月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

355.「どんどん どんでどん どんでどん」の難しさ-音楽アプリ入力-(月刊「祭御宅」2021.5月24号)

2021-05-31 21:24:53 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
この記事では、
1拍=4/4拍子の
1/8拍=♩を8等分にしたもの
1/4拍=♩を4等分にしたもの
とします。
 
●三木八幡宮、宮元の太鼓の難しさ
管理人属する大宮八幡宮の明石町屋台は、三木で一番と呼ばれた大きさも下町、末広、大塚、芝町、久留美、与呂木、栄町、岩宮などに抜かれました。それでも、明石町が一番だと思うもの。それが太鼓です。
徹底的に「どんどん どんでどん どんでどん」に磨きをかけます。「どんどん」も、「どんどん」も「どん でどん」も「どんで どん」も許されません。あくまで、「どんでどん」でなければならないのです。
小学生のうちから学校の机を叩き、青年団の中でも才能と努力の両方を兼ね備えた選ばれた人だけが、宮入や宮出の太鼓を打つことになります。 某ボンクラ祭ブログの管理人は、利き手とそうでない手の打ち方の微妙なバランスの調整に苦しみ続け、大成することはありませんでした。
かつては「三木八幡宮」とも呼ばれたお宮さんの、宮元屋台にふさわしい「どんどん どんでどん どんでどん」は、簡単にみえるけど、実は凄く難しい太鼓だということを身をもって知らされました。
 
●「どんどん どんでどん どんでどん」をアプリで再現
そんな難しい「どんどん どんでどん どんでどん」を今回は正確にリズムを刻める音楽アプリで再現してみました。その中で気づいたのは、楽譜で表すとなると、意外と難しいものになるということです。
 
使ったのは、WALK BANDというアプリです。和太鼓は使える楽器になかったので、ドラムのフロアタム(手で叩くものの一番音が低いもの)を使いました。
 
●「どんどん どんでどん どんでどん」を4/4拍子が3小節と考える。
以下
1拍休み····ウン
半拍休み···ウ
とあらわします。
 
下の動画を見ると、どんどん、どんでどん、それぞれの間にアヨイヤサーを一回ずつ言うことになります。また、ハタキは「どんどん」であっても、「どんでどん」であっても、2回同じリズムでふっています。ということは、ハタキは「前後前後」の2往復の4拍子を3回くりかえせば、つまり、4/4拍子が3小節で「どんウンどんウン、どんでどんウンどんでどんウンがちょうど一周することになります。
「どんどん」は楽譜であらわすと、♩ウンウン」で表せます。
これなら簡単だろうと思って、簡単に考えていたのですがなかなかうまくいきませんでした。
 
●簡単な楽譜どおりだと。。
まず、簡単な楽譜で試しにつくってみました。どんでどんを下の楽譜のように演奏すると、そそれぞれの映像のようになります。
↑Jポップの出だしのようなリズムになっています。
 
●細かく調整をしてみた。
そこで、かなり細かく調整してみました。
1拍を1/8単位に分けて、しっくり来るどんでどんをさがしてみました。
 
1/8拍休み♪3/8拍休み

↑少しましになりましたが、で と どんの間がやや間延びしているように感じます。
 
1/4拍休み♪1/4拍休み
↑これが管理人の耳には一番ましに聞こえました。しかし、もう少し上手な人からすれば、微妙な早い遅いがあるかもしれません。
 
●太鼓練習と音楽アプリ
音楽アプリの利点はなんといっても、一度入力すれば、寸分違わずリズムを刻んでくれる点です。これにあわせて打てば、太鼓の基礎的なリズムを正確に打つ練習になるので、どこでも個人練習が可能となります。
その一方で、太鼓のリズムそのものは、西洋式の楽譜や音楽アプリで表現するのは今回みたいに難しい可能性もあります。音楽アプリ利用による後継者育成は期待できますが、お手本教材の作成には注意を擁することがわかりました。
 
 
 
 
 

354.屋台の英語訳、韓国語訳と外国語訳のポイント(月刊「祭御宅」2021.5月23号)

2021-05-30 11:21:25 | コリア、外国
こちらの記事では、祭のときに外国の方を案内するときにどうするかを考えました。その時はなんちゃってトリリンガルの管理人の誤訳をいろんな方に指摘していただきました。
それでも、回答がでなかったのが「屋台」をどう訳すかです。今回は、屋台を英語と韓国語でどう訳すかについて考えていきます。

●翻訳機丸投げ訳の危険
インターネットの翻訳機能は勝れものですが、丸投げしてしまうと屋台の訳はどえらいことになってしまいます。五年ほど前に、韓国語で灘のけんかまつりを紹介しているサイトを見ました。その時の屋台の訳は보장마차·ポジャンマチャ·布張馬車。これは、露店屋台を意味しています。灘のけんかまつりにもテキヤさんの露店屋台があるので、それを担いで盛り上がるという誤解を生じる可能性があります。
↑韓国の포장마차・ポジャンマチャ・布張馬車=屋台(露店) 屋台を韓国語で直訳するとこうなります。

●外国語堪能でも祭を知らないと...
英語
とはいえ、外国語堪能にであったとしても、祭のことを知らないとどうしても誤訳になってしまうのが、屋台という言葉です。祭関係者ならば屋台と神輿は別物だという認識を持っています。ところが、英語の訳を見ると「carring shrine」、「移動式神殿・神輿」となっているのをよく見かけます。
 例外もありますが、播州屋台の多くは神さんを乗せないというのが多くの方の認識です。なので、「carring shrine・神輿」という言葉を使うのは、祭を知らない人同士のでは問題なく会話できるかもしれませんが、ガイドブックなどの言葉としてはふさわしいものとはいえません。
そこで、シンプルに太鼓を意味するdrumに木枠を意味するstullという言葉をつけるとよさそうです。なので、屋台の英訳としてはdrum stullやらdrum on stull とかのなかで一番英語の表現として無難なものが適訳となるでしょう。

韓国語
韓国語では、2通りの訳がありそうです。まず一つ目が太鼓台の太鼓・북 ・プクに台・대・デをつけた북대・プクデです。
もう一つが同じく太鼓・북 ・プクに輿・가마・カマを意味する言葉をつける方法で、북가마・プクカマ・太鼓輿となります。가마・カマは神輿ではなく輿ですので、神さんがのるものでなくともかまわないので使える言葉です。

●編集後記にかえて
-「屋台」を外国語訳する時のポイント-
 屋台を外国語訳する時のポイントとして、以下の2つをあげられることが分かりました。

①露店屋台ではなく、太鼓を木枠で囲んだものを持ち運ぶもの・太鼓台だということ

②「神さまを乗せないもの」でも使える言葉を選ぶこと。


353.この担ぎ棒はどこの神社の屋台??(月刊「祭御宅」2021.05月22号)

2021-05-29 21:27:26 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

●またまた場所が分からない写真

 また、場所が不明の写真が出てきました。

無視できないのは、屋台の棒と思われるものが写っていたからです。


●手がかり

 写真の撮影日は2012年4月26日木曜日。管理人は当時、加西市で閑職にいそしみ、帰りに神社仏閣めぐりをするのが日課でした。なので、加西市や加東市であルと思われます。そして、もう一つが下の写真の伝承です。「大歳講」の始まりとして、公達を当社でかくまい白酒を献上したが、やがて帝として即位した。それ以来九月十二日の夜に、白酒をもって当社に無言参りするようになったというものです。

 しかし、神社の名前がしるされていません。ためしに、グーグルで「大歳講 無言参り 白酒」などで検索しても、それらしきものはかかりませんでした。

 

加東市 大歳神社で検索

「加東市、大歳神社」で検索すると、グーグルマップの結果が出てきました。

 加東市に限らず、小野市、加西市のものが表されています。地図にアイコンを合わせると、そこの写真が出てきます。これをしらみつぶしに探してみました。後になって気づいたのですが、写真は山中なので、山にあるものを優先的に早くみつけられたかもしれません。

 

ようやくみつけました。小野市脇本町のものでした。






小野市脇本町の大歳神社の屋台はかつて好古館で展示されていました。その担ぎ棒であるとおもわれます。この屋台は旧三木市久留美の屋台とも伝わっているので、上の写真の担ぎ棒は、旧久留美屋台の担ぎ棒でもあったのかもしれません。

 


352.宮沢賢治は「鹿踊りの始まり」をどう伝えたか(月刊「祭御宅」2021.5月21号)

2021-05-29 21:05:38 | 民俗・信仰・文化-宮沢賢治-

●鹿(しし)踊り

 宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市や周辺の地域では、鹿踊りと呼ばれる鹿の面をかぶった踊り手が、5,8などの決まった人数で踊る芸能があります。仙台藩主が治めたことがきっかけとなって、愛媛県宇和島市でも同系統の踊りが伝わっています。大塚民俗学会『日本民俗事典』(弘文堂)1972では、2人で1頭を表現する獅子舞に対して、1人で太鼓あるいは羯鼓を下げて踊るとしていますが、下の映像では幕踊り系という太鼓をぶら下げないものもあるそうです。そして、太鼓踊り系が伊達藩、幕踊り系が南部藩に分布しているとのことです。

国立民族学博物館の鹿踊りの衣装。松梅梅の頭飾りがついていいます。

 下の映像を制作した地域文化資産チャンネルによると、江刺市の行山流久田鹿踊りは、慶長年間の仙台城下の八幡堂から伝授されたものであると巻物に残っているとのことです(8分10秒あたり)。一方遠野市の鹿踊りは京都から伝わった踊りに農民たちの豊年踊りに神楽が伝わったものであるとのことです(11分10秒あたり)。他にも山伏の影響や、鹿を神聖視した古代の信仰の影響などをのべています。

【本編】江刺の鹿踊 岩手県江刺市 鹿踊の記録 - YouTube

 そして、花巻市出身の宮沢賢治氏も鹿踊りを題材とした童話を発表しています。その名も「鹿踊りのはじまり」。宮沢賢治説の鹿踊りの起源はどのようなものだったのでしょうか。

●鹿が興味を示すのは栃だんご? それとも?

ーーーーおおよそのあらすじーーーーーー

 栗の木から落ちて足を悪くした嘉十は、西の山の湯の沸くところで治そうと出かけました。
 そして、十本ばかりのはんのきの木立の芝草の上で栃だんごと栗だんごを食べて休憩します。
 嘉十は、栃だんごを一つだけ残して再びでかけますが、手ぬぐいをわすれたことに気づきます。

 嘉十がもどってきた時、五六頭の鹿が嘉十の忘れ物を取り囲んでいます。ああ、団子をねらっているんだと思う嘉十ですが、鹿たちが興味を示すのは手ぬぐい。何か恐ろしい生きものかと思いながら、おそるおそる近づいては離れを繰り返す鹿。やがて、恐るるに足らずと分かった鹿は、一頭の鹿が円の中心で歌い、その周りを鹿達がかこんで周りの廻りながら踊ります。踊りながらつついたりするしか。つついたりする鹿。

 今度はだんごを一頭一口ずつ食べて食べてしまいます。そして再び踊ります。
 それを見て楽しくなった嘉十は声をあげてしまいます。おどろいた鹿はにげてしまいました。
ーーーーここまでーーーーーー

●宮沢賢治氏の童話の鹿踊りはどの系統?
 少々無茶ですが、宮沢賢治氏の童話の鹿踊りはどの系統につらなるのかを考えてみます。
 といっても単純です。まず、太鼓はありません。そして、手ぬぐいという布をあつかっています。そして、宮沢賢治の地元が花巻であり、南部藩に属するということで、幕踊り系の鹿踊りのはじまりということになるとこじつけられそうです。

●「鹿踊りのはじまり」は誰が教えてくれたお話か?

 この「鹿踊りのはじまり」の冒頭には、こういう風に書いてあります。

「そのとき西のぎらぎらのちぢれたのあいだから、夕陽くななめに野原ぎ、すすきはみんなのようにゆれてりました。わたくしがれてそこにりますと、ざあざあいていたが、だんだんのことばにきこえ、やがてそれは、いま北上や、野原はれていた鹿踊りの、ほんとうの精神りました。」

 そして、上でのべたおおよそのあらすじの話が語られます。文脈からすれば、「嘉十」と「わたくし」は別人となります。そして、最後はこうなります。

「それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。」

 本編の話を風とか身の周りの人ならぬ物が教えてくれるという物語形式は、アンデルセン童話によくみられるもので、宮沢賢治氏もその手法を用いているそうです(文学者のどなたかが言っていましたが、名前や著作は忘れました。)。
 ということで、宮沢賢治氏が語った「鹿踊りのはじまり」は、アンデルセン童話風にすきとおった秋の風から聞いた、幕踊り系の「鹿踊りのはじまり」ということになります。

参考文献、引用文献

宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」1921『注文の多い料理店』(新潮文庫)1990現代仮名遣いで初収。

「鹿踊りのはじまり」青空文庫

編集後記
 ないないと思ってた管理人の論文(妄想文)が掲載された『注文の多い土佐料理店11』(高知大学宮沢賢治研究会)2006が、やっと見つかりました。管理人の論文(妄想文)を管理人の名前なしで論文に引用された方がいらっしゃったのは一年ほど前におつたえしました。その方の著作を掲載した学会では残念ながらその事実を認定してくださいませんでした。念のための証拠をとりあえず手元においておくことができたのでほっとしています。


宮沢賢治は「鹿踊りの始まり」をどう伝えたか

2021-05-29 20:52:39 | 民俗・信仰・文化-宮沢賢治-

●鹿(しし)踊り

 宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市や周辺の地域では、鹿踊りと呼ばれる鹿の面をかぶった踊り手が、5,8などの決まった人数で踊る芸能があります。仙台藩主が治めたことがきっかけとなって、愛媛県宇和島市でも同系統の踊りが伝わっています。大塚民俗学会『日本民俗事典』(弘文堂)1972では、2人で1頭を表現する獅子舞に対して、1人で太鼓あるいは羯鼓を下げて踊るとしていますが、下の映像では幕踊り系という太鼓をぶら下げないものもあるそうです。そして、太鼓踊り系が伊達藩、幕踊り系が南部藩に分布しているとのことです。

国立民族学博物館の鹿踊りの衣装。松梅梅の頭飾りがついていいます。

 下の映像を制作した地域文化資産チャンネルによると、江刺市の行山流久田鹿踊りは、慶長年間の仙台城下の八幡堂から伝授されたものであると巻物に残っているとのことです(8分10秒あたり)。一方遠野市の鹿踊りは京都から伝わった踊りに農民たちの豊年踊りに神楽が伝わったものであるとのことです(11分10秒あたり)。他にも山伏の影響や、鹿を神聖視した古代の信仰の影響などをのべています。

【本編】江刺の鹿踊 岩手県江刺市 鹿踊の記録 - YouTube

 そして、花巻市出身の宮沢賢治氏も鹿踊りを題材とした童話を発表しています。その名も「鹿踊りのはじまり」。宮沢賢治説の鹿踊りの起源はどのようなものだったのでしょうか。

●鹿が興味を示すのは栃だんご? それとも?

ーーーーおおよそのあらすじーーーーーー

 栗の木から落ちて足を悪くした嘉十は、西の山の湯の沸くところで治そうと出かけました。
 そして、十本ばかりのはんのきの木立の芝草の上で栃だんごと栗だんごを食べて休憩します。
 嘉十は、栃だんごを一つだけ残して再びでかけますが、手ぬぐいをわすれたことに気づきます。

 嘉十がもどってきた時、五六頭の鹿が嘉十の忘れ物を取り囲んでいます。ああ、団子をねらっているんだと思う嘉十ですが、鹿たちが興味を示すのは手ぬぐい。何か恐ろしい生きものかと思いながら、おそるおそる近づいては離れを繰り返す鹿。やがて、恐るるに足らずと分かった鹿は、一頭の鹿が円の中心で歌い、その周りを鹿達がかこんで周りの廻りながら踊ります。踊りながらつついたりするしか。つついたりする鹿。

 今度はだんごを一頭一口ずつ食べて食べてしまいます。そして再び踊ります。
 それを見て楽しくなった嘉十は声をあげてしまいます。おどろいた鹿はにげてしまいました。
ーーーーここまでーーーーーー

●宮沢賢治氏の童話の鹿踊りはどの系統?
 少々無茶ですが、宮沢賢治氏の童話の鹿踊りはどの系統につらなるのかを考えてみます。
 といっても単純です。まず、太鼓はありません。そして、手ぬぐいという布をあつかっています。そして、宮沢賢治の地元が花巻であり、南部藩に属するということで、幕踊り系の鹿踊りのはじまりということになるとこじつけられそうです。

●「鹿踊りのはじまり」は誰が教えてくれたお話か?

 この「鹿踊りのはじまり」の冒頭には、こういう風に書いてあります。

「そのとき西のぎらぎらのちぢれたのあいだから、夕陽くななめに野原ぎ、すすきはみんなのようにゆれてりました。わたくしがれてそこにりますと、ざあざあいていたが、だんだんのことばにきこえ、やがてそれは、いま北上や、野原はれていた鹿踊りの、ほんとうの精神りました。」

 そして、上でのべたおおよそのあらすじの話が語られます。文脈からすれば、「嘉十」と「わたくし」は別人となります。そして、最後はこうなります。

「それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。」

 本編の話を風とか身の周りの人ならぬ物が教えてくれるという物語形式は、アンデルセン童話によくみられるもので、宮沢賢治氏もその手法を用いているそうです(文学者のどなたかが言っていましたが、名前や著作は忘れました。)。
 ということで、宮沢賢治氏が語った「鹿踊りのはじまり」は、アンデルセン童話風にすきとおった秋の風から聞いた、幕踊り系の「鹿踊りのはじまり」ということになります。

参考文献、引用文献

宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」1921『注文の多い料理店』(新潮文庫)1990現代仮名遣いで初収。

「鹿踊りのはじまり」青空文庫

編集後記
 ないないと思ってた管理人の論文(妄想文)が掲載された『注文の多い土佐料理店11』(高知大学宮沢賢治研究会)2006が、やっと見つかりました。管理人の論文(妄想文)を管理人の名前なしで論文に引用された方がいらっしゃったのは一年ほど前におつたえしました。その方の著作を掲載した学会では残念ながらその事実を認定してくださいませんでした。念のための証拠をとりあえず手元においておくことができたのでほっとしています。


351.明石町、下町、三町-大きくなる町とそうでない町-(月刊「祭御宅」2021.5月20号)

2021-05-28 20:59:24 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●大宮八幡宮氏子域下五町と檀鶴
「前田町記録帳」*では、大宮八幡宮の祭では檀鶴と呼ばれるものが、「相廻され」ていたようです。宝暦元年(1751)より天明元年(1781)まで、中絶の期間もありながら、18回出されました。
 文政か文化頃の記録では、鶴の内訳が書かれていることから(2020年 三木市立みき歴史資料館展示より)、檀鶴は担ぐものか引くものを指すというより、芸をすることもできる移動式演奏台を当時の三木では意味していたと思われます。
 
 さて、檀鶴は年番制で明石町、下町、三町の順になってしまいます。三町とは、中町と上町と新町のことで、三町で合同で檀鶴を出していたことになります。そこから推察されるのは、明石町と下町は比較的経済的、人員的余裕があったこと、三町はそうではなかったことです。
ではなぜそのような差ができたのでしょうか。
 
*『本要寺文庫11』(古文書調査委員会)1986などに所収、三木市立中央図書館で見ることが出来ます。
 この記事では、石田安夫「古文書に見る三木地方の祭礼の変遷」『三木の祭 屋台・獅子舞写真集』(三木市観光協会)2002を参考にしました。
 
明石町、下町の経済的余裕の要因を地図から考える
 見出し画像の地図は、「播州三木郡前田町絵図」享保元年(1716)*の地図です。
 そこには、三木市大宮八幡宮氏子域の三木町下五町=明石町、新町、上町、中町、下町と宮近域の前田が飛び地であります。下五町の範囲を色分けしたのが下の図です。新町の筋の右横Aはすぐに上五町の滑原町が続きます。一方Bは高木村までの間に前田、つまり田んぼが続きます。これを見ると、上町、新町、中町は両方側が町に挟まれて、町域の拡張が難しそうです。
一方下町、明石町は山や田に町域を伸ばす余地がありそうに見えます。三町はもう家が一杯で分家後その町域に家を構えたり、新規の移住者をむかえたりすることが難しく、一方明石町、下町はそれらが可能だったと思われます。
 
*三木郷土史の会『三木市有宝蔵文書 別巻 地図・高札・補遺編』(三木市)2002の複製地図より
●現在の旧町域の祭-山際、田際の優位性-
このような傾向はほかの旧町域でも見られそうです。旧町域で居住域をふやす余地のある田や山がない場合、人口をふやすことが困難になる傾向にあります。加西市北条町でも、本町、御旅町などは家を増やすことが難しくかなり少ない件数で屋台を運営していると聞きます。
岩壺神社でも町域を増やせない芝町は、件数も少ない中で屋台を運行していると聞きました。現在は5か町に分かれている我らが明石町屋台も、居住域を増やす余地がある杣宮に人が集まり出しているように見えます。
 
 
 

350.明治四年のゴンタ太鼓-当時の大宮八幡宮宮司の日記から-(月刊「祭御宅」2021.5月19号)

2021-05-27 22:02:08 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●ドでかいゆえのゴンタダイコ
三木市中心部においては屋台はタイコと呼ばれます。そして、腕白を意味する「ゴンタ」がつくと、ある一定の屋台を思い浮かべます。
 今は大宮八幡宮では多くの人が下町を思い浮かべることでしょう。といっても、トラブルを常に起こすからというわけではありません。
 担ぐ人の見た目のイカツさや、屋台のデカさ、落とした時の音の大きさなどから、そんなイメージを持っているにすぎません。ちなみに、あのドでかい屋台を落とさずに石段を昇りきる下町屋台の統率方法は、教育関係者も必見です。
 
●本当のゴンタダイコは年がわり
もちろん祭にはケンカがつきもの、大宮八幡宮の祭でもケンカをしたり、巻き込まれたりというのは、何年も祭に参加していると当たり前のようにあります。この年はあっこがようもめた、そのまえはどこそこでケンカがあったと、ケンカが起きる屋台は年がわりです。大きなトラブルを起こした屋台をゴンタダイコと呼ぶならば、ゴンタダイコは年がわりにめぐってくるものといえます。
  幕末から明治時代まで大宮八幡宮宮司を勤めていた池田春翬(き)氏の日記『大宮神社日記』明治四年に、トラブルを起こした町が記録されていたのです。この当時、屋台は明石町、下町、新町、上町、中町の下五町と高木の計六台、高木の御旅所まで高木が御神輿を先導し、他の屋台は後を付き従っていました(参考*井本由一「明治初年の三木町」『三木史談』一九八〇)。
 そこには、下のように記されていました。崩し字なので、管理人が読めたところだけ記します。
 三木市立図書館に行けば崩し字を解読された全文が掲載された、松村義臣『池田春翬手帖全編 ふるさと三木文庫5』(三木郷土史の会)1989 を見ることができます。「廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太こと目廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太ことめ 若?老ト若中争論」
 
大宮八幡宮祭礼日は、旧暦の9月13日ですが、その年は延期され22日になっていました。
そして、この年に「太鼓」を「とめ」て、「若?老ト若中」が「争論」したのは「新町太鼓」だったと書かれていました。明治四年のゴンタ太鼓は新町だったようです。
 
 
集後記
 大宮八幡宮の今の祭ができたころのちょっとした出来事を日記からさぐってみました。

349.作られる伊勢音頭(月刊「祭御宅」2021.05月18号)

2021-05-23 18:05:10 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●伊勢音頭で担がれる屋台
 「めでためでたの若松さまよ
枝も栄えて 葉も茂る」
など、伊勢音頭を歌いながら屋台やだんじりを動かしたり、幟や竹を地面に衝いたりする祭は播州にも多くあります。

変わらない歌詞が歌われ続ける「伝統」だけではなく、常に新たに歌詞が作られ続けるという「伝統」をもつ祭もあります。

管理人は三木の大宮八幡宮、岩壺神社系統のの伊勢音頭のはかなり独特の節回しだと感じています。


●高砂市曽根天満宮の竹割り
 曽根天満宮の竹割りでは、さまざまな歌が歌われています。2000年頃、管理人が三木市大宮八幡宮明石町青年団員だったころ、夏に一度だけ曽根のように竹割りをしたことがありました。歌詞は「奈良の都を屁で飛ばす」など下品なものも大声で歌って楽しみましたが、曽根でも同様の歌詞が歌われていると聞きましたが、未確認です。
また、1990年代のサンテレビの曽根天満宮の祭の映像では、竹割りの時に「写りたいなーサンテレビ」と歌っているのを見たことがあります。
下の竹割りの映像では「曽根の祭はー」と聞き取れます。


●令和はじめての祭
 次の映像は三木市吉川町若宮神社の祭です。宮座制度が残り、ヤホー神事が県の文化財に登録されています。宮座の祭は四つの座が年交代で担当していますが、現在の神輿の巡行、昭和40年頃まで続いたお先だんじり(平屋根屋台)の巡行は氏子地域12村が年交代で担当しています。

令和はじめての祭で歌われた伊勢音頭系統の歌には令和元年ならではの歌詞が歌われていました。1分38秒ごろから聞き取れた歌詞を書きます。
「令和はじめの み神楽おさめ
氏子そろて 祝います」

●次歌われる伊勢音頭
 祭が自粛に追いやられる日々が続いています。晴れて祭ができる時、きっとその喜びを歌う伊勢音頭が生まれることでしょう。
そんな日が早くくることを祈って防疫につとめましょう。


348.伝播してきた祭前に屋台を担ぐ風習(月刊「祭御宅」2021.5月17号)

2021-05-23 10:44:13 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●姫路の肩合わせ

 灘のけんか祭などの姫路の祭りでは、肩合わせなどと称して屋台を担ぐ習慣があります。祭前日なので、水引幕がついていなかったり、擬宝珠がついていなかったりと、練り子は私服だったりと、屋台が完全装備でない状態で担がれたりします。

 この習慣は祭本番の心身の準備になると同時に、楽しむ時間を増やすことができるなどのメリットがあり、我らが三木市大宮八幡宮でもこのような機会が増えてきました。


↑祭礼日前に練り合わせをする英賀神社 春日若倉屋台(左)と矢倉西屋台(右)矢倉西は擬宝珠をつけていません。
 
 
屋根改修後の試し担ぎ
 2015年明石町屋台は、屋根を改修し祭一週間前の土曜日か日曜日に屋根を試しにとりつけてみました。そして、安全に運行できるか点検する名目で屋台を担いだら、、、、やっぱり楽しい。
 いつの間にか、一週間前の土日や太鼓練習開始の日によく担がれるようになりました。
水引幕がついていない状態で担がれます。
 

↑2016年9月24日土曜日 太鼓練習開始日に外に屋台を出して担ぎました。 
 
 少し前ですが2012年7月の虫干しの日にも担ぎました。屋根に赤羅紗も張らず屋根の下地が見えています。太鼓打ちは管理人ですが、バチはもっていません。
 
 
実は、泥台を見ると太鼓がのっていないことも分かります。管理人が「口太鼓」をつとめさせていただきました(^^;
 
 

 


347.『播磨鑑』の志染荘・三坂大明神(月刊「祭御宅」2021.5月16号)

2021-05-22 22:25:43 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●「播磨鑑」
 平野庸脩『播磨鑑』宝暦十二年(1762)頃は、屋台の記述はないものの、播磨の様子を知ることができる地誌として祭オタクの間でも知られています。播磨の神社仏閣名所を詳細に書かれているので、地名辞典や市史などにもかなり引用されています。ですが、播磨という広範囲を詳細に書かれているゆえに間違いなども見られ、それもまた、この書物の面白さになっています。この記事では管理人が偶然に見つけた間違いを紹介します。
三木市内のみさか神社と「播磨鑑」記載の三坂大明神
 三木市内には
 御坂神社・・・志染
 三坂神社・・・細川大柿、加佐
 御酒神社・・・細川垂穂、石野
 美坂神社・・・東這田
の六つのみさか神社があります。さらに、伽耶院など寺院内に三坂神社があつものを加えるともう少し数が増えると思われます。
 「播磨鑑」では全てのみさか神社がしるされているわけではありません。一つは御酒大明神で「在上芝原」とありこれは垂穂御酒神社の氏子域の村名なので、垂穂の御酒神社と思われます。そのほかには「三坂大明神」の記事が三つあります。一つは、笠村で加佐の三坂神社と思われます。もう一つが
 「在中石野村 山林境内御除地 石野三ヶ村ノ氏宮也」
とあり、石野の御酒神社であることが分かります。
●残り一つの三坂大明神
 残り一つの三坂大明神の記事は最後の文にこう書いてあります。
「三木郡ノ内ニテハ 一之宮ト称ス 志染荘十ヶ村ノ氏宮也
これだけを見れば志染の御坂神社だと思えてきます。御坂神社氏子内には、吉田東吉田を一つの村と考えるならば、十か村で構成されているといえ、記紀神話の二皇子が隠れ住んだといわれる岩屋がのこるなど、一之宮にはふさわしいと思われます。
 しかし、冒頭にはこう書かれています。
志染庄 在大柿村
 志染?大柿?どっちどいなと言いたくなりますね。
 
 もうすこし読み進めるとこう書かれています。
延喜式二御坂ト有 這田村 中石野村 志染大柿村三所二有之 何レヲ本社 何レヲ摂社トモ不知 然レトモ大柿村ノ社ヲ本社トセンカ
とあるところを見ると、大柿村が細川ではなく志染の村とされてしまっています。つまり、志染と細川大柿が混同されているものと思われます。
 では、ご祭神などはどちらのものが書かれているのでしょうか。
●東社 西社
「播磨鑑」の「志染大柿村」の三坂大明神のご祭神の記述は下のようになっています。
東社 天御中主尊 中筒男命 斎主命 大山祇命 市杵島姫命 日本武尊
 西社 大己貴命 御中主尊 中筒男命
東と西の両社にわかれており、中筒男命が共通しており、御中主尊は天御中主尊の誤記と思われ、天御中主尊も共通しています。大山祇(咋)命が東、大己貴命が西に配されるのは日吉大社を連想させます。
 これを現在の社殿で見ると、志染の御坂神社は東西にはわかれていません。
 下の写真の細川大柿の三坂神社は拝殿を見るとわかれていないように見えますが、よく見るとしめ縄を垂らしてあるところが二カ所あります。


拝殿の裏からみると本殿は東西にわかれていました。


 西側面後ろ側から見た本殿です。手前の小さな建物が西宮、奥の大きな建物が東宮です。
西側の拝殿と本殿の間からとりました。

東西二社に分かれているのは細川大柿のほうでした。
「播磨鑑」に記述されているご祭神や社殿の様子は細川大柿の三坂神社のものだとおもわれます。しかし、一之宮や志染の記述、十村の記述などは志染御坂神社のことのように思われます。
このように正確に詳細にかかれているように見える「播磨鑑」でも、混同されて書かれていたりするところが他にもあるかもしれません。