保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語。~その弐~

2015-06-10 15:46:08 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
父了以亡き後、角倉家の家督を継い素庵は、幕府より淀川通船輸送管理者や
木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど
隆々たる事業展開を遂げましたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病
ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになりました。
素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲します。
当時、ライ病は、一族のケガレとして乞食として放浪の旅 に出るか、
生涯、物乞いの生活を送るか、どちらかの選択せざるおえないほどの差別と偏見を受けていました。
素庵の息子たちは父の心中を察し、嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲させたのです。
その後、追い打ちをかけるように素庵に不運が襲います。素庵は光を失ったのです。
それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 『文章達徳録』の増補と『本朝文粋』の校訂を続行するなど
、いのち尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだのです。
しかし、当時、ライ者に直接関わることは、世間の掟に背くことであり、世間から見捨てられた身である
素庵に書籍の出版を協力する者はありませんでした。

そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した『本朝文粋』を古活字版で刊行することで、
素庵の大恩に報いることを決心したのでした。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意でした。
事実、宗達はこれを期に筆を置く覚悟があったといいます。
そして素庵が校訂した『本朝文粋』は寛永七年(1630)に出版されました。

しかし、運命は思わぬ方向へ宗達を導きました。
これを読んだ後水尾院が絶賛し、その刊行に対する褒賞として、宗達に「法橋位」を贈ったのです。
宗達は慣例に従い、「楊梅図」ほか屛風絵 三双を描き、後水尾院の仙洞御所、
東福門院の女院御所、明正天皇の禁裏御所に進上しました。
すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなったのです。
その後、宗達は寛永九年から十年にかけて「風神雷神図屛風」を描き、
益田家本「伊勢物語図色 紙」三十六図を描くなど、、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから
注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟きました。
 
素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき
嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられました。
そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守ったのです。

琳派400年、俵屋宗達と角倉素庵の友情ものがたり。~その壱~

2015-06-10 09:02:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「琳派」とは江戸時代初期に本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し尾た芸術表現技法のことで、
彼らに強く影響を受けた尾形光琳や乾山兄弟によって後年発展しました。
漢画の技法をその基礎におきつつも、大和絵の技法や題材も取り込んだ、
独自のデザイン性に富んだ様式を編み出しました。
京都の北・鷹峯に光悦が開いた「光悦村」から日本中へ広がった芸術様式・琳派が生まれて400年。
その記念して今年、京都では様々が行事が行われています。

そしてこの保津川にもこの琳派と縁浅からぬ物語があることをご紹介したいと思います。
保津川下りの創業者といえる角倉素庵と、琳派の人たちとの友情のがたり。
角倉素庵はもうご紹介するまでもなく、保津川下りの創設者・角倉了以の息子で了以の片腕として
保津川、富士川、高瀬川開削を成し遂げ、朱印船による海外貿易を手がけた大商人です。
素庵は晩年、事業を息子たちに譲り、生来、希望をしてた文化創作への道を選びました。
そこで出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力を得て「嵯峨本」といわれる古活字本を出版しています。
西洋から伝わった最先端の木活字を用い、用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本として
世界的に高い評価を得てる嵯峨本には「伊勢物語」「観世流謡本」など13点が現存し、
その編集者、作成者の名を取り、光悦本や角倉本ともいわれています。
特に俵屋宗達と素庵はお互いの才能にリスペクトされ、友情を深めていきます。

そしてその後の素庵の数奇な運命が、宗達に傑作を生み出す源になるのです。