月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

月刊「祭」表紙

2020-12-31 09:33:00 | 各年、目次、カテゴリ別
「一番後ろ」を歩く、マツオタによるマツオタのためのマツオタ月刊誌
   月刊「祭」






はじめに
 本ブログおよび、「祭と民俗の旅」の文章・写真などの引用、参考は自由です。ただし、このブログに提供していただいた写真は、明記しておりますので、それの引用はご遠慮願います。また、引用、参考の際は、月刊「祭」を引用、参考した旨のご明記をお願いいたします。学生のみなさん、どしどし引用してくださいね^_^
 研究者のみなさま、学生さんのレポートとは比にならない影響力をお持ちのみなさまの明記なしの引用は本当に困ります。何卒よろしくお願いいたします。 
 昔の記事は多くがパソコンで作っており、スマホなどでの閲覧だと写真や図とその解説が合わない時があります。

 이불럭과 「祭と民俗の旅」의 문장, 사진을 인용,참고하기는 자유입니다. 하지만, 이불럭에 제공주신 사진도 있어서 그런 것을 명기하니까, 인용하기을 삼가 바랍니다. 인용,참고할 때는, 이웹사이트를 인용,참고했기를 명기해 주십시오.
 학생증들, 잘 인용나 참고해주시면 다행입니다^_^
  연구자 선생님들, 당신들의 영향력은 학생들의 영향력과는 비교할 수 없는 정도 큰 것입니다.인용이나 참고하실때는 “꼭” 명기하시기 바랍니다.
 
 

317.さらば青春の光「五反田だんじり祭」のあかんとことええとこ(月刊「祭」2020.12月5号)

2020-12-20 19:57:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●五反田だんじり祭
 芸人、芸能人がユーチューブにたくさん手を出すことになった今年ですが、その中でも「成功」の部類に入るのがお笑いコンビ・さらば青春の光のチャンネルです。その中で初の企業案件として手がけたのが、五反田だんじり祭という映像です。
 題名のとおり、「だんじり」をテーマにしている映像なので、この映像の「功罪」と言うと大袈裟なので、いいとことあかんとこをネタバレになりますが、述べていきたいと思います。
 
●あかんとこ
祭がなくなった?
 まずは、今年はコロナ禍で「祭がなくなった」岸和田だんじり祭も「なくなった」と言っています。このブログの読者の方はもうお気づきだと思いますが、祭の中の屋台やだんじりの運行が出来ませんでしたが、神事は行われているので、祭自体がなくなったわけではありません。
 
ハズい
 法被を着て、外に出るのをハズいと言っています。
 とはいうものの、地元の人には負けますが、そこそこかっこいい仕上がりになっていました。そして、提案者の森田さんは、そこそこだんじり祭への造詣もあるように見えました。そして、それはあかんとこを超えるいい面も期待され、結果として管理人は映像を楽しんで見ることができました。
 
 
●ええとこ
マネする祭馬鹿が出てくるかも
 動画の中で、企業案件のオフィス机を二台の台車に乗せて固定するという簡単な方法でだんじりを作り上げます。これは簡単に出来るものなので、きっと真似する祭馬鹿が現れる事でしょう。
 その「アホなことしたた思い出」は祭文化の伝承につながることを大人になった祭馬鹿は知っています。アホなことする元ネタを提供した点では大いに評価できます。
 
大事なことを言っている
 森田さんのこの発言に注目です。
 堺市出身で東百舌高校出身(参考はこちら)で、きっと祭好きな友達が多いだろうことから、この発言が出たのだと思います。
 「単独ライブもなくなりました。オリンピックもなくなりました。でも、そんなもんは別になくなってもいいもんです。日本から本当になくなったらあかんもん、祭りです。」
 
 
というわけで、五反田だんじり祭の様子をご覧ください。
 
 
 

316.大村のキリシタン②破壊→弾圧→折衝(月刊「祭」2020.12月4号)

2020-12-13 18:11:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●キリシタン大名の神社仏閣の破壊
 種子島への鉄砲伝来、ザビエルの来日などを経て、キリスト教が日本に広まりつつありました。大村純忠も永禄六年(1563)に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となります。
 しかし、大村純忠がヨーロッパ諸国との交流で得たものは、厚い信仰だけではありませんでした。長崎港の開港などを経て、西洋諸国との貿易による経済的な豊かさも同時に手に入れることになります。一方、西洋諸国にとっても日本を他国同様征服する機会を狙っていたと言えるでしょう。
 こちらのサイトによると、宣教師コエリョが大村の民衆を教化し、やがて仏像を破壊するようになったとのことが、ルイスフロイスの「日本史」に書かれているとのことです。また、サイトの管理人さんが言うように、宣教師が止めている様子もないところを見ると、彼らの教唆と考えることもできるし、少なくとも黙認していたことは間違い無いようです。
 貿易と植民地化をきっかけに伝わった信仰の負の側面が垣間見れる出来事です。やがて、下の新約聖書の言葉にあるように「滅びと破壊」の憂き目にあう人が現れますが、皮肉な結果になります。

  富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 

●秀吉のキリシタン弾圧
 やがて秀吉は、信長以来のキリシタン保護の方針を改め、弾圧の方に舵を切り始めます。その中の最初の殉教者とされるのが、ペトロ・バチウスタ司祭をはじめとする二十六聖人です。
 東彼杵町の案内板によると、見せしめのために堺より陸路を1日8里馬かあるいは徒歩でゆっくりと行幸させ、九州に渡り、大村の東彼杵から長崎に船でわたらせました。


↑26聖人の乗船場のあと
↑26聖人の乗船場のあとの解説板

↑26聖人の乗船場のあとより海を見ると美しい夕日が

 そのあとは処刑となります。植民地化の下心のツケを払ったのは、純粋な信者だつたのは皮肉な話です。
 一方このような処刑を敢行した秀吉も、天下を取ったのも束の間、大阪夏冬の陣を経て子孫は途絶えます。

 ところで秀吉は幼名を日吉丸というそうですが、これは、比叡山延暦寺の麓にある延暦寺の鎮守の社である日吉大社に由来します。その延暦寺創建者である伝教大師最澄は「御遺戒」でこのようなことを述べたと伝わっています。

怨をもって怨に報ぜば 怨止まず

怨をもって怨に封じてしまった秀吉の未来もまた最後は悲しいものになってしまったようです。

●その後のキリシタン
 禁教は江戸幕府にもうけつがれ、やがて、島原の乱など激しい弾圧劇が繰り広げられます。が、やがては、「黙認」するようになったところもあったのではないかということを、こちらの記事に書いています。
 結局は貿易のあれこれなどの利害に反しなければ、日本は宗教的に寛容な土地柄ということなのでしょう。


 

315.大村のキリシタン①大名の花押 (月刊「祭」2020.12月3号)

2020-12-12 13:07:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
 クリスマスも近いということで、キリスト教の話題です。長崎県の大村市歴史資料館の展示を主に参考にして「大村のキリシタン」という題名で、二回に分けて書いていきます。今回は大村純忠の花押についてです。

①キリシタン大名の花押
 大村の君主で、日本初のキリシタン大名として知られているのが大村純忠です。

大村純忠の書状
 大村市の歴史資料館に展示されたものや解説を見ると、その書状にもキリシタンらしさが出ていることがわかります。

国内向けの書状
 まず国内向けの書状です。とはいうものの見たいで書状の名前も内容もメモし忘れてわかりません😭🙇 内容は見る人がみたらキリシタンだとわかるものだそうです。
 その書状の出し主は大村純忠ですが、そこには大村理専と書かれていました。これは、大村市歴史資料館の開設によると、「出家」することでもらった「法名」だそうです。年号も元号を使っていました。表立ってキリシタンだとは言うのが難しかったことが伺えます。

イエズス会あて、天正遣欧少年使節団にたくした書状
 一方、天正遣欧少年使節団の一員で大村純忠の甥の千々石(ちぢわ)ミゲルに持たせたイエズス会にあてた書状では、「千五百八十二年」と西暦が使われていました。

双方に使われた花押

 

 そして興味深いのがその花押です。国内向けのもの、使節団のもの双方に使われました。どことなく、ヨーロッパ感がでているでしょうか??
 そして、最も注目すべきは中心の文様です。「×」印。これは、45度回転させると、十字架になります。俺はキリシタンだ! 強い信仰をもった純忠の意思が表れているようです。



編集後記
 次回は大村のキリシタン2回目。ちょいシリアスな内容になりそうです。




314.東這田の昭和12年の写真から見る三木の屋台スタンダード-令和3年秋月会カレンダーより-(月刊「祭」2020.12月2号)

2020-12-03 17:10:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

昔の写真が使われる令和三年祭カレンダー

 今年の新型コロナ流行に伴い、屋台やだんじりの運行は軒並み中止や自粛となりました。そうなると毎年のように発行される祭カレンダーも、祭がなければ従来のように作れません。しかし、多くの地域では昔の写真を使って例年にはない祭カレンダーが仕上がっています。

 三木の祭も例外ではなく、渡辺写真店は大宮八幡宮、岩壺神社の卓上カレンダーを、そして、今回取り扱う秋月会製作の三木市内屋台カレンダーも好評をはくしています。そして、昔の写真を眺めると、様々なことに気づかされます。今回は秋月会カレンダーから見えてきた昔の「三木屋台スタンダード」を見ていきます。

 

現在の三木スタンダード

他地域のたくし上げられる水引幕と子どもの太鼓打ち

 他地域のものを見ると、幕をたくし上げ、姫路などに分布する灘型の神輿屋根屋台などを除いては、太鼓を子どもが打っているのが分かります(写真①②③)。

 

↑①三田市三田天満宮の太鼓台 

 

↑②大阪市杭全神社のふとん太鼓

↑③神戸市北区淡河八幡宮の稽古屋台。本番の屋台でもたくし上げた水引幕、子どもが太鼓を打つのはかわらない。

 

淡路・四国・三木・明石の下ろされた水引幕

 一方で現在の三木市の屋台は水引幕を下ろし、太鼓打は外から見えません。これは、淡路島、四国、明石と同様で、水引幕の刺繍が厚くなったことにより、その披露が優先されたためだと思われます。

 


↑淡路島由良神社中町だんじり

 

 これは、秋月会や渡辺写真店のカレンダーの昔の写真をみてもほとんど変わっていません。しかし、例外が一枚だけありました。

 


↑現在の三木市禰御門神社大村屋台(写真は大宮八幡宮に宮入した時のもの)

 

 

東這田屋台の太鼓打ちらしき子どもの姿

 その例外が、秋月会カレンダーの昭和十二年の東這田屋台です。

 
しょう。

 

 

 

↑秋月会カレンダー。赤い四角が昭和十二年の東這田屋台。

 

 下ろされた水引幕の屋台とともに写っているのは、イラストのような子どもです。おそらくこれは、他地域の太鼓打の子どもと共通しており、戦前の東這田ではこのような装いの子供たちが太鼓を打っていたと思われます。


↑カレンダーにはこのような太鼓打ちと思われる子どもが、6人うつっている。

 

 東這田は昭和三年に大改修を経ているので、それ以前はこの太鼓打の子たちが見えるように、水引幕もたくし上げていた可能性があります。また、昭和三年に新調された水引幕も新調当初はたくし上げていた可能性が高いと思われます。

 というのは、下の写真の青矢印の部分は龍などの刺繍が途切れており、そこをたくし上げることができるように作られていたと思われます。



 

 さて、東這田屋台はかつては大宮八幡宮の祭礼にも明治期は参加していたようです(「明治初年の三木町」『三木市談(何号か分かりません、調べてまた書きます)』)。全ての屋根が平屋根屋台で東這田だけ幕をたくし上げていたとは考えにくく、やはり、もとは三木の屋台も水引幕をたくし上げ、子どもが太鼓を打ってい打可能性が高いと言えるでしょう。
 
編集後記
 屋台研究の萌芽はプロの研究者ではなく、地域の祭好きたちによってなされてきました。三木市内では、幸祭会、横山氏、ナメラコゾウ氏、そして、今回あげる秋月会が大きな成果をあげてきました。
 近年、ようやく学者たちの注目を集めるようになってきていますが、その礎は間違いなく、地域の祭好きたちの研究によって築かれたものです。
 
 

313.担ぎ棒悲喜交交(ひきこもごも)(月刊「祭」2020.12月1号)

2020-12-03 08:42:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●祭を左右する棒
 屋台を愛でるだけならば、棒は関係ありません。しかし、我々は屋台を担いだり押したり引いたりすることで屋台を動かします。民俗学的には些末な問題だとのことですが、祭関係者にとっては死活問題なのが、担ぎ棒です。今回は担ぎ棒に関するエピソードを紹介したいとおもいます。
 
●三木スタイルの担ぎ棒
 
 明石市の屋台は、三木市のものより担ぎ棒が短いものが多く、上の映像のように落としやすいものになっています。逆に迫力ある激しい揺れが魅力とも言えるでしょう。
 一方、三木の屋台は大宮八幡宮を中心にアヨイヤサーのリズムで長い距離を担ぎます。しかもマイナーチェンジで屋台自体が大型化しているので、棒は長くなってきました。さらに、かつては斜めに持たれるように担いでいたのが、ここ20年で真っ直ぐに立つように意識づけられてきており、それに伴って前後先端の背の高い人も担げるような「しなり」のある棒が求められるようになってきました。
 
 
三木市大宮八幡宮の屋台の差し上下の様子。
棒が先端に行くほど細く削られている。
 
 
 
●明石町
明石町檜(ひのき)棒の時代
 2005年頃、屋台倉の改修にあわせて明石町屋台は担ぎ棒も替えることになりました。素材は高級木材の檜。太さは従来のものより2センチほど太いものでした。屋台倉を改修、そして棒も取り替えて新しい明石町は再出発!
 と思ったのですが、硬い檜では棒がしなりません。しかも、+2センチの太さがそれに拍車をかけます。そうなると背の高い人が背筋を伸ばして担ぐことができず、一度傾いたら再び上がることは困難になってしまいました。
 そこで2009年に担ぎ棒を削りました。先端部分が1センチか2センチほど直径が小さくなりました。それだけで、「しなり」が出て来て随分と担ぎやすくなったことを覚えています。
 
大改修に伴い棒も杉に
 結局2011年、刺繍、金具、欄干の大改修に伴って棒も杉製に戻しました。また、太さも2005年の失敗を繰り返さないよう、削ったあとの太さくらいにしました。改修の勢いと、物理的な担ぎやすさが相まって、近年は元気な明石町屋台になってきています。
 
 
 
 
下町
三木に生まれた播州最大級
 播州でも最大級の屋台として知られているのが、ゴンタ太鼓としても知られている下町屋台です。モンスターとも言える巨大な姿になったのは、2007年くらいだったでしょうか。石段ではげしく落とす姿が、大宮八幡宮の祭の名物となってきました。
 
た。
 
洗練された最大級
 とはいうものの、宮入や宮出に30分かかるので、様々な改善がなされます。その中で最も見事だったのが指揮系統。荒くれたちを的確かつわかりやすく堂々と指示する様子は目を見張るものがあります。教育関係者必見です。
 そして、今回の主題である棒。当初は横棒を一本増やして押し上げるという方法をとっていましたが、なかなかうまくいっていなかったようです。
 しかし、近年驚異的な速さで下町が宮の上に姿を表すようになりました。下町より先に宮入りする明石町屋台に着いている管理人は、ここ近年、「シモもう上がってきたんや」という声を毎年聞いています。聞くところによると、棒を細く削って随分担ぎやすくなったとのことです。
 

↑早く宮入するようになった下町(左端)は、明石町(右端)と一緒に担ぐことも多くなった。

 
●担ぎやすい屋台の秘密
 よく聞くのが、岩壺神社の滑原屋台の担ぎやすさです。棒がよくしなり、見た目の割には担ぎやすくなっています。
 さぞかし高級の杉を使っているのかと思いきや。。。
 間伐材を譲り受けたもの(お礼としてあくらかはお渡ししたそうです)を使っているそうです。この棒がよくしなり、担ぎ手に評判のいい棒になっています。「高ければいい」ということではないのが、担ぎ棒の奥深さになっています。