月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

266.京都祇園祭山鉾巡行のシンプルな法則(月刊「祭」2020.3月4号)

2020-03-24 02:03:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●いきなり結論から
 江戸時代前期(あるいは応仁の乱前後)から江戸時代中期までの祇園祭の山鉾巡行の前祭と後祭に共通したきまりは、船形の「船鉾」が最後尾を、そして、弁慶の長刀(と義経)が先頭を行っていた可能性が高いということです。
 この結論を導いた理由として、
①前祭、後祭ともに船鉾が最後尾を行っていたこと
②明治のはじめまでは後の祭の先頭は橋弁慶山であったこと
③長刀鉾の長刀が、元々は弁慶が持っていたものと伝わっていたと考えられること
④長刀-船の先頭と最後尾が前祭、後祭が揃えられており、船鉾は神功皇后一行の行きと帰りというふうに、前祭と後祭でテーマが揃えられているので、先頭の長刀もテーマが揃えられていてもおかしくない。
⑤こちらのサイトによると、「長享銘尽」という書物には、弁慶の長刀・岩融(いわとおし)もまた三条小鍛冶宗近が打ったものとされており、その伝承を長刀鉾が引き継いだと思われること
そのうち、①②は周知の事実としてよく知られていますが、③④について詳しくみていきたいと思います。

●「京雀跡追」の記述

 この記事では『京雀跡追』に長刀鉾の長刀が弁慶のものであると書いていることを述べました。それは、「跡追」いする前の『京雀』でも、弁慶の長刀である事が書かれています。『京雀』の発行は明暦四年(1658)年で和泉守金道が長刀を打つ前の成立となっています。なので、金道が長刀を打ったと言う記述は当然ありません。また、三条小鍛冶宗近が長刀を打ったという記述も見られないところは興味深いところです。

 これも前の記事で述べたところですが、『祇園会細記』の長刀鉾の天王像は船を担いでおり、和泉小次郎であると考えられます。つまり、和泉守金道たるものが、長刀を打ったことによって長刀の持ち主とされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったと述べました。

 そこで、長刀鉾の天王像の変化を見ていきたいと思います。

●描かれた長刀鉾から

 洛中洛外図などの室町時代から江戸時代初期の屏風絵では、長刀鉾の天皇像にあたるものはみあたりません。




祇園祭礼図(サントリー美術館像・16世紀頃?・佐藤康宏『日本の美術 第484号 祭礼図』(至文堂)2006の表紙)

 前の記事でも挙げた宝暦七年(1757)の「祇園御霊会細記」では、天皇像は和泉小次郎と思われる舟を担いだ絵が描かれています。


↑御霊会細記の長刀鉾(管理人模写)


↑『御霊会細記』の天王像。伝説の通り和泉小次郎が船を担いでいます。

 しかし、元禄十七年(1704) の序があり、題簽(だいせん)宝永(17041711)とあることから(仏教大学図書館の解説より)1704-1711年頃の様子が描かれていると思われる『花洛細見図』では、天王像は船を担いでいません。また、人物は船を担ぐのではなく、船に乗っています。文面では三条小鍛冶宗近が刀を打ったこと、霊験あらたかで和泉守金道が新たにつくったことが書かれています。ですが、やはり和泉小次郎の長刀であるとは書かれていません。

 長刀鉾の長刀が和泉小次郎の長刀であると伝えられ始めるのは、管理人が見る限りでは、『続 祇園御霊会細記』文化十一年(1811)年頃がはじめです。

 つまり、和泉守小次郎が長刀を新たに打ったことにより天王像が和泉小次郎となり、それによって長刀の持ち主も和泉小次郎と伝わるように変化したと思われます。では、船に乗る人物は誰なのでしょうか。

●船に乗る人物

(ここの画像は本当はカラーです。是非本物を見るか、本を見るかしてください。)

宝三年(1684)に和泉守金道が長刀を打つ直前のものと思われる絵が、1660年代と思われる「祇園祭礼絵巻(以下絵巻)(狩野博幸 山路興造 藤井健三『近世祭礼・月次風俗絵巻』(花林社)平成十七年所収画像もこの本より)↓


↑絵巻

と、それと同時期と見られる(なんかの本でみたけど、コピーをなくしました)青文庫の「祇園祭礼図巻(以下図巻・画像は祇園祭編纂委員会 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(筑摩書房)昭和五十一年)より↓」です。


↑図巻

 「絵巻」の方を見ると船の上に二人いることがわかります。また、『図巻』の方も二人のっており、大柄な人物と小柄な人物が乗っています。『京雀』の記述を考えると、船に乗っているのは大柄な弁慶と小柄な義経だとも考えられます。

 後の祭の橋弁慶山が弁慶と義経の『五條大橋』ならば、船に乗る弁慶と義経は『船弁慶』でしょうか。




長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化

長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化はおおよそ次の通りだと思われます。

船弁慶をモチーフにした三条小鍛冶宗近の長刀

天王像も船弁慶

 ↓

和泉守金道が長刀を新造

同時あるいは間もなく天王像を和泉小次郎の船担ぎに変更

 ↓

長刀の持ち主が和泉小次郎にかわる。

 

 

265.中止の勇気(月刊「祭」2020.3月3号)

2020-03-16 21:11:00 | 新型コロナと祭、民俗

●新型コロナウイルス
 新型コロナウイルスの流行をうけ、加西市の北条節句祭が屋台運行、龍王舞などの中止を決定しました。節句祭の一ファンとしては、本当に残念な結果ですが、英断であったと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
●強行開催のリスク
 この流行下でも「祭をやりたい」という気持ちは痛いほど理解できますし、管理人自身当事者なら、強行開催しないという自信はありません。また、「このような時だからこそやるべきだ」という主張も理解できます。また、「こういう時だからこそやるんや」という人を決して嫌いにはなれません。しかし、そこにはかなり大きいリスクがつきまといます。
 
1酒の席などでの感染者
 祭をすると、必ずと言っていいほど公民館などで飲食の場がもたれます。大人数が閉鎖しれた空間でともにすごすことで、感染者の増加のリスクが生じます。
 
2マスコミとお上の「やってますアピール」の標的
 昨今はマスコミは「お上」に物申すことはかなり難しくなっています。一方で「お上」も失政続きで、「傍観してるだけ」の印象を国民が持ちつつあります。
 祭で感染者が出ると、それを批判する記事を書けばマスコミにとっては「ジャーナリズムやってます」のアピール、お上はその祭に近いしい政治家などを離党させれば「身内にも厳しくやってます」のアピールになります。
 
●中止、延期の勇気
 今回ばかりは、馬鹿げたやってますアピールに祭が使われないためにも、そして、祭好きの人の命ためにも、中止延期の決断もまた、勇気ある決断と言えます。
 
 

264.祭の延期-京都祇園祭編-(月刊「祭」2020.3月2号)

2020-03-08 19:10:00 | 新型コロナと祭、民俗
 
 ●祭延期の歴史

 コロナウイルスの蔓延により、春祭の開催が危ぶまれています。中止か開催かの二択ではなく、延期や一部開催という選択肢を歴史から見ていきます。

 今回は祇園祭編です。




 
 
 2014年の祇園祭山鉾巡行は台風の接近により開催が危ぶまれました。しかし、その決断は「小雨決行大雨強行」という、激しい祭への意思を示したものでした。
 祇園祭は風流な祭と言われたり、神田囃子と比較してその音楽は都の貴族文化をのこした優雅なものだと言われたりします。しかし、その見解は「浅い」と言わざるを得ません。巡行自体が序破急を意識したものになっています。たしかにくじ改め前の囃子は穏やかなものかもしれませんが、山鉾は巡行終了間際の囃子はかなり激しいものになっています。
 
 
 このような「激しい祭」が、世情の流れに飲まれることなく、生き延びたのも柔軟な祭礼日変更の歴史があったからとも言えます。
 
祇園祭山鉾巡行の日付変更
 ここ(祇園祭山鉾巡行の日付変更)は、名著・河内将芳「絵画資料が語る祇園祭 -戦国期祇園祭礼の様相-」(淡交社)平成27年の内容をかいつまんだものとなります。はっきり言えば、この記事より本を手に取られる方が有益な時間となることでしょう^_^;
 
神輿より一日遅れの山鉾巡行 
 現在の祇園祭では先の祭、後の祭、ともに山鉾の巡行が終わってから神輿が動きます。現在は7月の17日と24日が先の祭、後の祭になっていて、旧暦時代は六月の七日と八日でした。
 しかし、この頃は台風や大雨が頻繁な季節です。六月七日に大雨が降った時の祇園会の様子が 中原師守『師守記』康永四年(1345)六月七日と八日条にのこっています。この時は「山鉾」かどうかは分かりませんが、「山以下作物」とあるので、なんらかのものが作られて運行する習慣があったことはみてとれます。
 まず七日条を見ると、洪水により神輿がわたるための浮橋がらかけられなかったけど神輿は「舁渡」ったそうです。
 しかし八日条には
今日、山以下作物これを渡すとうんぬん、昨日雨により斟酌(事情などを、くみとること)、今日これを渡すとうんぬん
 とあり、大雨で神輿は予定通り七日に渡ったけど、おそらく大型と見られる「山以下作物」は次の日に渡ったということです。
 
●冬の祇園祭
 そして、名著・河内将芳「絵画資料が語る祇園祭 -戦国期祇園祭礼の様相-」(淡交社)平成27年には、冬の祇園祭についての記録が紹介されています。
 『康富記』文安六年(宝徳元年、1449)十二月七日条には、次のように書いています。
祇園神輿迎なり、さる六月、山門訴訟により延引せしむるものなり、例のごとく三基御旅所に出でしめたまう、桙(ほこ)山以下風流先々のごとく四条大路をわたるとうんぬん
 
 また、同年十二月十四日、つまり後の祭と思われるところには、「風流山笠桙已下三条大路を渡るとうんぬん」とも書かれており、山門・比叡山の僧侶達の訴訟により天台の別院であった祇園社も祇園会を延引せざるを得なかったことが読み取れます。
 
 その後も河内氏は先程の著書の中で、文安六年(1449)以降は応仁・文明の乱を挟んで元亀二年(1571)までは六月七日、十四日に祇園会がおこなえなかったこと、六月にすら行えなかったことが27回もあったことを書いています。
 
●祭を守るために
 我々が愛する山車やだんじり、屋台の祭は必ずしも日程を、死守したわけではないようです。死守したのは祭の法灯であり、その法灯を絶やさぬように、世情の流れに飲まれぬ舵取りをして今も続いていることがわかります。
 春祭を開催し、感染者が出ることで、場合によってはコロナ拡散の責任をなすり付けられる危険があることが考えられます。延期などの措置をとってもやむなしといったところでしょう。
 
 
 

263.祭の延期-三木、播州編-(月刊「祭」2020.3月1号)

2020-03-08 16:24:00 | 新型コロナと祭、民俗
●祭延期の歴史

 コロナウイルスの蔓延により、春祭の開催が危ぶまれています。中止か開催かの二択ではなく、延期や一部開催という選択肢を歴史から見ていきます。

 
●わりとよく聞く灘のけんか祭
 10月14日15日の日固定で毎年行われる姫路市松原八幡神社灘のけんか祭ですが、雨により順延さることがよくあります。こちらのサイトによると2005年と2011年は2日目の本宮が16日に行われたそうです。管理人は2011年の10月14日に見に行きました。松原屋台が元気よく雨の中練っていました。みこし合わせなど危険を伴う祭なので、順延もやむなしといったところでしょう。
 

↑こちらは木場屋台2019年とくにこの年は中止はありませんでした。
 
●2019年体育の日前の土曜日
 2019年体育の日前の土日は三連休の初めの二日ということもあり、祭礼日がこの日に変更される神社がかなり増えてきました。管理人が参加する三木市大宮八幡宮もその一つです。ちなみに、日本民俗学会が体育の日前の日曜日にあるとのことですが、これだけ祭が集中するのにこの日の開催は弊害が出てこないのかと、思ってしまいます。
 昨年の土曜日は大雨洪水警報が発令し、大宮八幡宮のように、一日目の宮入りを中止する地域がある一方で、祭礼日を、一日ずらした地域もありました。普段見れない祭を見れてラッキーなはずでしたが、この日体調を崩してしまい、辛うじて見れたのがこの祭りです。
 

●三木市大宮八幡宮の祭礼日変更など
明治期の祭礼日変更
 明治期の大宮八幡宮司の池田春きの日記には、大宮八幡宮の祭礼が九月十三日から二十三日に変更されたことが記されています。
 
大雨と祭
1950年頃から1960年頃
 屋台を宮入させるも、大雨により担ぎ手が殆ど家に帰ってしまった。よって残った者で綱を木に縛り付けて石段を引きずりおろして宮出した。
 といった話を当時青年団員だった方(現在70代)から聞きました。
 
1980年代
 管理人が小学三年生の頃(1987年)だったと思います。この時の祭礼日は10月16、17日でした。平日開催で、学校がある予定でしたが、なんと警報が出ました。しかし、空は雨の降る気配はありません。同級生たちと大手をふって朝から明石町屋台について行きました。
 
1998年?
 確か98年?だったはずです。10月16日、大雨により石段を滝のように水が流れていました。警察は屋台を宮入りさせまいと石段に立ちます。協議のけっかその日の宮入りは中止になりました。
 
2019年
 2005年に大宮八幡宮の祭も土日開催になりました。現在は体育の日前の土日になっています。2019年は土曜日に大雨洪水警報が発令する可能性が高く、その前から祭礼の開催をどうするか協議が続けられました。その結果、屋台は警報発令中は出さないことが決まりました。そして警報発令がながびき、一日目の宮入りは中止となりました。とはいうものの、雨はそこまで強く降りません。警報が解除される地域が増えてきます。そして、警報解除の午後7時半、同時に各地の屋台は倉を出て、令和初の屋台運行が行われました。

↑いつでも屋台は出せるようにと、宮司さんはおはらいを全屋台にしてくださいました。管理人はその年は接待係。おはらい用の酒などを準備して待機していました。

↑大喜びで夜の町を運行する明石町屋台。
 
大雨にたいする対応の変化
 snsなどの発展で警報下で祭を強行し一度怪我人などを出せば、ネトウヨなどから攻撃をくらうのが、今の現状です。
 我らが大宮八幡宮秋祭も少しずつ大雨の対応に変化が生じてきていることがこれまでの歴史から見てとることができました。