月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

月刊「祭」2019 目次

2019-12-31 12:12:57 | 各年、目次、カテゴリ別

誤りの訂正
 本ブログ親ページ祭と民俗の旅播州三木(兵庫県三木市)美坂神社東這田屋台-篠山、淡路、姫路、富山の融合。太鼓台としての屋台-に誤りがありました。水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さまを始め、間違えた情報の掲載大変失礼いたしました。



はじめに
 本ブログおよび、「祭と民俗の旅」の文章・写真などの引用、参考は自由です。ただし、このブログに提供していただいた写真は、明記しておりますので、それの引用はご遠慮願います。また、引用、参考の際は、月刊「祭」を引用、参考した旨のご明記をお願いいたします。 写真や図とその解説は、画面を最大限に広げた時に一致するように作っていますので、できるだけ広い画面でご覧ください。

 이불럭과 「祭と民俗の旅」의 문장, 사진을 인용,참고하기는 자유입니다.  하지만, 이불럭에 제공주신 사진도 있어서 그런 것을 명기하니까, 인용하기을 삼가 바랍니다. 인용,참고할 때는, 이불럭을 인용,참고헀다기를 명기해 주십시오. 
  
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86.屋台、だんじり、太鼓台のインターネット上の重要資料とその課題(月刊「祭」2019.1)


月刊「祭」2011、2012 目次
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祭と民俗の旅復刻版 町のつくり
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祭と民俗の旅復刻版 伝説をめぐる
祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台
素人がアイヌ語から見たクラムボン2006

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249.禁教と信仰の折衝-長崎県大村市日蓮宗本経寺より-(月刊「祭」2019.12月12号)

2019-12-30 15:31:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●日本最初のキリシタン大名大村藩主・大村純忠
 今回も長崎県大村市・旧大村藩のお話です。大村の戦国時代末期の領主大村純忠は、日本最初のキリシタン大名と言われ、領民の多くがキリシタンを信仰していました。しかし、秀吉の天下統一や江戸幕府の発足を経てキリシタン禁教への圧力は厳しくなり、純忠の子で初代大村藩主となった大村喜前(よしあき)は加藤清正の勧めもあり、日蓮宗に改宗しました。その時に建てられたのが、本経寺です(本経寺案内板より)。
 では、いくら禁教政策をひいたとはいえ、そう容易く信仰の灯を消すことができたのでしょうか。そこには、公式の文書には記されにくかった現場ならではの折衝があったと見受けられます。
 そのために、日蓮宗を大村家に勧めた加藤清正が治めた熊本藩の事情を見ていきます。
 

↑本経寺の仁王門

↑朱塗りの、仁王像左側

↑朱塗りの仁王像右側

↑本経寺本堂

●戦国末期より江戸初期の熊本藩の事情
 加藤清正が熊本を治める前は、共に朝鮮半島に出兵した小西行長が熊本の領主として君臨していました。小西行長もクリスチャン大名であったものの、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、加藤清正に領地を譲ることになります。しかし、熊本もまたクリスチャンの領民が多く清正も頭を悩ませたことでしょう。
 清正自身は熱心な日蓮宗の信者でした。その日蓮宗では妙見信仰もさかんであり、妙見堂に使われたのがなぜか、竹矢筈十字紋と呼ばれる紋です。能勢妙見ももともとはキリシタン信仰の根強い地域で「いやいや法華」とよばれていたようですが、そこでも十字紋が使われています(参考サイト)。
 熊本においても、能勢においても、そして大村においても、信仰の根強いクリスチャンをすぐに改宗させるのは難しかったのだと思われます。そこで日蓮宗に十字紋を用い、形だけ改宗させたのが実情なのではないでしょうか。

●本経寺の十字
 本経寺で妙見堂を見つけることができなかったのですが、大村家の墓所には至るところに十字が見られました。

クルス灯籠
 禁教を厳しく履行した大村純長の七男大村次郎太の墓所ですが、灯篭の窓が十字です。大村純長は郡崩れ事件で、隠れキリシタンのいたことをすぐ幕府に報告し、仏教への改宗とキリシタンの取り締まりを強化して、改易やお取り潰しを逃れています。一方でキリシタンは斬首されるなどの憂き目を見ることになりました。しかしながら、一方的な改宗の強制だけでは、領民が納得しなかったのだと思われます。
 本経寺ではデザインがかわいいからとしていますが、あきらかな十字架です。藩の面目=仏教への、改宗という既成事実、領民の思い=信仰の継続という相反する要望の折衝点が、寺院の中の十字紋だったと言えるのでしょう。このような十字と思われるものは他にも見られました。





柵の十字
 柵には太くてわかりにくいですが、十字がならんでいました。





●笠塔婆も??
 笠塔婆と呼ばれる仏塔もともすれば、十字にみえるかも。。知れません。。。



御霊屋の背後には、、
 御霊屋の背後は、「柱」を模したものですが、十字に見えます。とくに、

↑御霊屋この背後は。。。


↑背後は十字に見える柱。石の板が三枚使われているので、三間にすれば、中心に十字が来ることはありません。あえて二間にして十字を中心に持って来ているようです。

↑こちらも十字が中心に来ています。一間でよさそうなものですが、なぜかニ間とっています。

手水
 上から見るとやはり十字でした。



●大村の禁教
 大村の禁教は熾烈を極めたものでした。しかし、恐怖だけでは領民は納得しなかったのかも知れません。藩を存続させたい大村家、信仰を存続させたい領民。双方の利害の折衝点が日蓮宗寺院の中の十字だったのだと管理人は考えています。



248.長崎県大村市墓の文化と土神(月刊「祭」2019.12月11号)

2019-12-25 14:36:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●長崎県大村市の石文化
 管理人が見たのは大村市の鈴田峠付近ですが、一つの特徴がありました。それが金文字です。最近のものとみられる墓や石碑の多くが金色で文字が書かれていました。



●墓の土神
 墓の多くもまた、金色の文字でしたが、赤などで書かれている文字もありました。



それが墓地の左側に書かれていた「土神」です。このサイトによると、長崎の唐人屋敷の土神と関係あるそうです。リンク先の方は大村市内でみつけられなかったとありましたが、諫早市に近い鈴田峠の専念寺ではたくさんの墓に土神と書いてある石も建てられていました。


その由来についてはこちらにありました。土地の神様から場所を借りて墓を建てているという考え方だそうです。

長崎市内の唐人屋敷にも土神(ドジン、ツチガミ)さんは祀られており、これも同じ考えが根底にあると言われています。




247.限界集落になっても屋台は残したいークラウドファウンディングによる六社神社屋台の新調修復ー(月刊「祭」2019.12月10号)

2019-12-24 11:19:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の工芸、新調、改修、修復-

 寄付に関してはこちら



 

●六社神社の名屋台

 読者の方よりのお申し出に答えての記事投稿になります。三木市細川町の六社神社の名屋台、ですが、いたみがはげしく新調修復を計画していらっしゃいます。

 ひとまずは現在の姿を紹介します。


↑見事な龍の刺繍 クラウドファウンディング該当ページより

 


↑屋根の薄い美しい均整のとれた屋台 クラウドファウンディング該当ページより

 

欄間・狭間彫刻

 欄間彫刻は昔の平屋根屋台らしく、上下間は狭いものになっていますが、躍動感にあふれた彫刻がほどこされています。

 

●クラウドファウンディング

 これからの身長や修復のやり方として注目されるかもしれません。管理人も寄付する予定です。

方針など

 新調・修復方針としては、百%修復とうわけではなく、新しいデザインなども取り入れるとのことです。読者のみなさまはたずさわる業者が気になるところかもしれませんが、今のところ公開されておりません。

 

背景など

 世帯は108件、そのうち年金暮らしの方が1/3をしめるそうです。そのようななかでも、屋台を子や孫にのこしたい、祭りの日にはみんなが帰ってこれる故郷にしたいとの思いで、新調修復を計画しています。


 上記の方針と背景をご理解頂いたうえでのご寄付にご協力いただけるとありがたく思います。
 管理人の連絡ミスで、ここまで遅くなっての情報公開本当に申し訳なくおもっております。素敵な新調・修復になることをお祈りして今号の筆をおくことにします。


 寄付に関してはこちら

 

246.京都祇園祭二つの船鉾、鷁と龍の理由(月刊「祭」2019.12月9号)

2019-12-22 21:19:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●祇園祭二つの船鉾の船頭
 祇園祭には神功皇后の三韓遠征の行きを現した船鉾、帰りを現した大船鉾があります。夏頃にその工芸の見事さを記事にしました。今回は「なぜそれが使われているのか」について考えます。
 その題材は船の頭についているものです。では写真を見て見ましょう。 

↑船鉾の鷁

↑大船鉾の龍頭
 
なぜこのような龍と鷁が船頭に選ばれたのでしょうか。前の記事では平安時代には龍頭と鷁頭を一対にして航海の安全を祈る習慣があったと書きました。しかしこれらの船鉾、大船鉾の鷁と龍頭が作られたのは江戸時代後期。なぜこのような鷁と龍頭が復活したのでしょうか。
 
 たしかに神功皇后の三韓遠征図などには龍頭の船が描かれていたりもします。しかし、綺麗に揃う根拠としての文書を見つけたので紹介して見ます。
 
●「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の牛頭天王伝承
 安部晴明が編集したと伝わり、じつは後の世の祇園社関係の方が書いたと考えられているようです。この中には祇園社の牛頭天王の伝承も記されています。詳しくは割愛しますが、この記事の主題に該当する部分だけ脇田晴子「中世京都と祇園祭」(中公新書)1999を参考にして、お話しします。
 ざーっくり言うと、祇園社の祭神でもある牛頭天王は、嫁さんを求めて旅しているときに、蘇民将来から用意してもらった船が「龍頭鷁首に似た船」だったそうです。
 船鉾、大船鉾ともに祇園祭の前祭、後祭の巡行でそれぞれ一番後ろを行く鉾です。このような重要な鉾だからこそ、牛頭天王の船に似せて作り替えられたのかもしれません。
 
 
 

245.長崎県大村市鈴田峠石「押し」の理由(月刊「祭」2019.12月8号)

2019-12-18 22:46:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●長崎県大村市鈴田峠は石「押し」
 長崎県大村市の鈴田峠道の駅の案内板を見ると、付近の名所は、「石」のものが非常に多いです。管理人はこのうちの藩境石を探したのですが見つけることができませんでした。
 



●石はよく使われていました。
 案内板にあるものの他にも石で作られた、ほこらやお堂はよく見られました。1メートルの高さ、幅、奥行きにいたるくらいの大きなものがよく見られました。では、なぜこのようなものがよく見られるのでしょうか。






●石を使った村づくり
 鈴田峠のあたりは山あいの地域で、川と道に沿うように山の中腹から麓に村落が作られています。
 田んぼもありますが、斜面に作られる棚田が主体でした。このような山の斜面に田や畑、家を作るので、石垣が組まれることも多いようです。このような石の常用が、石を使った信仰物が盛んに作られるきっかけになったと思われます。













244.ソウルの獅子?(月刊「祭」2019.12月7号)

2019-12-17 12:31:00 | コリア、外国
●ソウルに獅子?
 写真は、ソウル市の慶福宮近くの曹渓寺の石の動物像です。獅子?でしょうか?よく見ると鱗が見えます。







獬豸•해치•ヘチ
 これらの動物はヘチといいソウルの象徴的な動物で、鱗や羽も付いているそうです。夏は水辺に、冬は松林に住み、ソウルの慶福宮を守護する想像上の動物とされてきました。説明文が地下道にありました。












●見た目は獅子、実際は?
 ソウルのヘチ、見た目は獅子でした。門にいるのも逆さや狛犬に近いように思えます。しかし、鱗があり羽が生えているとなると、、、実はヘチは飛龍ににているのかもしれません。









243.長い蛇-その語源-(月刊「祭」2019.12月6号)

2019-12-16 12:56:00 | コリア、外国
●蛇
 今年は蛇年ではありませんし、来年も違います。ですが、日本文化を語る上で外せない、蛇。その語源を探ります。
 さて、蛇と言えば「長い」ものの象徴とも言えます。

↑三木市大宮八幡宮城山屋台の欄間彫刻

●ヒンドゥーの蛇、タイのヘビ
 ヒンドゥー教や東南アジア地域の仏教でも蛇や龍は大切にされています。下の写真はタイの仏教寺院であるワットポーの仏像てすが、光背がなんと蛇です。





 ヒンドゥー教では蛇は「ナーガ」と呼ばれています。タイ語では「ナーク」。これらの言葉が日本語の「ながい」の元になっているように思えてきます。

●中国語の蛇、長い
 漢字はもちろん、蛇と長です。その発音、蛇はshe(eの上に')で管理人の耳ではシェとジェの間に聞こえました。長はzhang(aの上にvのような記号)。日本の音読みの元になっていることがわかります。

●韓国語の蛇、長
 蛇と長の漢字を韓国語式で読むと、蛇は사・サ、長は장・チャン、ジャンです。やはり日本語の漢字の音読みに近いものがあります。さて興味深いのは、韓国固有語のヘビです。それは벰・ペム。日本語のヘビに似ています。


↑韓国全羅道華厳寺観音殿の天蓋、龍ですが蛇が元ということで。


●長いと蛇から考える日本文化
 これらを見ると、日本文化や日本語はどれか一つの地域の文化の影響を受けているわけでなく、いくつかの複数の地域の影響をうけて、成り立っていることがわかります。「長い蛇」で考えると、ナガをもたらした、ヒンドゥー教地域などの文化、チョウ、ジャをもたらした漢字語文化、ヘビに影響を与えたと思われる朝鮮半島の固有文化などが元になっていると考えられそうです。


242.大村市中里大神宮社-神社の竹と石-(月刊「祭」2019.12.5号)

2019-12-14 15:56:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●竹にさしましょう
 今回紹介する長崎県大村市の大神宮神社(アクセスなど)沿革は後で述べるとして早速建物を見ると、注連縄の下に気になる?ものがあります。


↑注連縄の下には榊らしきものが立てられていますが、竹の筒に入れられています。

↑大神宮神社のすぐ隣の小さな神社も。。

↑中を見るとやっぱり竹の筒で御幣が立てられています。

 神社を考える上では末端のことかもしれませんが、ちょっとしたらアイデアだし、もしかしたら、一つの文化を掲載する事象かも!?知れません^_^

●先祖と幕府の狭間で
-キリシタンの名残!?-







 今回紹介するのは、長崎県大村市大里の大神宮神社(アクセス等)です。元々は古松大権現と呼ばれていたそうです。江戸期には天正二年(1573)のキリシタン社寺焼討ちによって破壊されたそうです。その後寛永十三年(1636)藩主大村純信によって復興されたとのことです。純信自体は幕府と共に徹底してキリシタン弾圧を行ったそうです。
 ですが、大村氏の開祖である純忠はキリシタン大名として知られていました。これらの名残は見られないのでしょうか。
 
 ところで、先程紹介した大神宮は明治期に別の場所から移してきたものです。それ以外にも下の写真のような石のほこらがありました。こちらが古松大権現の名残に見えます。





↑扉を見ると×の模様がのこっています。これらは、一説に十字架を表すものとも言われています。

 神社を復興した純信。そして、キリシタン弾圧をするなど禁教後もこの地を納めた大村氏。しかし、大村氏の威光を示すためには開祖が信仰した十字架が必要だったのかも知れません。



 
 
 

241.鬼瓦!? の金色部位は福の神??(月刊「祭」2019.12.5号)

2019-12-13 15:20:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●鬼瓦とは?? 
 鬼瓦とはなんでしょうか? 他者様のサイトですがこちらを見れば一目瞭然です。元は瓦の端に鬼の顔を置くことで、悪いものが鬼を恐れてやってこないことを祈るためのものだと思われます。しかし、鬼瓦とは名ばかりの悪いものを払うというより、福を呼び込むようなもの、そして一族の繁栄を望むと思われるものが、日本各地(といっても訪れたのは西側の三箇所)で見られました。
 そして、金色に着色されているものもあったので、それらを紹介します。

●長崎県大村市

↑梅鉢の紋でした。

↑梅鉢の鬼瓦のあった家のきのかべは横に板が渡されています。この工法は北前船に通じるものだそうです。だからといって、金色の鬼瓦も北前船とともに伝わった!!というのは、早計です。

●京都府峰山町



↑おそらくエビスさんでしょう。。

↑金色ではありませんが、家紋らしきものが彫られています。

●岡山県真庭市
 三浦氏が関わったとされるとある寺院です。



↑やはり、三浦氏らしく三の家紋が金色に輝いています。


↑近隣の民家には上のような、老人の顔がきんいろにいろづけされていました。長崎県大村市のものと同じエビスさんか??とも思ったのですが、ちがうようです。
 それは、下の金色でない瓦が教えてくれました。
 

↑打ち出の小槌です。この辺り一体は老人の顔とこの打ち出の小槌がかなり多く、やはり同じく服を呼び込むことが願われていると思われます。そして、打ち手の小槌をもつ福の神は大黒さまということになります。