前一世紀から五賢帝とよばれる王達の統治時代は、ローマ帝国が平和のうちに治められたパックス・ロマーナと呼ばれる時代です。
この頃、都市の需要により、公衆浴場、競技場、そして水道橋などの建築技術が発達しました。特に水道は、現在でも当時の物を使っているところがあるそうです。
さて、そこから遠く離れた京の都にも水道橋が存在します。
それは、隣の滋賀県の琵琶湖から京都に水を引くための琵琶湖疎水です。琵琶湖から水が流れ出る唯一の瀬田川は京都を通らず宇治川に流れつきます。
なので琵琶湖からの水をひくことは、京都の人にとっては長年の夢でした。
特に、明治維新に伴う遷都により活気を失っていた京都にとって、長年の夢をかなえることは、その後の京都の行く先を大きく変えるものだったのでしょう。この疎水は日本初の水力発電などに利用されました。
この疎水は、古の都・京を通るためにその景観にも配慮されました。
そのために建てられたのが、南禅寺境内を通る水路閣です。この水路閣は古代ローマの水道橋を参考につくられたそうです。
794年より明治維新まで続いた平安京(天皇は現在も江戸に行幸していることになっているらしいので、本拠地は京都ということになっている。)。その名前は、平安の京(みやこ)たることを祈るためのものです。
その都の歴史に幕を閉じたとき、まるでここが都だったことをしめすかのように築かれたのは、はるか西の「平和の都」=「パックス・ロマーナ」の水道橋。思い返せば、平安たることを祈った都は、疫病が流行り、貴族は怨霊の祟りに恐れ、応仁の乱で都は焼け野原になるという、平安の都とはほど遠いものでした。
一方、ローマの都も、平和が保たれたとはいうものの、闘技場では剣奴たちの殺し合いが日常茶飯事だったようです。
それでも、平安と活気ある京の復活を祈りつつ、パックスの象徴を築いた当時の人々の願いはどのようなものだったのでしょうか?
ただ分かることは一つだけあります。たんなる幸運か、それとも何らかの理由があるのか、京が都でなくなってから、パックス・ロマーナの水道橋ができてからは、京都は他の都市と比べて、大規模な破壊の憂き目に会っていないということです。
2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsu等)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。
琵琶湖。
かつて天智天皇は湖が見える大津に都を気づきました。
淡水の海ということで、淡海(あわうみ→おうみ)と呼ばれ、琵琶湖周辺の地方を都に近い水辺ということで、近江と書かれるようになりました。
日本史でたびたび登場した比叡山延暦寺もこの湖を望み、比叡山の麓・日吉大社の祭礼では御神輿が琵琶湖を渡ります。その都の傍の湖は、様々な物資の運搬、交通の要所として注目されました。また、ムカデのところでも述べたように、近畿の水がめとしての役割もにないました。そして、鮒やシジミ、鮎、モロコ等、その豊富な水産資源が日本の食文化の形成に一役買ったことも否めないでしょう。
このように大きな影響を日本史に及ぼし続けた琵琶湖も、幕末から明治にかけての文明開化に始まる西洋文化の導入の影響を受けることになりました。
滋賀県人なら誰もが知っている「琵琶湖就航の歌」。第三高等学校(後の京都大学)在学中の小口太郎が作詞、吉田千秋が作曲をしました。琵琶湖の名所を巡る情緒あふれる小口の詩につけた、吉田の曲はどういったものだったのでしょうか?
この曲は、もともと英国の「ひつじ草」という詩に吉田が曲をつけたものがはじめだったそうです。この「ひつじ草」、ハイカラな第三高等学校生の間で流行りました。英国の詩からインスピレーションを受けてつくられた吉田の曲で、歴史豊かな琵琶湖を情緒的に巡る小口の詩が歌われ、「琵琶湖就航の歌」は完成しました。「琵琶湖周航の歌」は、歴史豊かな琵琶湖とハイカラさんとの出会いがもたらした、歌ということができるでしょう。
この歌は、文明開化が琵琶湖にもたらした正の遺産ということになります。
では、文明開化が琵琶湖にもたらした負の遺産とは何になるのでしょうか?
それは、1925年、赤星鉄馬が箱根の芦ノ湖に持ち込んだブラックバスです。魚食性かつ天敵のいない琵琶湖において、ブラックバスは爆発的にふえ、固有種を駆逐していってしまったのです。
美しく歴史豊かな琵琶湖をハイカラなセンスで歌った時代、実は、それらの破壊もまた始まっていたのかもしれません。
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理科で習いましたね?
ヒトことホモ・サピエンスは何類だったでしょうか?
えー、体温はほぼ一定であり、胎生、母乳で子供を育てる、体毛があるので、哺乳類となります。他には、犬、猫、豚、馬、像、イルカから蝙蝠、ライオン、鹿etc... これは生物学上の分類となります。
しかし、日本や中国が使い続けてきた東洋の科学・陰陽五行道においては、ヒトは少し違う位置におかれていました。
陰陽五行道とは、万物・事柄を陰陽と五行に当てはめていくものの考え方です。
丁寧に説明するといつまでたっても終わらないので、陰陽についてはここでは省略します。
「五行」とは世界を構成する「木」「火」「土」「金」「水」の五元素のことです。その五行にはそれぞれ、下のように方角、色、などが割り当てられました。この原理は、平安京の選地にも用いられました。東・木・蒼龍(賀茂川)、南・火・朱雀(小椋池)、西・金・白虎(山陽道)、北・玄武(北山)とこんなかんじです。そうなると、中心の町にいる人間は「土」の象徴となります。
さて、五行思想には、蒼龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣だけでなく、その他の生物も、四聖獣をその一族の筆頭としてその特徴ごとに分類されていました。
蒼龍を筆頭とする鱗蟲とよばれる動物は、鱗を持つ動物で各種魚、蛇などがこれに属します。朱雀を筆頭とする羽蟲は、羽を持つ動物で、各種鳥類・蝙蝠などがこれにふくまれます。玄武を筆頭とする甲蟲は、甲羅を持つ動物で、エビなどの甲殻類、カタツムリなどが属します。そして、白虎を筆頭とする毛蟲は、毛をもつ動物で犬や猫など哺乳類の多くと、毛虫が含まれます。
ところが、毛蟲にはヒトは含まれないのです。それは、ヒトが、玄武・朱雀・白虎・蒼龍に囲まれた「都」という中心に住む裸蟲の長であるからです。
裸蟲とはその名のごとく、裸の動物であり、毛も羽も鱗も甲羅もない動物のことです。その長が体毛の退化した人間なのです。そして、それにふくまれるのは、、、、ナメクジ、ヒトデ、ミミズ、、、、、。
人間なんてララーラーララララーラー♪ こんなものなんですね(--;
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五行 |
木 |
火 |
土 |
金 |
水 |
方角 |
東 |
南 |
中 |
西 |
北 |
聖獣 |
蒼龍 |
朱雀(鳳凰) |
人 |
白虎 |
玄武(亀) |
蟲 |
鱗蟲 |
羽蟲 |
裸蟲 |
毛蟲 |
甲蟲 |
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