小川をむいて岸に立てられた
     「山神」を祭るお堂

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


4 韓国、日本、阿弥陀如来像および、ネパール来迎印像

2019-01-14 11:34:04 | コリア、外国

 

 次は韓国の阿弥陀如来像についてです。
   阿弥陀如来を含む多くの仏像は、色がはげないように上塗りを繰り返されており、髪は青くなっています。
   そして、何よりも目をひくのが、阿弥陀如来の印相(指の形)です。浄土寺浄土堂をはじめとする日本の阿弥陀如意来が親指といずれかの指で輪を作るのに対し、慶州仏国寺極楽殿、伽?山海印寺冥府殿などのものは、指と指の間が離れていました
(写真22。さらに、高霊市黄龍寺の阿弥陀如来は、普通に手を開いたものでした(写真23

 


 写真22 海印寺冥府殿の阿弥陀如来 写真では分かりづらいが、親指と中指は少し離れている。


 写真23 高霊、黄龍寺の阿弥陀如来。来迎印を結んでいない。

そこで、ネパールの仏像、神像を見ると、阿弥陀如来は仏舎利を持っています(写真24。ネパールで、親指と他の指で輪を作る来迎印相は文殊菩薩など、如来と比べて華やかな衣装を纏う尊像に多いようです(写真25


 写真24 ネパールの阿弥陀如来(国立民族学博物館) 仏舎利を両手で持ち、来迎印相を結んでいない。


写真25 国立民族学博物館に展示されているネパールの文殊菩薩。左手は来迎印を結んでいる。

  では、なぜ、日本において、阿弥陀如来に来迎印が普及したのでしょうか。それは、『観無量寿経』の普及度によるものでしょう。阿弥陀如来の来迎印は親指と何指をつけるか、その手をどうむけるかで、九段階の往生、九品を表します。そのことを説いている『観無量寿経』は、九品中正という制度をもちいた漢代の儒教的な影響をうけたものとして日本に入ってきました。その『観無量寿経』を「阿弥陀三経」の一として重要視したゆえに、日本においては阿弥陀の来迎印が普及したといえそうです。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
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2 韓国寺院習俗

2019-01-14 10:15:21 | コリア、外国



 
韓国のお坊さんは日本のそれと似ているようで随分違うようです。
 一目で分かるのは、その服装。上下同じ色で、麻か何かの生地。ズボンはニッカポッカのような形のものを履いています。正装時?はそれの上に長い上着を着て袈裟をかけます。(写真2)また、日本では丸刈りにしていない僧侶がたくさんみられますが、韓国では丸刈りも徹底されているようにう見受けられました。
 そして、その外見以上にその習俗に違いがみられます。韓国の僧侶は、日本とは違い、今も肉食妻帯は強く禁じられているそうです。この違いは、鎌倉期に肉食妻帯をした親鸞という僧侶が活躍したかしないかに端を発するのかもしれません

img1.jpg 
写真2 普段着のお坊さん。麦藁帽子は聖俗関わらずご年配の男性や工事関係者が好んでかぶっていました 

 

信者
 ここでは、信者と書いていますが、寺院や王凌をとりまく人々の生活について書きたいと思います。
 まずは、寺院を訪れる熱心な信者の方々。これは、日本と変わらずご年配の方が多いようです。
 興味深いのは、堂内の本尊への拝礼の仕方です。本尊に正対せず斜めから起立土下座(五体投地)を三回繰り返し拝礼します。これは本尊に正対するのが失礼にあたるという理由だそうで、王凌への拝礼も土下座こそ見られませんでしたが、横、もしくは斜めからの拝礼でした。(写真3)

img2.jpg
写真3 魚沼寺観音殿にて。五体投地で拝礼する信者が見える。

 一方の若者の観光客は、日本と同じく寺院で目に付くのは、女性二人、もしくは一人の旅行者が多いことでした。これは、決して私が若い女性ばかり目で追っていたという理由だけではないと思います(笑)。
 そして、興味深かったのが、「テンプルステイ」という習慣です。これは、写真ではわかりにくいのですが、おおよそ、8疊ほどの部屋が細長い建物に並んでいて、その宿坊に一般の方が寝泊りするという休日を過ごす方が多いそうです(写真4)。幼い子どもを連れたご夫婦や、学生さんの一人旅で利用されていました。学生さんは、お坊さんがはくようなズボンを履いていました。
 上のテンプルステイとも関係するのですが、韓国のいくつかの寺院では無料の精進料理を参拝客に振舞っているようでした。先の写真の深源寺でも、宿泊中の学生さんに無料の精進料理があるのでどうかと誘われました。残念ながら、時間の都合上ご一緒はできませんでしたが、釜山市の梵魚寺では、大きな食堂で頂きました。配膳、食器の返却、洗浄はセルフサービスです。(写真5)


写真4 高霊、深源寺の宿坊の側面。前面には部屋が何部屋も並び、テンプルステイなどに利用される。


写真5 魚沼寺で、信者に無料で振舞われる精進料理。セルフサービス


 そして、浄土寺の法華山一乗寺で見られる賽の河原のような石積みを仏国寺、海印寺で見ました。いづれも寺のはずれにあることを考えると、この世とあの世の境界を表しているのでしょうか(写真6)。
 
写真6 法華山一乗寺を思わせる賽の河原を思わせる石積み。左は仏国寺羅漢殿、右は海印寺の参詣道 右下は加西市法華山一乗寺。いずれも寺のはずれにこういった石積みがつくられていた。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
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1 2011夏 韓国旅行 行くまでの経緯と行程概略

2019-01-14 10:14:39 | コリア、外国

 
行くまでの経緯 1
 祭り好きが乗じて、京都の祇園祭をテーマに卒業、修士論文を書き、祇園社の祭神、牛頭天王・素戔鳴尊に興味を持ち、下の『日本書紀』の記述に出会いました。
 「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します」
 素戔鳴尊がいる「曾尸茂梨」とはどこなのか。私の頭に常に残りました。


行くまでの経緯 2
 
その疑問に答えがでないまま、書き上げたのが浄土寺に関する二つの拙稿・「(論文?)浄土寺伽藍配置私考(『小野史談 5152号 それぞれ20082009年』)」、「(研究ノート)東大寺播磨別所・浄土寺伽藍配置考 -重源の迎講との関連-『京都民俗 27号 2010年』」です。
 内容は耳にタコができるかもしれませんが、①~③の内容です。①浄土寺境内の八幡宮は、東大寺復興のスポンサー源氏への敬意を表すもの。②古法華山を背面軸に配し、そこに日が沈む旧暦
315日ごろに、迎講を行い、当麻寺のような山越え阿弥陀を表現する ③その際に、加古川は三途の川、古法華山は重源が訪ねたとされる宋の天台山・西の異国の浄土と見立てられている。 
 このような異国の浄土観と浄土寺の大仏様・天竺様という建築様式の垂木部分が韓国の民家と類似していることにも関心を持ちました
(写真1) 

行程概略 

 上の二つが韓国への憧憬の理由でした。そして、円高、閑職という熱い思いと、公私の条件整い、2011824日より30日(朝)まで、私は56日の韓国への旅を決意しました。

 行程の基本方針と目的は、曾尸茂梨とされる諸説の場所を巡ること、その中で、韓国の寺院習俗や伽藍配置から浄土寺との関係を見つけ出すことです。

訪れた寺院や王陵、遺跡は以下の通りです。

慶州市―芬皇寺、皇龍寺、瞻星台、仏国寺、石窟庵 伽?山、高霊周辺―海印寺、深源寺、法水寺址三重石塔、黄龍寺 釜山、金海-梵魚寺、三光寺、首露王稜、首露妃稜

 残念ながら研究上の大発見はありませんでした。

 それでもなお、今後の研究や人生において、大きな意味をもつ旅になりました。そこで、できるかぎり、小野市の浄土寺と照らし合わせながら、韓国の寺院のあれこれを紹介します。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


韓国寺院旅行記(ハングクサウォンニョヘンギ)

2019-01-14 10:11:55 | コリア、外国

韓国寺院旅行記(ハングクサウォンニョヘンギ)
-<できるだけ>浄土寺と照らし合わせつつ-

2011年8月24日から30日までの韓国珍道中。
時系列ではなく、テーマごとに分類してまとめてみました。
写真だけでもお楽しみください。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
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二つの「円山」と二つの大都市 -札幌の円山と京都の円山- 

2019-01-14 10:06:53 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり

 

 

  ここでは、二つの円山、札幌の円山と京都の円山について考えていきたいと思います。
 聞いたことがある人も多いと思いますが、平安や平城の都は、天皇が北の中心に位置するようにつくられました。また、ここでも述べたように風水・陰陽五行の法則に則って東西南北に四聖獣を配置する造りとなっていました。

  さて、円山の話をする前に、京の円山が位置する、都の「東」にスポットを当てたいと思います。平城の都・三条通りの東には藤原氏の氏社である春日社とさらに東側にその神体山三笠山が位置します。また、その神宮寺ともいえるこれも藤原氏の氏寺・興福寺というお寺も春日社のすぐ側に位置しています。三笠山は古代の出土から西側(都)から拝める状態となっていました。

 では、平安の都はどうなのでしょうか?

 三条の東には祇園新宮といわれる粟田神社、その南にはかつての祇園社である八坂神社。その東には(名前忘れました(・・; )山の上に神体山ともいえる将軍塚が位置しています。この将軍塚に埋められている坂上田村麻呂もまた、西を向いているそうです。また、祇園社は藤原氏の崇敬を受けており、かつては藤原氏の氏寺である興福寺の管轄下にあったとされています。つまり、祇園社は平安版の春日社ということができるでしょう(山田貴生「祇園祭の研究」2001年度龍谷大学国際文化学研究科修士論文)。

 春日社の祭神が鹿島明神であるのと比べて、祇園社の牛頭天王(すさのおのみこと)の朝廷へのまつろわぬ度が高いということでしょうか?この変更は、平安時代において、御霊信仰がさかんになり、藤原氏もまた道真をはじめとする御霊の報復*を恐れていたことに起因するのでしょう。

 さて、このようにしてつくられた平安の東・祇園も、明治維新を向かえ大きな転機を迎えます。それは、約1100年ぶりの東京遷都。その遷都にともない、東山三条に平安神宮が作られます。さらに、祇園社の東に「円山」公園もつくられました。 京の都の東側は、まつろわぬ神をまつる宗教施設と、円山公園の配置となりました。

 一方、明治時代より本格的な開発が始まった札幌。

 この都の配置には興味深いものがあります。

 まず、北に札幌駅。西に出雲系の神「八千矛神」をまつりさらに西に円山公園。その西に神体山ともいえる山々(荒井山か三角山、もしくは藻岩山が神体山か)が連なります。この配置を南北ひっくり返すと、京都の都作りと一致するのです。

 

 このような札幌の都作りは、明治時代の文明開化における、西洋文化の流入に端を発するのではないかと考えます。

 というのは、平安京が天皇を天体という自然にあわせて都をつくっていたのに対して、札幌はまずは天皇ありきで都をつくっているという点です。江戸時代の神道家・本居宣長の書物にも、神を絶対者としてあがめるキリスト教の影響があらわれているといいます。それと同様に、札幌のデザインの仕方にも、「神」を絶対者としてあがめるキリスト教・西洋文化の影響が現れているのではないでしょうか?
 

京都  

    北

   天皇

 

           東 祇園社(出雲系神) 将軍塚(神体山)

              円山公園 

 

 

-----京都駅----------------

札幌

    南

   天皇

 

           西 八千矛神(出雲系神) (神体山)

              円山公園 

 

 

-----札幌駅----------------

*祇園社における奉幣や御霊会は10世紀はじめから半ばにかけて行われ、10世紀末にはとうとう祇園会が定例化することになった。その時期は、ちょうど菅原道真の怨霊の猛威が恐れられていた時代と重なる。

2006年

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


平和な都 架け橋は水道橋

2019-01-14 10:05:43 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり



 前一世紀から五賢帝とよばれる王達の統治時代は、ローマ帝国が平和のうちに治められたパックス・ロマーナと呼ばれる時代です。

 この頃、都市の需要により、公衆浴場、競技場、そして水道橋などの建築技術が発達しました。特に水道は、現在でも当時の物を使っているところがあるそうです。

 さて、そこから遠く離れた京の都にも水道橋が存在します。
 それは、隣の滋賀県の琵琶湖から京都に水を引くための琵琶湖疎水です。琵琶湖から水が流れ出る唯一の瀬田川は京都を通らず宇治川に流れつきます。

  なので琵琶湖からの水をひくことは、京都の人にとっては長年の夢でした。 
 特に、明治維新に伴う遷都により活気を失っていた京都にとって、長年の夢をかなえることは、その後の京都の行く先を大きく変えるものだったのでしょう。この疎水は日本初の水力発電などに利用されました。

 この疎水は、古の都・京を通るためにその景観にも配慮されました。
 そのために建てられたのが、南禅寺境内を通る水路閣です。この水路閣は古代ローマの水道橋を参考につくられたそうです。

 794年より明治維新まで続いた平安京(天皇は現在も江戸に行幸していることになっているらしいので、本拠地は京都ということになっている。)。その名前は、平安の京(みやこ)たることを祈るためのものです。

 その都の歴史に幕を閉じたとき、まるでここが都だったことをしめすかのように築かれたのは、はるか西の「平和の都」=「パックス・ロマーナ」の水道橋。思い返せば、平安たることを祈った都は、疫病が流行り、貴族は怨霊の祟りに恐れ、応仁の乱で都は焼け野原になるという、平安の都とはほど遠いものでした。

 一方、ローマの都も、平和が保たれたとはいうものの、闘技場では剣奴たちの殺し合いが日常茶飯事だったようです。

 それでも、平安と活気ある京の復活を祈りつつ、パックスの象徴を築いた当時の人々の願いはどのようなものだったのでしょうか?

 ただ分かることは一つだけあります。たんなる幸運か、それとも何らかの理由があるのか、京が都でなくなってから、パックス・ロマーナの水道橋ができてからは、京都は他の都市と比べて、大規模な破壊の憂き目に会っていないということです。

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsu等)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。