月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

二つの「円山」と二つの大都市 -札幌の円山と京都の円山- 

2019-01-14 10:06:53 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり

 

 

  ここでは、二つの円山、札幌の円山と京都の円山について考えていきたいと思います。
 聞いたことがある人も多いと思いますが、平安や平城の都は、天皇が北の中心に位置するようにつくられました。また、ここでも述べたように風水・陰陽五行の法則に則って東西南北に四聖獣を配置する造りとなっていました。

  さて、円山の話をする前に、京の円山が位置する、都の「東」にスポットを当てたいと思います。平城の都・三条通りの東には藤原氏の氏社である春日社とさらに東側にその神体山三笠山が位置します。また、その神宮寺ともいえるこれも藤原氏の氏寺・興福寺というお寺も春日社のすぐ側に位置しています。三笠山は古代の出土から西側(都)から拝める状態となっていました。

 では、平安の都はどうなのでしょうか?

 三条の東には祇園新宮といわれる粟田神社、その南にはかつての祇園社である八坂神社。その東には(名前忘れました(・・; )山の上に神体山ともいえる将軍塚が位置しています。この将軍塚に埋められている坂上田村麻呂もまた、西を向いているそうです。また、祇園社は藤原氏の崇敬を受けており、かつては藤原氏の氏寺である興福寺の管轄下にあったとされています。つまり、祇園社は平安版の春日社ということができるでしょう(山田貴生「祇園祭の研究」2001年度龍谷大学国際文化学研究科修士論文)。

 春日社の祭神が鹿島明神であるのと比べて、祇園社の牛頭天王(すさのおのみこと)の朝廷へのまつろわぬ度が高いということでしょうか?この変更は、平安時代において、御霊信仰がさかんになり、藤原氏もまた道真をはじめとする御霊の報復*を恐れていたことに起因するのでしょう。

 さて、このようにしてつくられた平安の東・祇園も、明治維新を向かえ大きな転機を迎えます。それは、約1100年ぶりの東京遷都。その遷都にともない、東山三条に平安神宮が作られます。さらに、祇園社の東に「円山」公園もつくられました。 京の都の東側は、まつろわぬ神をまつる宗教施設と、円山公園の配置となりました。

 一方、明治時代より本格的な開発が始まった札幌。

 この都の配置には興味深いものがあります。

 まず、北に札幌駅。西に出雲系の神「八千矛神」をまつりさらに西に円山公園。その西に神体山ともいえる山々(荒井山か三角山、もしくは藻岩山が神体山か)が連なります。この配置を南北ひっくり返すと、京都の都作りと一致するのです。

 

 このような札幌の都作りは、明治時代の文明開化における、西洋文化の流入に端を発するのではないかと考えます。

 というのは、平安京が天皇を天体という自然にあわせて都をつくっていたのに対して、札幌はまずは天皇ありきで都をつくっているという点です。江戸時代の神道家・本居宣長の書物にも、神を絶対者としてあがめるキリスト教の影響があらわれているといいます。それと同様に、札幌のデザインの仕方にも、「神」を絶対者としてあがめるキリスト教・西洋文化の影響が現れているのではないでしょうか?
 

京都  

    北

   天皇

 

           東 祇園社(出雲系神) 将軍塚(神体山)

              円山公園 

 

 

-----京都駅----------------

札幌

    南

   天皇

 

           西 八千矛神(出雲系神) (神体山)

              円山公園 

 

 

-----札幌駅----------------

*祇園社における奉幣や御霊会は10世紀はじめから半ばにかけて行われ、10世紀末にはとうとう祇園会が定例化することになった。その時期は、ちょうど菅原道真の怨霊の猛威が恐れられていた時代と重なる。

2006年

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


平和な都 架け橋は水道橋

2019-01-14 10:05:43 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり



 前一世紀から五賢帝とよばれる王達の統治時代は、ローマ帝国が平和のうちに治められたパックス・ロマーナと呼ばれる時代です。

 この頃、都市の需要により、公衆浴場、競技場、そして水道橋などの建築技術が発達しました。特に水道は、現在でも当時の物を使っているところがあるそうです。

 さて、そこから遠く離れた京の都にも水道橋が存在します。
 それは、隣の滋賀県の琵琶湖から京都に水を引くための琵琶湖疎水です。琵琶湖から水が流れ出る唯一の瀬田川は京都を通らず宇治川に流れつきます。

  なので琵琶湖からの水をひくことは、京都の人にとっては長年の夢でした。 
 特に、明治維新に伴う遷都により活気を失っていた京都にとって、長年の夢をかなえることは、その後の京都の行く先を大きく変えるものだったのでしょう。この疎水は日本初の水力発電などに利用されました。

 この疎水は、古の都・京を通るためにその景観にも配慮されました。
 そのために建てられたのが、南禅寺境内を通る水路閣です。この水路閣は古代ローマの水道橋を参考につくられたそうです。

 794年より明治維新まで続いた平安京(天皇は現在も江戸に行幸していることになっているらしいので、本拠地は京都ということになっている。)。その名前は、平安の京(みやこ)たることを祈るためのものです。

 その都の歴史に幕を閉じたとき、まるでここが都だったことをしめすかのように築かれたのは、はるか西の「平和の都」=「パックス・ロマーナ」の水道橋。思い返せば、平安たることを祈った都は、疫病が流行り、貴族は怨霊の祟りに恐れ、応仁の乱で都は焼け野原になるという、平安の都とはほど遠いものでした。

 一方、ローマの都も、平和が保たれたとはいうものの、闘技場では剣奴たちの殺し合いが日常茶飯事だったようです。

 それでも、平安と活気ある京の復活を祈りつつ、パックスの象徴を築いた当時の人々の願いはどのようなものだったのでしょうか?

 ただ分かることは一つだけあります。たんなる幸運か、それとも何らかの理由があるのか、京が都でなくなってから、パックス・ロマーナの水道橋ができてからは、京都は他の都市と比べて、大規模な破壊の憂き目に会っていないということです。

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsu等)に掲載。
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琵琶湖 -文明開化がもたらした正負の遺産-

2019-01-14 10:04:31 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり



 琵琶湖。
 かつて天智天皇は湖が見える大津に都を気づきました。
 淡水の海ということで、淡海(あわうみ→おうみ)と呼ばれ、琵琶湖周辺の地方を都に近い水辺ということで、近江と書かれるようになりました。

 日本史でたびたび登場した比叡山延暦寺もこの湖を望み、比叡山の麓・日吉大社の祭礼では御神輿が琵琶湖を渡ります。その都の傍の湖は、様々な物資の運搬、交通の要所として注目されました。また、ムカデのところでも述べたように、近畿の水がめとしての役割もにないました。そして、鮒やシジミ、鮎、モロコ等、その豊富な水産資源が日本の食文化の形成に一役買ったことも否めないでしょう。 

 このように大きな影響を日本史に及ぼし続けた琵琶湖も、幕末から明治にかけての文明開化に始まる西洋文化の導入の影響を受けることになりました。
 滋賀県人なら誰もが知っている「琵琶湖就航の歌」。第三高等学校(後の京都大学)在学中の小口太郎が作詞、吉田千秋が作曲をしました。琵琶湖の名所を巡る情緒あふれる小口の詩につけた、吉田の曲はどういったものだったのでしょうか? 
  この曲は、もともと英国の「ひつじ草」という詩に吉田が曲をつけたものがはじめだったそうです。この「ひつじ草」、ハイカラな第三高等学校生の間で流行りました。英国の詩からインスピレーションを受けてつくられた吉田の曲で、歴史豊かな琵琶湖を情緒的に巡る小口の詩が歌われ、「琵琶湖就航の歌」は完成しました。「琵琶湖周航の歌」は、歴史豊かな琵琶湖とハイカラさんとの出会いがもたらした、歌ということができるでしょう。
 この歌は、文明開化が琵琶湖にもたらした正の遺産ということになります。

 では、文明開化が琵琶湖にもたらした負の遺産とは何になるのでしょうか?
 それは、1925年、赤星鉄馬が箱根の芦ノ湖に持ち込んだブラックバスです。魚食性かつ天敵のいない琵琶湖において、ブラックバスは爆発的にふえ、固有種を駆逐していってしまったのです。
 美しく歴史豊かな琵琶湖をハイカラなセンスで歌った時代、実は、それらの破壊もまた始まっていたのかもしれません。

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
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人とナメクジは同じ仲間?

2019-01-14 10:02:51 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり

理科で習いましたね?
 ヒトことホモ・サピエンスは何類だったでしょうか?
 えー、体温はほぼ一定であり、胎生、母乳で子供を育てる、体毛があるので、哺乳類となります。他には、犬、猫、豚、馬、像、イルカから蝙蝠、ライオン、鹿etc... これは生物学上の分類となります。
 しかし、日本や中国が使い続けてきた東洋の科学・陰陽五行道においては、ヒトは少し違う位置におかれていました。
 陰陽五行道とは、万物・事柄を陰陽と五行に当てはめていくものの考え方です。
 丁寧に説明するといつまでたっても終わらないので、陰陽についてはここでは省略します。

 「五行」とは世界を構成する「木」「火」「土」「金」「水」の五元素のことです。その五行にはそれぞれ、下のように方角、色、などが割り当てられました。この原理は、平安京の選地にも用いられました。東・木・蒼龍(賀茂川)、南・火・朱雀(小椋池)、西・金・白虎(山陽道)、北・玄武(北山)とこんなかんじです。そうなると、中心の町にいる人間は「土」の象徴となります。

 さて、五行思想には、蒼龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣だけでなく、その他の生物も、四聖獣をその一族の筆頭としてその特徴ごとに分類されていました。
 蒼龍を筆頭とする鱗蟲とよばれる動物は、鱗を持つ動物で各種魚、蛇などがこれに属します。朱雀を筆頭とする羽蟲は、羽を持つ動物で、各種鳥類・蝙蝠などがこれにふくまれます。玄武を筆頭とする甲蟲は、甲羅を持つ動物で、エビなどの甲殻類、カタツムリなどが属します。そして、白虎を筆頭とする毛蟲は、毛をもつ動物で犬や猫など哺乳類の多くと、毛虫が含まれます。

 ところが、毛蟲にはヒトは含まれないのです。それは、ヒトが、玄武・朱雀・白虎・蒼龍に囲まれた「都」という中心に住む裸蟲の長であるからです。
 裸蟲とはその名のごとく、裸の動物であり、毛も羽も鱗も甲羅もない動物のことです。その長が体毛の退化した人間なのです。そして、それにふくまれるのは、、、、ナメクジ、ヒトデ、ミミズ、、、、、。

 人間なんてララーラーララララーラー♪ こんなものなんですね(--;

 

l            

五行

 金 

方角

西

聖獣

蒼龍

朱雀(鳳凰)

白虎

玄武(亀)

鱗蟲

羽蟲

裸蟲

毛蟲

甲蟲

          
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