月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

絶対にありえないフィクション、わらぐつの中の神様  the fiction that never happen

2011-11-27 21:41:13 | 民俗・信仰・文化-時事・コミュニケイション-

 五年程前に、小学生の時にならったわらぐつの中の神様という本をよんだ。
 あらすじはだいたい下のような感じ。

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 小学校のスキー旅行で「スキー靴」がほしいとねだる母にねだるマサエ。それを聞いた祖母が、わらぐつをすすめる。嫌がるマサエ。 そんな祖母はわらぐつのよさをマサエに教えるべく、とあるエピソードを話し出す。

 ちいとむかし、おみつさんという、特別かわいいわけではないけど、よく働く器量よしの娘さんがいた。その娘さんが、とある朝市に出かけたときに目に止まったのは、綺麗な雪下駄。だけど、おみつさんの家に雪下駄を買うようなお金はない。

 おみつさんは、一年発起し、わらぐつを作って売ることを決心した。おみつさんは、わらぐつをなれない手つきで一生懸命つくる。「丈夫に長持ちするように、使いやすいように」そのような思いで作ったわらぐつをつくり、そのようにできあがるが、決してみばえはよくない。朝市で売るも、見栄えはよくないわらぐつは酷評の嵐。「どろまんじゅうだ」と言う声も出る始末(買わないのにそこまで言う人ってちょっと変わってる気もしますが)。 

 おちこむおみつさんに、救いの手をさしのべたのはとある若い大工さんだった。「わらぐつひとつおくれ。」と。 そして、次の朝市も、またその次も、その若い大工さんはわらぐつを買っていく。いつの間にか、おみつさんはその若い大工さんに会うのが楽しみになる。

 そんななか、おみつさんはとある疑問が浮かぶ。「なぜ大工さんは何度も見栄えの悪いわらぐつを買うのか。」その疑問をある日おみつさんは大工さんにぶつけると、知り合いに譲っているという。「でも みったぐない(みっともない)わらぐつですよ。」とさらに疑問をぶつける。
 大工さんは真面目な顔で、「俺も職人だから、仕事の善し悪しは分かる。このわらぐつはみかけはよくないけど、履きやすく丈夫に長持ちするようにと、いい仕事がしてある」
 そして、こんなわらぐつをつくる君と結婚したいと。

 そのおみつさんが、実はマサエのおばあさんで、大工さんがおじいさんで「めでたし、めでたし」となりました。

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 その作品の主題は、「みかけよりも中身」、「失われた大切なもの」といったところだと思う。
 この作品はどこかでありそうなフィクションを装っている。が、じつは、このような話は絶対にありえない。なぜならば、わらぐつを丈夫で長持ちするように、使いやすいように作ると、わらぐつのみばえはよくなってしまうからである。
 作者さんはもしかしたら、あまり縄をなったり、縄で細工をするような経験がないのかもしれない。そのような人が昔の生活にファンタジーをもとめてつくられたのが、「わらぐつの中の神様」なんだと思う。


カンニング 泥棒 犯罪

2011-11-21 22:29:13 | 民俗・信仰・文化-時事・コミュニケイション-
 
 当然ですが、カンニングや泥棒には多大なリスクが伴います。確かに良心がとがめたというのも時事ですが、そのリスクを見出すだけの価値をそれらの行動にみなさなかったのが、僕がカンニングと泥棒をしてこなかった最大の理由だと自分では思っています。

 例えば、古代中国の科挙などでは、カンニングが横行していました。それは、何故でしょうか。カンニングのリスクをとるだけの対価=各段的な生活の向上、人としての最低限の生活の保障があったからだといえるでしょう。

 最近とある場所でとある資格試験をうけるさいにカンニングが発覚したそうです。ばれそうになったその受験者は、死に物狂いでその証拠を隠そうとしたそうですが、後の祭り。受験資格は剥奪されたそうです。その受験者を非難することは簡単です。ただ、その受験者は何を背負って試験に臨んだのだろうか?だからといって、カンニングが許されるわけではありませんが、第三者はそのような想像力を働かせることも大事なんではないでしょうか。
 カンニングや泥棒は、ストレス発散以外に、そのリスクをとるだけの対価=各段的な生活の向上・生存の保障等のためになされることがあるのです。

 犯罪をなくそうというような言説が巷にはあふれています。
 ただ、「生きるため」に犯罪のリスクをとるのは、決して異常な人間ではなく、極々まともな人間であるということです。「犯罪をなくそう」という無責任な言葉よりも、「犯罪をしなくても生きていける社会を作ろう」といったような言葉を大切にしたいものです。
2006 09 03 11:02:15
「クラムボン=コロボックルブログ」への記述

とある寺院で見つけた法則 The pattern of humans in the one temple

2011-11-20 19:31:23 | お気楽言葉

 私が足しげく通うとある寺院。それは、田園地帯のなかにポツンと建っています。
 その寺院は静かで簡素なたたずまいながら、日本中の建築家や美術の研究者を魅了してやまない寺院です。

 しかしながら、田園地帯ということもあり、交通の便はお世辞にもいいとは言えず、ほとんどの人が自動車で訪れます。ただ、研究上の重要な資料となっているため、多くの大学の先生方は、この寺院に訪れることを勧め、毎年、多くの学生が訪れます。

 その中で見つけた法則はいたってシンプルでした。

 男子学生は、公共交通機関+長時間の徒歩で来る。
 女子学生は、大学の先生?の自動車で来る。

似たような寺院が近くにあったら、その法則があてはまるのかどうか、観察してみてください。

 I often go to the temple. It was built on the rice crops fields in the country.
 Its buildings and statues are national helitages, and tempts many architechts and schoolers. And, many students who was told by their proffessor also comes there.  

  It is so difficult by the train or bus, so most of all people comes the temple by their own car.  But, some students can't drive or buy the car.
 I find the simple law in the temple.

  1 The male students comes the temple by bus or train and long long time walking.
 2 The female students comes the temple by the car that driven by her proffessor.


「疑」のマークに乗せて 何年ぶりかの再開 =I write again=

2011-11-20 19:26:43 | ftv

ブログを再開します。
何年ぶりでしょうか。

ずいぶん、かなり、丸くなっての再開です。
いい意味でも、悪い意味でも、丸くなりました。

いい意味としては、人を傷つける言葉を言わなくなった。
悪い意味としては、言うべきことを書かなくなった。

ただ、ブログの上の「疑」のマークに一つの気持ちを込めました。
あたり前とされていることを「疑うこと」。その素材を提供したりできたらいいかと願っています。

  I write on the this web page blog again.
  Maybe I've stopped writing 5 or 6 years.

  I've got old and It become difficult of my saying strictly or directry.
 
 But, as I desighned on the kanji ”疑 (it means doubt)”, I still think that it's the most important of doubting something that regard as "common sense".

 So, I want to make you wonder that the something that regard as "common sense" must be the common sense or not.