月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

54.退治してもいいの?いいんです!(月刊「祭」2016.5月)

2016-03-23 22:04:10 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

播州屋台の高欄がけの主要デザインといってもいいのが退治物です。この高欄がけの退治物は十二支や四神の思想に照らし合わせて東西南北のものを左右前後に配置します。それを
四年ほど前の記事を引用してみましょう。

 高欄掛の退治物でも、朱雀に通じる鷲退治は前、白虎に通じる虎退治などが左、青龍に通じる八俣大蛇退治などは左となります。もしくは、鷲を酉として右、八俣大蛇を巳として南をあらわす前、虎を寅として右というようにしているところもあるかもしれません。





上の文の後、差し上げた時に方角が一致する例をあげたのがリンク先の四年前の記事です。が、実は四年前の記事、立ち止まるべきところで立ち止まっていません。立ち止まるべきところは下の疑問です。そして、その疑問に結論から答えます。

四神なのに退治してもいいの?
いいんです(ジョンカビラ風)!


その理由をみていきます。

◯殺牛など各地の生贄を備える風習。
「日本霊異記」では、牛を殺して漢神に捧げる風習があったことが記されています。「霊異記」では殺された牛が祟って「牛頭人身」の怨霊となってあらわれてきます。その後、殺生をやめて放生をするようになったと「霊異記」では続きます。管理人はこの殺牛風習の代替物として牛の皮を使った太鼓も普及したと考えています。
牛馬を殺して供えるのを禁止されるようになったと「日本書紀」では残されています。一方、猪などは猟師さんたちによって山の神に捧げられていたようです。また、絵馬も生きた馬を殺していたもののかわりに納めるようになったとも言われています(吉野裕子「十二支」人文書院 1994)。
陰陽道の研究などで知られている村山修一氏は年代に隔たりがあることから否定されていますが、牛頭天王は殺牛信仰が転化したもの(吉野前傾著書)とも考えられそうです。そうなると殺されても神聖なものであったり、あるいは神であったりすることがわかります。

◯八岐大蛇
そして、退治物の高欄がけでも扱われている素戔鳴尊の八岐大蛇退治。これもまた、素戔鳴が退治した大蛇の尾からは剣が出てきます。そして、それが即、熱田神宮の御神体にもなっています。

このことからも、退治されるものも、神聖なものとみなされる基本的な考え方を伺えます。

◯アイヌ神謡集の世界
アイヌ神謡集では殺される動物神の様子が一際わかりやすくなります。
Kamuychikap kamuy yaie yukar
フクロウの神が自ら歌った歌として、下のように、神が矢を受け取るという表現になっています。
また、アイヌの間ではイヨマンテ(熊送り)といってキムンカムイ(山の神=熊)を殺してあの世に送り返すという儀式をおこなっていました。

Wenkur hekaci
貧者の子は
oat cikiri otuyma asi oat cikiri ohanke asi
片足を遠くに立て片足を近くに立て
pokna papusi sikoruki yoko wa an ayne
un=kotusura.
下唇をぐっと噛みしめて狙っていて
ひょうと射放した。

Tapan ponay ek sir konna tonnatara.
小さい矢はひゅーっと飛んで美しい光を放った。

Sirki ciki
それを見て
ci=santekehe ci=turpa wa
私は手を伸ばして
nean ponay ci=esikari.
その小さい矢をつかみ取った。

Sikacikaci=as
くるくる回って
rap=as humi
下り降り
ci=ekisarsut
私は風をきって
mawkururu.
舞い下った。



このようにやまと文化圏をはじめとしてをはじめとする東アジア地域では、仏教流入以前は動物の殺害がその聖性を否定するものではなかったといえます。その名残が屋台の高欄がけにもあらわれているといえます。


●編集後記
 今回は、アイヌ神揺集をとりあげました。
 19歳のアイヌの少女知里幸恵が、命を燃やして残してくれた、はじめてのアイヌ伝説をアイヌ語のまま残した書籍です。アイヌのみならず、日本文学史を語る上では、決して欠かすことができない歴史的作品(作品という言葉安っぽい気もしますが)です。にもかかわらず、例えば、公務員試験の参考書の文学史にも出ていることはないし、おそらく教科書に記されていないようです。つまり、現在の公務員試験も教科書も大きな欠陥がある可能性が極めて高いということを裏書しているといえるでしょう。

 言語にしろ、文化にしろ、大きなものに追従する傾向が顕著になってきているように感じてなりません。
 大きなものに盲目的に追従し、独自性を失うとき、それは、祭の活力が失われるときかもしれません。

 知里幸恵は序文でこのようなことばを残しています。
「けれど・・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、滅びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しいことでございます。