私は16才の時、空手と出会い、27年間、止むことなく稽古を続けてきた
高校卒業後は、大学に進学せず、K会館の本部内弟子になるべく
入塾願書を取り寄せたが、両親との話し合いの末、
大学に進学して「空手」を続けるという選択を選んだ。
若き日はアメリカに渡り、海外空手家たちと激しく拳を交え、世界の力も知った。
前職の新聞記者家業の忙しさから、空手修業の時間が持てないことが
ストレスとなり、今の仕事に天職する動機の一つにもなった。
私の人生の傍にはいつも「空手」があった。
実戦さながらの直接打撃制の真剣勝負、グレージーな仲間たちに
囲まれて、血反吐を吐く様な、肉体の限界まで鍛えぬく厳しい稽古。
その中で空手の持つ恐怖を知る一方、強くなる楽しさも知った。
しかし、自分自身、武道という視点では、まだ何もわかっていない
と最近、感じることが多い。
実戦スタイルの空手といえども、ルールのある中での勝ち負けを
決める競技に変わりなく、相手との相対的な戦いに重きがある。
もちろん、戦うからには他者に勝たなくては意味がないし「勝敗にこだわる」
のだが、武道の世界はそれだけでは到達できない境地がある。
武道という世界をつくりあげてきた日本という国には、この境地に
到達した(本人たちはそうは思っていないが)武人たちを多く輩出した歴史を有する。
そのひとりに幕末の剣豪「山岡鉄舟」がいる。
鉄舟は当時、世に聞こえた剣の達人だったが、生涯ひとりの人間も
斬ったことがなかった。
その鉄舟がこの日本にとって最も大きな功績を残したのが
幕末の「江戸城無血開城」だった。
尊皇攘夷の盛り上がりで「倒幕」の気運が高まった激動の幕末。
武力で徳川幕府を倒すことを目的とした討幕軍が西郷隆盛を大将に
組織された。
幕府の存亡が危ぶまれた切迫した状況の中、鉄舟は単身で西郷のいる駿府・総督府に
乗り込み、西郷に直談判することで説得、合意を取り付け、結果、血を流さずに
江戸城を開城し、300年近くに及ぶ幕府の幕ひかせてた。
彼のはたらきで日本は、血で血を洗うような混乱を招かず、
江戸幕府から明治政府へと大きな時代変革を成し遂げ、
アジアで最初の近代国家の礎をきずくことになった。
西郷と面会する時、大勢の官軍警備隊の中を「朝敵・徳川慶喜が家来
山岡鉄太郎(鉄舟)まかり通る!」と大声で堂々と歩行していったという。
その胆力に西郷は感服したという。
そして、何より西郷との面会を果たす為、官軍の目が光っている江戸から駿府の
道中を、難なくすり抜け、単身で辿り着いたことは奇跡といってもいい。
そこには、剣により磨かれし胆力と人と太刀を交えることなく「戦わずして勝つ」
という「武の極意」に基ずく行動だった。そこのところを、西郷も察し「鉄舟は信用できる」と読んだのではないか。
鉄舟のこの迫力は剣術を武道にまで昇華させた姿であり
「戦わずして勝つ」という武の境地を体現したものだった。
武道は、命と命をかけた真剣勝負だ。負ければそれは即、死を意味する、
甘えや妥協の余地のない世界である。
だからこそ、戦うことが許されないという、深みのある世界なのだ。
「戦わずして勝つ」それこそが、武術を修業したものが目指す境地であり、
そこには、金や名誉、命すら超えていく究極の次元の高さがある。
相対的な戦いを超えた、自己との厳しい闘いの中でしか到達できない境地。
残念ながら、自分にはまだ、この境地の影すら見えてはこない。
だからこそ、今日も修業に励むのだ。
空手という武術を、武道の境地へ到達できるように。
☆写真はバングラデシュの祭りに飛び入りで「空手演武」をした時のもの。
高校卒業後は、大学に進学せず、K会館の本部内弟子になるべく
入塾願書を取り寄せたが、両親との話し合いの末、
大学に進学して「空手」を続けるという選択を選んだ。
若き日はアメリカに渡り、海外空手家たちと激しく拳を交え、世界の力も知った。
前職の新聞記者家業の忙しさから、空手修業の時間が持てないことが
ストレスとなり、今の仕事に天職する動機の一つにもなった。
私の人生の傍にはいつも「空手」があった。
実戦さながらの直接打撃制の真剣勝負、グレージーな仲間たちに
囲まれて、血反吐を吐く様な、肉体の限界まで鍛えぬく厳しい稽古。
その中で空手の持つ恐怖を知る一方、強くなる楽しさも知った。
しかし、自分自身、武道という視点では、まだ何もわかっていない
と最近、感じることが多い。
実戦スタイルの空手といえども、ルールのある中での勝ち負けを
決める競技に変わりなく、相手との相対的な戦いに重きがある。
もちろん、戦うからには他者に勝たなくては意味がないし「勝敗にこだわる」
のだが、武道の世界はそれだけでは到達できない境地がある。
武道という世界をつくりあげてきた日本という国には、この境地に
到達した(本人たちはそうは思っていないが)武人たちを多く輩出した歴史を有する。
そのひとりに幕末の剣豪「山岡鉄舟」がいる。
鉄舟は当時、世に聞こえた剣の達人だったが、生涯ひとりの人間も
斬ったことがなかった。
その鉄舟がこの日本にとって最も大きな功績を残したのが
幕末の「江戸城無血開城」だった。
尊皇攘夷の盛り上がりで「倒幕」の気運が高まった激動の幕末。
武力で徳川幕府を倒すことを目的とした討幕軍が西郷隆盛を大将に
組織された。
幕府の存亡が危ぶまれた切迫した状況の中、鉄舟は単身で西郷のいる駿府・総督府に
乗り込み、西郷に直談判することで説得、合意を取り付け、結果、血を流さずに
江戸城を開城し、300年近くに及ぶ幕府の幕ひかせてた。
彼のはたらきで日本は、血で血を洗うような混乱を招かず、
江戸幕府から明治政府へと大きな時代変革を成し遂げ、
アジアで最初の近代国家の礎をきずくことになった。
西郷と面会する時、大勢の官軍警備隊の中を「朝敵・徳川慶喜が家来
山岡鉄太郎(鉄舟)まかり通る!」と大声で堂々と歩行していったという。
その胆力に西郷は感服したという。
そして、何より西郷との面会を果たす為、官軍の目が光っている江戸から駿府の
道中を、難なくすり抜け、単身で辿り着いたことは奇跡といってもいい。
そこには、剣により磨かれし胆力と人と太刀を交えることなく「戦わずして勝つ」
という「武の極意」に基ずく行動だった。そこのところを、西郷も察し「鉄舟は信用できる」と読んだのではないか。
鉄舟のこの迫力は剣術を武道にまで昇華させた姿であり
「戦わずして勝つ」という武の境地を体現したものだった。
武道は、命と命をかけた真剣勝負だ。負ければそれは即、死を意味する、
甘えや妥協の余地のない世界である。
だからこそ、戦うことが許されないという、深みのある世界なのだ。
「戦わずして勝つ」それこそが、武術を修業したものが目指す境地であり、
そこには、金や名誉、命すら超えていく究極の次元の高さがある。
相対的な戦いを超えた、自己との厳しい闘いの中でしか到達できない境地。
残念ながら、自分にはまだ、この境地の影すら見えてはこない。
だからこそ、今日も修業に励むのだ。
空手という武術を、武道の境地へ到達できるように。
☆写真はバングラデシュの祭りに飛び入りで「空手演武」をした時のもの。
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