●「京雀跡追」の記述
この記事では『京雀跡追』に長刀鉾の長刀が弁慶のものであると書いていることを述べました。それは、「跡追」いする前の『京雀』でも、弁慶の長刀である事が書かれています。『京雀』の発行は明暦四年(1658)年で和泉守金道が長刀を打つ前の成立となっています。なので、金道が長刀を打ったと言う記述は当然ありません。また、三条小鍛冶宗近が長刀を打ったという記述も見られないところは興味深いところです。
これも前の記事で述べたところですが、『祇園会細記』の長刀鉾の天王像は船を担いでおり、和泉小次郎であると考えられます。つまり、和泉守金道たるものが、長刀を打ったことによって長刀の持ち主とされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったと述べました。
そこで、長刀鉾の天王像の変化を見ていきたいと思います。
●描かれた長刀鉾から
洛中洛外図などの室町時代から江戸時代初期の屏風絵では、長刀鉾の天皇像にあたるものはみあたりません。
祇園祭礼図(サントリー美術館像・16世紀頃?・佐藤康宏『日本の美術 第484号 祭礼図』(至文堂)2006の表紙)
↑御霊会細記の長刀鉾(管理人模写)
↑『御霊会細記』の天王像。伝説の通り和泉小次郎が船を担いでいます。
しかし、元禄十七年(1704) の序があり、題簽(だいせん)に宝永(1704〜1711)とあることから(仏教大学図書館の解説より)、1704-1711年頃の様子が描かれていると思われる『花洛細見図』では、天王像は船を担いでいません。また、人物は船を担ぐのではなく、船に乗っています。文面では三条小鍛冶宗近が刀を打ったこと、霊験あらたかで和泉守金道が新たにつくったことが書かれています。ですが、やはり和泉小次郎の長刀であるとは書かれていません。
長刀鉾の長刀が和泉小次郎の長刀であると伝えられ始めるのは、管理人が見る限りでは、『続 祇園御霊会細記』文化十一年(1811)年頃がはじめです。
つまり、和泉守小次郎が長刀を新たに打ったことにより天王像が和泉小次郎となり、それによって長刀の持ち主も和泉小次郎と伝わるように変化したと思われます。では、船に乗る人物は誰なのでしょうか。
●船に乗る人物
(ここの画像は本当はカラーです。是非本物を見るか、本を見るかしてください。)
延宝三年(1684)に和泉守金道が長刀を打つ直前のものと思われる絵が、1660年代と思われる「祇園祭礼絵巻(以下絵巻)」(狩野博幸 山路興造 藤井健三『近世祭礼・月次風俗絵巻』(花林社)平成十七年所収画像もこの本より)↓
↑絵巻
と、それと同時期と見られる(なんかの本でみたけど、コピーをなくしました)永青文庫の「祇園祭礼図巻(以下図巻・画像は祇園祭編纂委員会 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(筑摩書房)昭和五十一年)より↓」です。
↑図巻
「絵巻」の方を見ると船の上に二人いることがわかります。また、『図巻』の方も二人のっており、大柄な人物と小柄な人物が乗っています。『京雀』の記述を考えると、船に乗っているのは大柄な弁慶と小柄な義経だとも考えられます。
後の祭の橋弁慶山が弁慶と義経の『五條大橋』ならば、船に乗る弁慶と義経は『船弁慶』でしょうか。
●長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化
長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化はおおよそ次の通りだと思われます。
船弁慶をモチーフにした三条小鍛冶宗近の長刀
天王像も船弁慶
↓
和泉守金道が長刀を新造
同時あるいは間もなく天王像を和泉小次郎の船担ぎに変更
↓
長刀の持ち主が和泉小次郎にかわる。