桃山時代から江戸時代初期の角倉家の台頭をみるとき、当主だった了以にばかり
スポットが当たりますが、当時の角倉家の事業に子・素庵の存在を無視することはできません。
角倉素庵・・・本名・与一(よいち)
了以の17歳の時の子で、元亀2年(1571)に生まれていますから、
父と年の差がない上、了以が朱印船貿易に乗り出した年齢が50歳で
あったことを考えると、実際に現場を仕切っていたのは素庵であることは
想像に難くないと思います。
事実、保津川開削工事の許可を江戸にもらいに行くのも、また富士川などの
開削工事を依頼される窓口はすべて素庵が行っています。
こうしてみると、事業の実働は素庵が取り仕切り、了以は
陰で総合的な指揮をとっていたのではないでしょうか?
まさに、二人三脚で時代の変動期を生き抜いた角倉了以・素庵親子ですが、
最初からすんなりこの親子関係が出来ていたというわけではないようです。
剛毅闊達な了以の性格に比べ、素庵は母親似だったのか、おとなしく体の弱い体質で、
学問をこよなく愛し、朱子学の大家・藤原惺窩(せいか)や
書家で芸術家の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に入門していました。
自分の事業の跡を素庵に継がせようと思っていた了以は、学問にふける素庵を叱り飛ばし、
学者になる夢を絶たせて実業の世界へ引っ張ったのです。
了以自身も医者だった父の跡を継ぐのを拒み、実業の世界を歩んでいたので、
その心中は複雑なものがあったのではないでしょうか?
しかし、保津川の開削工事の際の許可申請時にみられるように、
その学問で培った人脈と教養はその後、実業の世界に大いに生かされました。
師匠・藤原惺窩にお願いしてまとめてもらった「舟中規約」は
異国人や芸術・芸能家など多種な人種が乗り込んでいた角倉朱印船の
乗船者に遵守させる規則で、長い航海での船内秩序を維持するのに役立ちましたし、
角倉家商売の精神ともいえる「人を捐(す)てて己を益するに非ず」という
「他人に損失を与えて、自分の利益を得ようとしない」という商道徳を掲げ、
近代的な企業モラルの確立により、明治期まで盤石の企業体をつくりあげたのでした。
その後、素庵は伏見港から淀、枚方を経て大阪までの淀川の水運事業を管理する
過書奉行を幕府より任命され、淀川を運航する川船の運上銀の徴収や役船の調達などの
業務を代々世襲にて行い、一族の子々孫々まで盤石な経済基盤を気付いたのでした。
また、素庵は琵琶湖を大坂と結ぶ水運ルートを企画した最初の人物でもあります!
慶長19年(16141)9月23日付の幕府(林羅山・儒学者)から角倉素庵に宛てた書状によると
「瀬田川、宇治川を利用し瀬田~宇治間の舟運を開きたいという計画を徳川家康に言上した」
という内容で、素庵の計画を聞いた家康は上機嫌で
「舟が上下できれば良く、もし出来なくても湖水の低下で6、7万石の上田が生まれる
湖水が2、3尺も引き下がれば近江で20万石の新田開拓が可能である」と
計画実現を期待するものだったといいます。
さらに、北国などの物貨を琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で伏見へ送り、
開削した高瀬川を利用すれば、京へ運び込める舟運ルートもでき、また
舟の運航のみでなく工事で、琵琶湖の水位低下で広大な新田開発もできるという
一石二鳥という壮大な事業計画だったのです。
海外貿易で有した財力と河川工事の高い技術力を持つ、角倉家が本気で着工すれば、
実現も不可能ではなかったかも?しれません。
しかし、同計画に関わる史料はこの書状だけで、その後に着工された
形跡も残されていないのは少し残念な気がします。
時は経て、明治時代、琵琶湖疏水開削事業の立役者である工学者・田辺朔朗氏と
角倉一族とのゆかりもあるのですが、その話は後日に回すとして、
スケールの大きさという点でも、父了以に匹敵する気質を持っていたことがわかります。
素庵は隠居後、生来、希望していた学問・芸術の世界へ戻ったらしく、
嵯峨を拠点に出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵谷宗達らの協力を得て
史記や方丈記、徒然草などを編集した「嵯峨本」といわれる書籍群を創刊しました。
手書きの味わいを最大限に引き出した活版印刷で、装飾にも芸術性を重視した、
日本印刷史上、有数の美しさを持つ本といわれています。
角倉了以の陰に隠れ、知る人ぞ知る、存在の素庵ですが、父了以同様、
日本の産業経済史に残る実業家であり、且つ当時の最高峰の教養人たちと
交流し、自らも芸術・文化などの面でも優れた美意識と高い教養を有する
日本芸術文化史に残る一流の教養人であったという点では、
父了以をも凌ぐ、稀代の経済人だったといえるのではないでしょうか。
スポットが当たりますが、当時の角倉家の事業に子・素庵の存在を無視することはできません。
角倉素庵・・・本名・与一(よいち)
了以の17歳の時の子で、元亀2年(1571)に生まれていますから、
父と年の差がない上、了以が朱印船貿易に乗り出した年齢が50歳で
あったことを考えると、実際に現場を仕切っていたのは素庵であることは
想像に難くないと思います。
事実、保津川開削工事の許可を江戸にもらいに行くのも、また富士川などの
開削工事を依頼される窓口はすべて素庵が行っています。
こうしてみると、事業の実働は素庵が取り仕切り、了以は
陰で総合的な指揮をとっていたのではないでしょうか?
まさに、二人三脚で時代の変動期を生き抜いた角倉了以・素庵親子ですが、
最初からすんなりこの親子関係が出来ていたというわけではないようです。
剛毅闊達な了以の性格に比べ、素庵は母親似だったのか、おとなしく体の弱い体質で、
学問をこよなく愛し、朱子学の大家・藤原惺窩(せいか)や
書家で芸術家の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に入門していました。
自分の事業の跡を素庵に継がせようと思っていた了以は、学問にふける素庵を叱り飛ばし、
学者になる夢を絶たせて実業の世界へ引っ張ったのです。
了以自身も医者だった父の跡を継ぐのを拒み、実業の世界を歩んでいたので、
その心中は複雑なものがあったのではないでしょうか?
しかし、保津川の開削工事の際の許可申請時にみられるように、
その学問で培った人脈と教養はその後、実業の世界に大いに生かされました。
師匠・藤原惺窩にお願いしてまとめてもらった「舟中規約」は
異国人や芸術・芸能家など多種な人種が乗り込んでいた角倉朱印船の
乗船者に遵守させる規則で、長い航海での船内秩序を維持するのに役立ちましたし、
角倉家商売の精神ともいえる「人を捐(す)てて己を益するに非ず」という
「他人に損失を与えて、自分の利益を得ようとしない」という商道徳を掲げ、
近代的な企業モラルの確立により、明治期まで盤石の企業体をつくりあげたのでした。
その後、素庵は伏見港から淀、枚方を経て大阪までの淀川の水運事業を管理する
過書奉行を幕府より任命され、淀川を運航する川船の運上銀の徴収や役船の調達などの
業務を代々世襲にて行い、一族の子々孫々まで盤石な経済基盤を気付いたのでした。
また、素庵は琵琶湖を大坂と結ぶ水運ルートを企画した最初の人物でもあります!
慶長19年(16141)9月23日付の幕府(林羅山・儒学者)から角倉素庵に宛てた書状によると
「瀬田川、宇治川を利用し瀬田~宇治間の舟運を開きたいという計画を徳川家康に言上した」
という内容で、素庵の計画を聞いた家康は上機嫌で
「舟が上下できれば良く、もし出来なくても湖水の低下で6、7万石の上田が生まれる
湖水が2、3尺も引き下がれば近江で20万石の新田開拓が可能である」と
計画実現を期待するものだったといいます。
さらに、北国などの物貨を琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で伏見へ送り、
開削した高瀬川を利用すれば、京へ運び込める舟運ルートもでき、また
舟の運航のみでなく工事で、琵琶湖の水位低下で広大な新田開発もできるという
一石二鳥という壮大な事業計画だったのです。
海外貿易で有した財力と河川工事の高い技術力を持つ、角倉家が本気で着工すれば、
実現も不可能ではなかったかも?しれません。
しかし、同計画に関わる史料はこの書状だけで、その後に着工された
形跡も残されていないのは少し残念な気がします。
時は経て、明治時代、琵琶湖疏水開削事業の立役者である工学者・田辺朔朗氏と
角倉一族とのゆかりもあるのですが、その話は後日に回すとして、
スケールの大きさという点でも、父了以に匹敵する気質を持っていたことがわかります。
素庵は隠居後、生来、希望していた学問・芸術の世界へ戻ったらしく、
嵯峨を拠点に出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵谷宗達らの協力を得て
史記や方丈記、徒然草などを編集した「嵯峨本」といわれる書籍群を創刊しました。
手書きの味わいを最大限に引き出した活版印刷で、装飾にも芸術性を重視した、
日本印刷史上、有数の美しさを持つ本といわれています。
角倉了以の陰に隠れ、知る人ぞ知る、存在の素庵ですが、父了以同様、
日本の産業経済史に残る実業家であり、且つ当時の最高峰の教養人たちと
交流し、自らも芸術・文化などの面でも優れた美意識と高い教養を有する
日本芸術文化史に残る一流の教養人であったという点では、
父了以をも凌ぐ、稀代の経済人だったといえるのではないでしょうか。