月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

400.祭前日、祭の日に出してほしい宿題(月刊「祭御宅」2022.9月5号)

2022-10-17 00:24:03 | 教育の政(まつりごと)
●祭前日と宿題の思い出
 某ボンクラ祭ブログ管理人が小学四年生のころです。その当時は祭が10月16.17の固定日開催でした。管理人が通っていた三木市立三樹小学校は16日が2時間、17日が1時間の授業で帰っていたと記憶しています。
大宮八幡宮のお膝元の小学校、太鼓の音が聞こえるなかでの学習に身が入るわけありません。受かれたボンクラ祭ブログ管理人は宿題の漢字ドリルもせずに学校にいってしまいました。でも祭やしかえらせてくれるだろうとおもったのですが、、、。当時のons先生は、心を鬼にして、漢字ドリルの宿題を居残りでするように命じてきました。そのときは、先生の親心知らず恨みに恨みまくりました。ですが、今思えば、祭前に受かれる気持ちをもちながらも曲がりなりに仕事しているのは、あのときの経験があったからかもしれません。
祭前は「しっかりやることやりましょう。」忘れたら、そのつけ・忘れた宿題は「祭でも払わせましょう」という方針が小学校では望ましいと考えます。
では、祭当日の宿題はどうでしょうか

●祭当日に出してほしい宿題
実は、祭の日だけは宿題は出さないであげてほしい。そんなことを今年の九月までは考えていました。しかし、それは間違いであることに気づきました。
出してあげてほしい宿題がたったひとつだけあります。それは、日記です。楽しかった出来事を生き生きとかく子ども、おみこっさんばかりでたいこのところにいけなかったくやしさ、「おみこっさんどい、おっさんなんどい」ゆうて怒られたことも書く子がいるかもしれません。祭で気もそぞろで、やっつけ仕事のめちゃくちゃな文章を書く子どもが多数を閉めることだと思います。
でも、それらの記録を大人になってみかえしたとき、きっとその人にとっての宝物になることでしょう。

謝辞
 この記事は、香川県琴平の香川氏の子ども時代の祭の日の日記をみせていただいたことがきっかけでできたものです。香川氏の文章、やっつけ仕事でありながらも、祭の楽しさがいきいきとつたわる名文でした。改めて感謝申し上げます。



321.政(まつりごと)の原則(月刊「祭」2020.1月4号)

2021-01-27 14:31:48 | 教育の政(まつりごと)

●祭で政(まつりごと)の過去
 今は政教分離が原則でしたが、かつては祭・占いの結果で政(まつりごと)が行われていました。もちろん、完全な占いのギャンブルというより、忖度がかなりあったとは思いますが。。
 現在は祭政分離の社会ですが、依然として政治の影響を祭は受け続けています。そこで、月刊「祭」でも管理人自身が関係の深い(かった)教育荷役それぞれの政(まつりごと)についてカテゴリをもうけています。

●疑わせない仕様の学習指導要領
 このブログでも政(まつりごと)の基本について書いていませんでした。

①持つ者は自分に有利なシステムをつくろうとする。

 どこかで聞いたような何を今更な言葉ですが、社会科の学習指導要領にもこの類のことは書いていません。
 その影響は、たとえば「報道の教育」でもスポンサーの存在は小学生の教科書には書いていません。もちろん「スポンサーの顔色で内容が決まる危険性がある。」なんてことも書いていません。
  
騙されないために学ぶ

なんてことは、学習指導要領に書けませんが、民主国家を名乗る以上、①くらいの内容はもりこんでほしいものです。


223.限界-教育の政(まつりごと)3-(月刊「祭」2019.11月特別号)

2019-11-07 16:39:00 | 教育の政(まつりごと)
●姫路市でも起きた教員同士の虐待事件
 また、教員同士の虐待事件が発覚しました。文章から察するに加害者は「いじり」のつもりであったのが、被害者きらすらば、受け入れられなかったのだと思われます。
 加害者はもちろん罰せられるべきですし、それ以上に退職した被害者への補償が急がれます。(例えば、自己都合で退職したならばと退職金は雀の涙です。)

●加害者気質の人は重宝されざるを得ない
 加害者の資質や人格攻撃するよりも、どのようにすれば、事件が起きないのかということを考える必要があります。そこで今の学校の現状を見てみましょう。

 日本の多くの小学校では学級制が敷かれています。一学級は5、6年は上限40名、それより下の学年は35名です。現状としては余裕をもったクラス割りではなく、上限に限りなく近い人に近い人数に学級が分けられます。
 もちろん、学業を志す40名ではなく、遊びたい盛りの40名です。中学生の勉強ができる子から九九もままならない子がいる40名です。運動能力にも例えば50メートル走で言えば、数秒差がある40名です。そのような能力に差があり、考え方も違い、必ずしも学業に心は向いていない子たちを「同じ方向」に向かわせるのが教員の仕事とも言えます。

 「40名がお互いの違いを尊重しながら、譲り合いながら、少し喧嘩することもあるけどそれを乗り越えて、成長する」というのが、理想です。現にその理想のためにほとんどの先生方は日々身を削って努力してらっしゃいます。しかし、上のように能力も価値観も違う子たちが同じ授業を受けるのもやはり限界があります。かつては、その限界を体罰で補っていた側面もあると言えます。しかし、体罰は結局いい方には働かないと言うことが、科学的に証明されたという記事を見たことがあります。結局は、クラスを同じ方向に向けるのに使われていた体罰も使うことは許されないということになります。

 そんな中で、「教師はさからったら怖い」と思わせることで、クラスを同じ方向をまかせなければなりません。もちろん「さからったら怖い」と感じる経験も子どもたちには必要ですが、その比重が大きすぎると弊害のほうが大きくなります。この弊害が大きくならないように40人を指導するのははっきり言えば超人なみの能力か、想像を絶する努力が求められます。
 
 現実では、「血の滲むような努力」言い換えれば、「給料の倍以上の労働」でそれらはなされています。管理人のような努力も能力も足りない人は当たり前ですが、血の滲むような努力をもってしても学級が、うまくいかないことも出てきます。そうならないための人を教員の採用試験では選ぶと思われます。
 授業の工夫だけで同じ方向に向く事ができない学級を「同じ方向」にむかせるには、「さからったら怖い」先生の方が重宝されます。言い換えれば、同じ能力、同じ情熱であれば、いじめられっ子ぽい人よりいじめっこぽい人の方が重宝されてしまいます。
 
 いじめっこ「ぽい」人も一歩間違えれば、現実の加害者になりえますし、「ぽい」人を多数とれば、間違えていじめっこ「そのもの」の人を採用する可能性も結局は増えてしまいます。このような人物を採用しなくていいようにするには、また、「ぽい」人が「そのもの」化しないためにはどうすればいいのでしょうか。

 
●今の制度の限界と新制度は。。。
 今の制度は概ねこのような制度です。
①35人から40人までが上限の学級
②能力もやる気も違う人が常時同じ時間を過ごす学級
③基本毎日同じ顔を突き合わす学級
+α
不法行為も学校内での解決が求められる学校

です。
 これらを変えないと児童生徒教師問わず学校での虐待事件は後を絶たないように思われます。そこで管理人として選択肢を考えてみました。

①学級上限20人
 まだ、これならいろんな子がいる中での学級が「さからったら怖い」を比較的比重を少なくして成り立つ限界でしょうか。
 教室を増やしたり改修したり、教師を雇う費用がかさみます。

②習熟度別の授業
 ある程度できる子は、先に進めることで、退屈さや不満は少なくなります。できるけど塾に行けない子にもチャンスが広がります。できない子をどれだけ手厚くできるかは、さける人員がどれだけかによるものと思われます。

③+α 学級制の撤廃と全科目専科制
 人間は閉鎖された環境で不法行為も外に出なければ、いじめは起きます。そのために人の流れを流動的にして、「仲良しを強制されない」という環境を作るというものです。
 こう聞くと有効な気がしますが、管理人には具体的なイメージがわきません。社会学者の内藤朝雄氏などが主張しています。

●-疑いの目を政(まつりごと)に-
 もはや、一人一人の先生方の努力だけではこのような虐待事件を減らすことはできないと思われます。ましてや、神戸方式害悪論という愚論だけで対処するのはもっての他のように思います。
 しかし、このような教育に例えば政治に携わる人が本気で取り組んでくれるという期待は、しないほうがいいと思われます。公教育の充実は給与の高い仕事や社会的影響力のある仕事につくチャンスを、今はそうでない家の子に与えるものです。今、高い給与をもらっていたり、社会的影響力のある人が、自分の身内意外にチャンスを与えるようなことを、わざわざするとは到底思えません。
 不祥事を好機として自分に都合のいい人間を作り出すための改革の可能性も高いでしょう。このような疑いの目で政(まつりごと)をする人を見ることが、政(まつりごと)をする人に対する本当の礼儀と言えるでしょう。

月刊「祭」管理人

 
 
 

208.教育の政(まつりごと)-神戸方式を悪者にしても意味なし-(月刊「祭」2019.10月特別号2)

2019-10-25 17:01:00 | 教育の政(まつりごと)

●神戸方式=悪??
 昨今話題になっている神戸市内の教員の教員による虐待問題はいまだに解決していません。その中で槍玉に上がっているのが、「神戸方式」と呼ばれる教員分配方式です。私が見た限りでは、下のような流れでした。

①各教員は移動希望のアンケートを書く。
②それを元に各校校長先生がどの学校にどの先生を配置するかを仮決めする。
③仮決めの段階で移動がありそうな教員に、現在の勤務先の校長先生が打診して承認を得る。打診された先生には拒否権がある。
④移動先の校長先生か教頭先生が電話や直接くるなどして話す機会を持つ。

 上を見ると、システムとしては「一応」民主的だし、100を超える学校がある自治体では、直接先生方を見ている校長先生が人事に関わるのは、現実的であると思われます。
 改善点として挙げるならば、校長先生から人事権をとりあげるのではなく、先生方に物言う権利を「付与」することでしょう。今の人事システムの素人改善案を下に挙げてみました。

月刊「祭」素人改善案
①「そりが合わない」、「この人の下にいると、パワハラとまではいかないけど、ボーダーラインかなあと」いうのを書かせる。
②パワハラの外部相談機関の設置
③②を踏まえた管理職登用試験の見直し
などが考えられると思います。
④②をふまえた、パワハラへの対応システム・例えば法律家による相談機関の設置
⑤④の機関に訴えがあった加害者と被害者を同じ学校で勤務させないなどの措置の義務化?

 今の状態で、横暴な状態が学校でまかり通っていました。例えば教育委員会に一任などして、いじめの加害者のような人物が市教委に入り込んんだ場合、その横暴が神戸市全体にひろがるだけです。その抑止力となるのが、各校の校長先生です。その抑止力をとるとどうなるのでしょうか?

●為政者の本音
 為政者としては、教育を自分の思いどおりに動かす権限は、メディアを動かすのと同じくらい、喉から手が出るほど欲しいものです。また、自分の意見に反するものライバルになる者を賢く育てるのも馬鹿らしいというのも、やはり本音でしょう。本音として育てたいのは、自分を称賛してくれるそこそこ賢くて従順な人であって、自分を超えたり異を唱えたりする賢い人ではありません。

 この混乱に乗じて、校長先生の権限を取り上げた場合、市教委などで出世するのは、その時の為政者に右へならえな人ばかりになります。つまり、人事権を校長先生から取り上げた場合、為政者に右はならえの人だけで、学校は組織作られてしまいます。
 そうなると、東須磨的な状況が神戸全体で出来上がっていく危険があります。
 こうなると、公教育は衰退するのは目に見えていますし、公教育が衰退することで、条件のいいしごとにつくことができるのは、お金のかかる私立校に行ける子に限られます。格差の拡大固定をしたいというのは、政(まつりごと)をする人にとっては抗い難い欲求です。
 神戸方式批判論は東須磨虐待問題の機に乗じた教育改悪策になる危険性も持っています。

●神戸方式を取らない大規模自治体の小学校の実情について
 各学校の権限より、当該自治体の首長や教育委員会の力が強いとある大規模自治体の小学校の話を聞いたことがあります。校長室は説教部屋状態になっているそうです。教員の裁量権も小さく、授業はアドバイスというよりも干渉される状態が続いていると言います。
 その校長は「強い」教育委員会や首長の権限で選ばれた人たちで、その意向に沿った学校運営をせざるを得ません。先生のなり手も少ないそうです。もちろん、優秀な教員も集まらず、学校の状態は。。。といった話です。
 このような実情を見ると、権限を校長先生から奪うのではなく、他の先生方にも付与することが、今の神戸の教育改革に求められているのです。


●平民の台頭で生まれた祭
 本ブログの主題となる屋台、だんじり 、山車の祭は、平民が力をつけてきたことによって行われるようになりました。実際に祭をしてみると、小学校、中学校時代に培った友人関係が、いかに大きな働きをするかも実感できます。
 祭と政(まつりごと)は表裏一体、屋台やだんじりの祭はその中でも教育の政(まつりごと)と表裏一体になっています。
 問題は多々ある教育現場ですが、安易な神戸方式批判論の拡大と盲信は、祭文化にも大きなマイナスになるように思えてなりません。