月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

298.仏教語からできた名詞(月刊「祭」2020.8月4号)

2020-08-14 03:38:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●仏教国日本??
 管理人の母方の家は曹洞宗(南無釈迦牟尼仏と唱える)で、そのご住職さんは、日本という国は仏教国だとおっしゃっていました。確かに、ググると国民の7割が仏教信者であり、同時に神道の信者でもあるようです。
 実際に、自分の家が属している宗派やお寺のお坊さんにたのんで葬式をあげてもらい、七五三、正月、子どもが生まれた時などは神社にお参りするという人はかなりの数に上ることでしょう。これらは日本が長い間、神仏習合国、あるいは本地垂迹国であったことによると思われます。本地垂迹は仏さんが真の姿、神さんは仮の姿という考え方で、こちらの方が主流の歴史がやはり長いことを考えると、日本が仏教国という言葉も肯けます。そんな仏教国日本には、仏教語が名詞化したものがいくつかあるので、それを紹介します。

●説教
 本来はお坊さんがお弟子さんや信者さんに経典や仏教の教えを説くという意味であったと思われます。お坊さんが経典や仏教の教えを説いているように見えることから、一般の人が仏教や経典にも関係ないことを教えたり注意したりする様も、「説教する」と言われるようになったと思われます。



●仁王立ち
 仁王立ちと言われると、ずっしりと立って下を見下ろすイメージがあります。これは、寺院の山門などで置かれる大きな仁王像が人々を睨み下ろしている様相に似ていることからきています。Googleで画像検索すると腕を組んだり、手を腰にやるなど左右対象の画像が多いですが、実物は左右非対称のポーズをとっていることがほとんどです。
 また、仁王像は口を開いた阿形と口を閉じた吽形の二体一組となるのが常ですが、「仁王立ち」の場合は口をへの字に閉じた吽形のイラストがググると目立ちます。


↑長崎県大村市本経寺の仁王像 阿形


 長崎県大村市本経寺の仁王像 吽形








↑「仁王立ち、イラスト」でググると左右対象ポーズ、口をへの字に閉じた吽形が目立ちます。

●阿弥陀如来の後光からできた言葉
 西方浄土、極楽浄土の如来として日本で親しまれてきたのが阿弥陀如来です。念仏と言えば、「ナンマンダブ・南無阿弥陀仏」と連想する日本人は多いことでしょう。そして、西方浄土の阿弥陀如来から連想されるのは西日を背にした姿でした。それはまさしく背中に後光をまとったように見えたことでしょう。
 例えば兵庫県小野市浄土寺の浄土堂には阿弥陀如来が東向き、つまり西側を背に鎮座していました。そして旧暦三月十五日の来迎会という阿弥陀さんが西から間になるさまを表す儀式の日ごろになると、ちょうど真後ろに日が沈むようになっており、中の阿弥陀如来像(撮影禁止)は西日を受けて、さながら後光をまとっているように見えたものと思われます。

↑兵庫県小野市浄土寺浄土堂
 中には阿弥陀如来が鎮座する




↑兵庫県小野市浄土寺浄土堂裏の旧暦三月十五日(2009.04.09)の落日


 このような西日とのかんけいで後光と言えば阿弥陀を連想する人が日本では多くなったと考えられます。そして、阿弥陀如来像でも後光が象られたものが多く作られました。そして、この放射状に伸びた後光が「アミダ◯◯」という言葉を生み出していきます。


↑太山寺常行堂の阿弥陀如来。後光が放射状に伸びています。

アミダクジ

↑今現在のあみだくじ

 今日使われているあみだくじは、上のように梯子状のくじになっています。これでは、おおよそ阿弥陀如来の後光とは似ても似つきません。阿弥陀堂でよく行われた富くじの類かなと管理人は考えましたが違うようでした。
 Wi◯ぺdiaによると、室町時代頃からこのくじはみられましたが、梯子状ではなく放射状に描かれていたので、それが阿弥陀如来の後光に見えたので、「あみだくじ」と呼ばれるようになったようです。
 コトバンクの「あみだくじ」の記述や、その元になった『日本大百科全書』(小学館)1984(倉茂貞助が該当記事を執筆)では、江戸末期に流行し、一種の賭け事に使われていたことが書かれています。





 近年では日本を代表するお笑い芸人明石家さんまさんが扮したアミダババアたるキャラクターのテーマソング・あみだばばあの唄(桑田佳祐作詞作曲)で、「あみだくじーあみだくじー♪」と歌を歌いながら自分のくじをなぞまた思い出が管理人にはあります。



↑「アミダばばあの唄」でYouTube検索した結果。


↑目と耳をひいたタカサキユキコさんの編曲、演奏、歌唱。素敵な歌声とシンプルな楽器演奏で乱文で乱れた心を癒してください。

アミダ
 人力車にも通称「アミダ」と呼ばれる部位があります。ABCのどれだと思いますか?


 正解はAです。お客さんの頭上の雨よけ日焼けの屋根をかぶせたり被せなかったりするための開閉式の骨組みの開いた様子が阿弥陀如来の後光に似ていることからアミダと呼ばれたそうです(某人力車会社の方のご教示)


●観音扉(観音開き)
 2枚の扉の両端を軸に、中心の合わせ目が左右に開く、観音扉(ウィキpディアが簡潔に表現していたので参考にしました)。
観音様を祀る祠や厨子がこのような開き方をすることから、この両開きのものを観音扉と呼ぶようになったと思われます。
 お寺のお堂の場合、観音開きだけでなく、横に引くものもかなり数多くありました。あくまで個人的な憶測ですが、
人間が入れない扉・・・観音開き
すごく大きいとは言えない建物の扉・・・引き戸
相当大きな建物・・・観音開き
が多い気がします。

 
 また、「観音扉」は、神社にも多く見られました。

↑千葉県流山市神明神社内摂社の祠

↑兵庫県三田市西山神社

トラックの「カンノン」
 箱型トラックの荷台後ろの扉も、観音開きになることから、両サイドが羽のように上がって開く「ウイング」に対して、業界内では「カンノン」と呼んでいます。


↑トラック後部の両開きの扉はカンノンと呼ばれる。

●すぐ思い浮かべられる名詞化した仏教用語から見えること
 すぐ思い浮かべられる名詞化した仏教用語には、「観音、阿弥陀」が多いように思います。多くの日本人にとって、「ナンマンダブ・南無阿弥陀仏」などの念仏、西国三十三所や四国八十八ヶ所などの観音さんが、かなり馴染み深いものだったことが見えてきます。
 神さんの祠でも、左右それぞれまわりのドアが中央で合わさる形の扉は「観音扉」。神仏習合の名残はあちこちに残っているみたいですね。



297.運転手が新型コロナ感染防止のために直すべきこと(月刊「祭」2020.8月3号)

2020-08-12 21:03:00 | 新型コロナと荷役の政(まつりごと)

●愚か? やる気がない?
むしろ感染拡大を狙ってる?国交相と運送大手のトップ
 自分の働いている業界の大元にこんなことは言いたくはありませんが、上のどれかしか考えられません。
 自粛期間中であっても運送業は営業せざるを得ません。その中で必要なのが、どのように感染防止をするかの教育ですが、「三密を避けましょうや、手洗いうがいきっちりしましょう」などと幼稚園の子どもでも言えることを壊れたテープレコーダーのように唱えるだけです。
 少なくとも大手なら協力会社と宣う実質下請けの会社の運転手にも教育するべきですが、「何が何でも」そういうことはしていません。もはや、何が何でも感染させてやるという固い意志すら感じてしまいます。
 彼らがすることといったら、感染したことを隠すくらいでしょうか。このままでは、運転手は感染者だらけになる可能性も考えられます。そこで、再び感染防止法を考えてみました。前の記事で似たようなことも書いていますが、当てはまる人は特に気を付けてください。

×荷物、伝票など自分のもの以外を触った後、手洗い消毒なしで、ハンドルを握る
 ↓
◯荷物、伝票、ドアノブ、はしご等をさわったら石鹸で手洗い、無理なら消毒をする。消毒前にハンドルなどを触ってしまったらそこも消毒する。
 運転席中で飲食をする運転手も多々います。その時に必ず手を綺麗な状態にしていることが必要です。見る限りでは実行していない方がほとんどでした。
 なぜ、大手企業や国交相はこのへんのことを厳しく注意・指導しないのでしょうか。時々、これをしてほんの1分出発が遅れることを好ましくないと思っている空気を感じることもあります。

×休憩に飲み物を手洗い、消毒なしで、飲む。
 ↓
◯飲む前に、手洗いか消毒をし、口をつけるところも洗い流すか、消毒をする。
 暑い季節によく見る風景です。誰の飛沫が飛んでいるか分からないものを触った手でそのまま、飲むのも良くありません。

×××作業が遅れるのをばはかり、手洗い消毒をせずにすます。
  ↓
◯◯◯作業中が少し遅れても感染防止を徹底させるべき
 

編集後記
 危機感がない。やる気がない。むしろ感染拡大を狙っている。各業界のトップはそう言われても仕方ありません。経済回すために必要な教育がなされないことに、憤りを覚えます。


 

296.コロナ禍中のお盆(月刊「祭」2020.8月2号)

2020-08-12 20:23:00 | 新型コロナと祭、民俗

●感染再爆発
 我が国が誇る偉大な政府の、den tooならぬgo toたる感染再拡大政策により、規制は自粛を勧められるようになりました。
 屋台、地車の賑わいものは中止になっても根幹的な神事は、止まらないように、お盆の仏事もまた、同様のようです。どのような形になって、お盆の仏事が行われたのかを我が家の例を報告します。

●帰省の自粛
 楽しみだった親戚同士と会える場も、年配者のことを考え今年は見送ることになりました。各々三木や近隣にいる人で墓参りだけはすることになります。



●僧の檀家廻りの中止
 金剛寺では感染の拡大を警戒して、ご住職の檀家周りが中止になりました。その一方で、地区ごとに決まった日の午前10時から1時間半くらいかけて、ご住職さんは本堂で、各檀家の仏さんの名を唱え読経し、寺の総代さんがサポートしたそうです。
 その時間の間、各家では仏壇に蝋燭と線香を焚いてくださいとのことで、我が家でもはじめにつけた線香が消えるまで焚き続けました。

 全ての寺が自粛したわけではなく、違う寺の信者の家ではご住職さんが来られているところもありました。

●精霊流しの実施
 美嚢川沿いで行われる精霊流し(といっても、実際には川には流しませんが)は行われます。しかし、帰省者は昨年より減ることが見込まれ、風景はまた少し変わったものになるかもしれません。


295.神仏分離令先駆けの神号重視-千葉県流山市香取大神宮の庚申碑から-(月刊「祭」2020.8月1号)

2020-08-11 20:59:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●祭オタクの間で必ず上がる神仏分離の話題
 祭りを見て歩き、古いものに触れるたびに話題に上るのが明治期に発せられた神仏分離令廃仏毀釈令です。これらは、発布されたその日からガラリと変わるというよりも、それに先駆けた動きが処処に見られるようです。
 今回は神仏分離に先駆けた動きを、千葉県流山市香取大神宮の庚申碑から読み取りたいと思います。

●明神から大神宮へ
 香取大神宮は昔からそう呼ばれていたわけではないそうです。もともとは、創建と伝わる神護景曇二年(768)より経津主命と豊玉姫命を祀り桐斎殿と呼ばれ、やがて桐明神と呼ばれるようになったとのことです。もちろん創建年代をそのまま信じることはできませんが、香取大神宮の前の呼び名の前は桐明神と呼ばれていたことは確かです。
 その後、文政五年(1822)郷主藤原利之が領主らとともに官(幕府?朝廷?)に神号を香取大神宮に改めることを申し出て認められたとのことです。「香取」としたのは、香取神宮にも経津主命が祀られていることからだと思われます。この時点で郷主藤原利之や領主は、記紀神話に傾倒していたことが窺えます。
 そして、この大神宮号の取得が、当時行われていた庚申講のことが記された石にも現れていました。

↑香取大神宮



↑楼門中の随身像。仁王さんなどから神仏分離、廃仏毀釈を経て多くの神社の楼門が随身さんに変わりました。




●庚申碑の変化
 庚申待ちをした記録が記された石をここでは、庚申碑と呼ぶことにします。ひとまず庚申信仰について、大塚民俗学会『日本民俗事典』(弘文堂)昭和47年、このサイトウィキpediaを参考に書いていきます。

庚申待ち
 六十干支の庚申の日に行われる行事です。庚申の日の夜には、体内の三尸(上尸、中尸、下尸)の虫が人間の罪を天帝に告げ、天帝がその人間の寿命を縮めると道教では考えられており、それを防ぐために徹夜して見張るようになりました。
 仏教や神道とも習合し、仏教式ではよく「青面金剛」が祀られました。また庚申が申(さる)であること、「三」尸の虫から、青面金剛の使いは「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿とされました。

香取大神宮の庚申碑
 では、香取大神宮境内にある庚申碑を年代順にみていきます。


↑宮入り口左側の庚申碑 左からa,b,c,dとします。


↑宮入り口右側の庚申碑 左からe,f,gとします。

大神宮号取得前の庚申碑
 まずは、大神宮号取得前、桐明神と呼ばれていた時代のものを見ていきます。

f

↑f 青面金剛


↑f側面 天明二年(1782)

d

↑d奉十庚申□諸願成就門(所?)

↑d側面 文化九年(1812)

c

↑c青面金剛

↑c 側面 文化十三年(1816)

g

↑g これは年代が分かりませんでした。
 
 青面金剛という仏教色を前面に出しています。青面金剛が書かれていないdも梵字が見られます。これは、他の青面金剛なものと同じなので、これもまた青面金剛を祀ったものと考えられます。最も古いf以外は三猿が下部にしつらえてあります。では、香取大神宮という神号を文政五年(1822)取得した後の庚申碑はどう変わるのでしょうか。

大神宮号取得後の庚申碑
b

↑猿田彦大神

↑天保五年(1834)

e

↑e庚申 嘉永元年(1848)

a

↑猿田彦大神

↑安政七年(1860)

 大神宮号取得後のものは、青面金剛も梵字も全て消えました。その代わりに現れたのが、庚申の申(さる)や三猿の信仰から派生したと思われる、猿田彦大神の名です。大神宮号取得という記紀神話路線に香取大神宮が舵を切ってからは、庚申待ち行事も、青面金剛から猿田彦大神へと祀る神仏が変容したことが、庚申碑から分かりました。
 一方で庚申待ちという行事自体は残り、それな伴う猿の重視は猿田彦大神の名と共に強くなったのかもしれません。

●さらに古いものから消えたもの
 境内の中にはさらに古いものが残っていました。
 
謎の石
 一応謎の石としておきます。次に述べる同型のものには二十三「宵待」とあることからこれもまた庚申碑だと思われます。
 宝暦十三年(1763)のように十三を重視しているのが、興味深いところです。




二十三宵待
 こちらは寛政二年(1790)のものです。二十三宵待ちとしているところから、庚申碑だと思われます。




消えたと思われるもの
 この二つの庚申碑と思われるものは、建物型をしていますが、肝心の中身になるものが見受けられません。何か前に置かれていたのが、剥がされているようにも見えますし、剥がされてなくても何かを置くスペースがありそうです。そのヒントになるかもしれないものが、五百メートルほど南の神明神社の庚申碑にありました。
 こちらは、屋根はついていませんがそれぞれ上の宵待ち石に近い時代のものになっています。見ると六本の腕を持った青面金剛と思われる尊像が彫られています。もしかしたら、上の宵待ち石にもこのような尊像が彫られていたのかも知れません。



↑宝永元年(1704)

↑寛政元年(1789)