保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

シリーズ・保津川を下ろう!その2 乗船場

2004-09-18 20:06:20 | シリーズ・保津川を下ろう!
はっちん達船頭の仕事場、保津川下りの乗船場は、
現在保津橋の上流・右岸側に建っています。

なになに「400年の歴史を有し、京都有数の観光地である保津川下りにしては
 あまりにもちゃちな乗船場だな~」ですって!

そうなのです!一様鉄筋コンクリート造りですが、平屋建てな上、
船頭の待合室はプレハブ造り、新しい橋が出来てからは、その橋の影に
隠れて駅からも見えなくなってしまう始末!
年間30万人の観光客が訪れる施設とは思えない様相かもしれませんね。

来れれたお客さんは気が付かれましたか?隣に立派な鉄筋4階建てのビルがあるのを!
あのビルこそ、大手鉄道会社が保津川下りの営業をする為に建てたビルで、
以前はそこが保津川下りの社屋であり乗船場だったのですよ。
さすが大手!昭和40年にこれだけのビルを建てるのですから。

このビルが建っている川岸は荷物船の時代から、‘保津の浜’と呼ばれ
荷物の積み下ろしがなされ、筏も係留されてていた所でした。
ビルが建ってからは川岸に階段型の護岸が造られ、
この階段からお客さんが下りて来て乗れる様に整備されていたそうです。
いまでもこの階段の跡が残っています。

しかし、会社側の撤退によりここでの営業は長くは続かず、
このビルはわずか5年で他の人手に渡ることになりました。

今の乗船場はその後作られたもので、乗船場も社屋も
船頭が資金を持ち寄り、手作りで立てられました。
なりは隣のビルに比べたら確かに見劣りがするものでしょうが、
その時代に生きた先輩船頭の熱情が伝わる、思い入れの強い建物なのです。
そして今でも、乗船場の木造板は2~3年ごとに船頭の手によって
張替えられており、先人の思いを受け継いでいるのです。

以前、取材来られた新聞記者の方が、
「ここは変に観光地化されてなくていい、伝統のある施設はこうでなくては!」
とおっしゃられていたことを聞いた事がありました。
この様な感性の方は案外多くおられるらしいです。
何処へいっても画一化された観光施設が多い中、頑なまでに
前時代的な手作りに拘った、今の乗船場を大事に守っていきたいと
思うはっちんなのでした。

写真は旧社屋だったビルです。
この川岸には戦国時代に亀岡の城主をしていた
明智光秀が植えた雌雄の‘サイカチ’の木が残っています。
サイカチは戦国時代に石鹸の役目を果たしていました。
保津川下りに来られたら是非見て帰ってくださいね。





シリーズ・保津川を下ろう!その1 400年の歴史

2004-09-17 23:56:10 | シリーズ・保津川を下ろう!
以前、京都のFNラジオに出演した時、DJの方が驚き聞き返された事、
それは「保津川下りって400年も続いているのですか?」というものでした。

京都生まれのそのDJの方でも、保津川がそれほど歴史のある川下りである
ことをご存知ではなく、ただの観光業として始まったものとばかり思っていたそうです。

そういえば、船下りに来られるお客さんも以外にこの事をご存知ない
様子で、皆さん一様に驚かれることが多い様に感じていました。

はっちん達船頭にとっては常識であることでも
案外、皆さんご存知でないことが多いんだな~と気付かされます。

そこで今回から保津川の名所とその云われなどを
紹介し、改めて保津川の魅力に触れていただこうと思って
シリーズ保津川を下ろう!」というコーナーを企画しました。

ご覧になっている方の中でも、何か知っていることが
あれば、どしどし投稿してくださいね。


では保津川下りの歴史を簡単に紹介したいと思います。

先ず保津川下りの本名は「保津川遊船企業組合」といいます。
企業組合とは、船頭一人一人が権利金を組合に出資して、
共同で経営するという、日本でも珍しい組織なのです。

保津川の水運としての歴史は古く、奈良時代にまでさかのぼります。
奈良・平城京から長岡京に都を遷都する時に、建築用の木材を
筏にして流したことが始まりといわれ、その後今の京都・平安京に
移す事業から盛んになったと伝えられています。

慶長11年(1606)に嵯峨の豪商・角倉了以によって、
今の遊船の前進である荷物船が、初めて保津川を流れました。
これは保津川水運の歴史の中での最も画期的な事業で、
明治時代に鉄道が開通するまで続けられたのです。

貨物列車にその仕事を奪われる形となった船事業でしたが、
その後観光船として姿を変え、生まれ変わり今日に至っています。

観光船として生まれ変った保津川下りでしたが、当時の時代背景も手伝って
その経営は一様に厳しかったらしく、村営から、運輸会社、鉄道会社へと
事業主体の買収が繰り返され、船頭達は苦難の変遷を辿らなければならなかったのです。

しかし大手資本に翻弄された苦い経験をした先輩船頭たちは
先祖代々受け継がれた操船技術だけを頼りに
船頭だけの自主運行に踏み切り、船仕事を自らの手に取り戻す勝負に出たのです。

自主運行には踏み切れたものの、当然、大手資本の妨害も予想され
厳しい船出となりましたが、先輩達の奉仕的な街頭宣伝・営業の
努力が実り、乗船者の増加を生み
新たに企業組合を立ち上げる事に成功したのでした。

これが今日まで保津川下りの歴史なのです。

次回からは保津川上流から順番に名所を案内し嵐山まで
下って行きたいと思っておりますので
乞うご期待!

地上最強の空手に挑む!

2004-09-16 23:30:27 | 空手・格闘技
「はっちんの掲示板はどうも格闘技ネタが少ないな」と思われている皆様、
お待ちどう様でした。今日は格闘技ネタですよ!

今日、はっちんの家に空手の大会申し込み用紙が届きました。
はっちんは空手の先生でもあるのです。

今回は「KOBE’S CUP 2004」という12月にある大会の案内で、
はっちん道場からは一般部と少年部に、生徒が出場する予定です。

発行人は「極真会館・関西本部中村道場」から。
そうです。空手ファンのみならず格闘技ファンなら皆さんご存知の
地上最強の空手団体を標榜するケンカ空手・極真会館!
しかも中村道場といえば、その極真世界大会を2連覇した中村誠師範が率いる道場!
幼児から壮年部まで、どの階級も全日本トップレベルの選手ばかりです。

中村師範といえば、はっちんが中学生の頃すでに全日本王者になられており、
その他を寄せ付けない圧倒的強さに魅せられ、最も憧れの空手家だった方です。

また、はっちんの空手の師匠であるアメリカの大山茂師範の元、
同じ道場でトレーニングされ強くなられたという親近感も持っております。

その中村師範の生徒さんに胸を借り、力と技を競い合える事は
生徒だけでなくはっちんにとっても、この上なく幸せなことなのです


極真会館の中でも、最もハイレベルの道場である中村道場に挑むことは、
はっちん道場にとって、とても厳しい戦いになることが予想されます。
が、しかし大会までの約2ヶ月、生徒達ともども精一杯いい汗を流し、
稽古に取り組んで行きたいと思っておりますので、
掲示板をご覧の皆様も影ながら応援してあげてくださいね。

京都映画祭がはじまるよ!

2004-09-16 00:00:07 | 京都情報
映画ファン待望の第4回京都映画祭が、今月18日から太秦など京都市内5箇所で26日まで開催されます。

京都映画祭は「映画の都・京都」で、日本映画産業・文化の振興と継承を目的に
映画関係者、市民、行政が一体となって取り込むもので、今年で4回目を迎えます。

今年のテーマは「京都から世界へ チャンバラ映画」。
ラストサムライやサイレンスサムライなどのヒットで
世界映画界の話題となった時代劇を、いま一度見直し
世界へアピールしていこうというのがこの祭りの趣旨です。

イベント会場となるのは、JR京都駅ビル、京都府京都文化博物館別館、祇園会館
太秦撮影所周辺、新風館の5箇所。

オープニング・セレモニーをJR京都駅ビルで行い、映画関係者によるシンポジウムを
文化博物館で、名作映画を多数上映している祇園会館では中井貴一さんや中島貞夫監督らの
座談会&トークパーティーを、太秦では一般参加型のツアーなどを企画しています。

大の映画ファンを自認するはっちんとしては、どれもヨダレが出そうなイベントばかりです。

特に今回は、はっちんの憧れの監督・中島貞夫監督が総合プロデューサーなのも大きいです。
監督がメガホンを取った「日本の首領」シリーズや「極道の妻」シリーズは、
史実に基づく迫力があり、洋画に負けない見応えがありました。

サムライ映画から引き継いだ、自己の誇りや義理、人間の悲しさなどを
任侠映画にも脈々と描かれていたのを覚えています。

世界では日本の時代劇がとても注目されているのに、
日本国内ではイマイチ盛り上がりに欠けるのは残念です。

いまや、国民放送ですら、ちゃちなお手軽時代劇を
作ってしまう今日、本物のスタッフ・役者による
本物の時代劇の復活が待ち望まれます。

もちろん日本の映画関係者に多くの問題があることも確かですが、
日本の映画ファンの力で、日本映画のアイデンティティーともいえる
時代劇を盛り上げ、関係者の目を覚ましてやりたいものです。

時代劇をベースに、いま一度京都が映画の都として
かっての隆盛を取り戻すことを心から応援しています。



洪水で沈む橋

2004-09-14 11:49:34 | 船頭
保津川下りの乗船場を出発してしばらくすると、
目前に小さな橋が見えてきます。
この橋、名前を‘保津小橋’といいます。
鉄筋コンクリートで作られたこの橋は、
保津川が洪水になると川の中に沈んでしまう橋なのです。
その為、両端に欄干がないのがこの橋の特長です。

この小橋のことを地元の人は‘高(たか)橋’と呼んでいます。
水没するほど、川の堤防よりも低い位置に架っているのに「何故?高橋?」と、
皆さん思われることでしょう。
こう呼ばれる理由は、昔の流れ橋の様子からきています。

昔、農作業を生業とする農家の人々にとって、保津川のような大きな川を
渡り対岸の農地へ行くということは、生活に密着したとても重要なことでした。
しかし、高度成長など無縁であった当時の日本では、今のように、一農村のために
行政が橋を架けるなどということは、財政上考えられない時代でした。
地元の人々は、丸太で橋を組み、その上に板を2枚敷くという簡単な橋を架けていたそうです。
当然、橋幅も狭く、二人が橋の上で出会えば、お互いが横になり向かい合って渡らなければなりません。
その人達が、背中に荷物を背負っていた場合などは、橋の外にはみ出して渡るのです。

地元の人達はこの橋を渡る時の恐怖から「とても橋が高く感じる橋」ー‘高橋’と呼ぶようになったのです。また、地元では「高橋を渡れない者は保津の嫁にはなれない」とか、
橋を渡る心得として「絶対下を向かず前だけを向いて渡れ」などのアドバイスを年長者が
するなど、保津村人の象徴と考えられていた向きもあるようです。

そんな流れ橋も、無償で奉仕工事を行った地元の人達の努力の斐もあり、
昭和25年には今の鉄筋コンクリート型の橋の生まれ代わりました。
これで洪水の度に流れ不便を感じる事もなく安全に渡れる橋が出来たのです。

ではなぜ?今の保津小橋、高さが堤防より低いんでしょう。
これは長年、水害に悩ませられた経験から来ています。

保津川は有史以来の暴れ川で、谷間近郊流域の保津も幾たびかの大水害の見舞われました。
豪雨が降れば、堤防を超えることなど簡単の事で、小規模の橋などは高くする方が流されやすいのです。

洪水になれば周囲のいろいろな物が流されてきます。
木材や巨大の倒木に大型ゴミ。
これらが増水で勢いよく流れてきて、橋に当たれば破壊力は大変なものです。

水害を多く経験している保津の人たちは、増水の高さによって
どのような物が流れてくるかを知っていました。
その時、橋を川深く沈めておけば、これらの流物が橋に当たらず、
水位が下がればもとの姿のまま浮かび上がってくると考えたのです。
欄干がないのも流れの抵抗を受けなくするためのものです。
この読みは見事にあたり、半世紀すぎた今でもその姿は変わることがありません。

まさに水害と共に生きてきた人間の知恵からできた橋、それが保津小橋なのです。

この沈下橋スタイルが残っているのは、京都では木津川とここだけです。
日本でも数ヶ所しかないのではないでしょうか?

保津川下りをされることがあれば、一番最初に潜る橋、保津小橋は
こんな橋なんだな~と思い出して下って頂くと、また一つ楽しみが増えるのではないでしょうか?

はっちんも保津に行くときは、この小橋を車で渡っていきます。
車の幅一杯のこの橋を渡る時は正直スリルものです。
特に暗闇深い夜などは昔の保津の長老の言葉がそのまま蘇ってきます。

時代は変わり、モータリゼーションの時代になった今でも
小橋は変わることなく、昔の流れ橋の匂いを残していてくれているのです。






プランクトンが作った壁岩

2004-09-12 01:02:21 | 船頭
保津川下りの雄大さをより一層引き立てるものに、
幾つかの巨大な壁岩があります。
その代表格が、写真の‘書物岩’です。

書物岩とはトロッコ保津峡駅の下流、保津川と
清滝川の合流点の正面に位置しており、厚さ3cmほどの
本を、たくさん積み重ねたように見えることからそう呼ばれています。

この辺りの両岸は隆起後に川が浸食してできた、切り立った典型的な
V字型の谷になっており、この書物岩も約100mほど切り立った断崖絶壁!

その岩質はとても堅く緻密で、ハンマーで叩くとカンカンと金属的な音がして
火花さえ散ります。このことから古来は火打石として重宝されていたそうです。
本を積み重ねたように見えるのは、層状チャートと呼ばれるもので、
まだ大陸が海中に沈んでいたとされる時代、深海底に堆積した放散虫という
プランクトンの死骸や海綿動物の骨といった微小な生物の遺骸が降り積って
作られたとみられています。
その化石は今でも、約80m上の岩片から採取できることから、
何億年前の太古の保津川が、それほど高い位置を流れていたという
証拠にもなっているのです。

保津川の急流は、この書物岩に正面から突き当たり、流路を直角に変えます。

乗られてるお客さんは、この雄大な景観美と、船が迫り来る
大壁岩に激突するのでは?というスリルの両方を味わうことができ、
大満足のスポットの一つであることは間違いないでしょう。

今確かに、目の前ある保津川の大壁岩や巨大岩石が、何億年もの海底で
微生物の遺骸などが集まって出来たことを考えると、地球の歴史が
とても身近に迫ってきて、我が仕事にいいようのない贅沢感を感じます。

皆様も是非、保津川の渓谷美を眺め自然の底知れぬ深さに触れてみて下さい。



(*)WRCのブンちゃん、コメントありがとう。
   世界一のエンジニヤを目指してがんばって下さい。
   みんな応援してますよ!



保津川って桂川なの?

2004-09-10 22:37:12 | 船頭
お客さんからの質問の中に「保津川は何処で桂川に合流するのですか?」
と聞かれることがよくあります。

意外と保津川の本名が‘桂川’であることは知られていないみたいです。
保津川は桂川の支流ではなく、桂川そのもの、ズバリ本流なのです。

桂川は、丹波高地の東はずれの京都市左京区広河原・佐々里峠に源を持ち、
いったん南下したあと、西に大きく蛇行しながら京北、日吉町の山峡や盆地を
経て、保津川下りの出発地・亀岡市に流れ下ってきます。
その後、船下りのコースである保津峡から嵐山に出、京都市内に戻ります。
その終点は宇治川、木津川との三川合流地点で総延長百十キロ。
この総延長は京都府下随一の長さなのです。

流域地域の生活に密着してきた川だけに、‘桂川’という統一名は
上流地域では馴染めないらしく、いまだに上桂川、保津川、大堰(おおい)川、
桂川と、その地域によって使い分けられているのです。

保津川という呼び方も亀岡流域の保津地区から保津峡の
区間に限ってのことであり、嵐山に入ると渡月橋の下流までを大堰川と呼んでいます。
亀岡流域でも上流の方は、流域地域の名を取り、大井川と呼ばれているのです。

この様に、古くから広大な流域地区をうるおし、豊な耕地を育み、
運河としての産業も支えてきた‘川’への親しみと、恵への感謝が
代々、地域の名前を守り受け継がれ、今も親しみを込めて流域名で呼ばれているのです。

保津川という呼び名も、地域の人々の川への熱い思いと、
保津峡の自然美が滅ばない限り、未来永劫消えることはないです。





川底が変わるの?

2004-09-10 00:24:38 | 船頭
このたびの度重なる台風の通過により、保津川の水位は異常な上昇を
繰り返し、川の底も大きく変化してしまいました。

このことを私達船頭が、会話の中でお客さんに話すと、
大抵のお客さんは「川底って変わるんですか?」と驚かれます。

渓流釣りなどされる人意外は、川に入る機会など無いですものね。
川底などに気が回らないのが当たり前ですね。

しかし、私達船頭は、川底を常に意識しておく必要があります。

川の氾濫は、河原や中洲の砂利を流し、そっくり下流へ持っていきます。
また、縦横直径1m以上もある岩などもゴロゴロ流れていくのです。
それらは最も流れが急な瀬である、船を流す水路に集まって来る事が多いのです。
そして、川の流れ自体を大きく変えてしまうのです。
この時点で船の操縦技術を変えなくてはなりません。

以前なら深かった場所にも砂利が運ばれ足首までの浅さに、
緩やかだった瀬も、本流のごとく急流となり勘が狂ってきます。
岩などは最も厄介者で、川の水位が安定してきた頃、川面に顔を出し始めてきます。
当然、避けて行くか、船底にすって行く事になってしまうのです。

更に浅くなると、これは許っては置けませんから、私達が退かしに行きます。
岩にワイヤーを掛けチルという手作業の機械で引っ張り上げます。
また、浅くなった砂利も鍬のようなもので掘り深くします。

これが安全運行する為に私達に出来る最大限の作業なのです。
出来きれなかった所は?・・・それは船頭の技術で補いかわして行くだけです。

川は太古の昔から、絶えずこれらの変化を繰り返し
現在の姿を現しているのです。

私達船頭はたえず、この自然の変化に自らを合わして流していくだけです。

本当に自然の力の大きさを知る瞬間なのです。


ちょっとお疲れです。

2004-09-08 23:27:09 | 船頭
観測史上、記録的な暴風雨をもたらした台風18号は、
各地に大きな被害の爪あとを残して去って行きました。

交通機関の麻痺、農作物への多大な被害をはじめ
700人以上の死傷者を出す最悪の台風!
被害に遭われた地域の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

この台風、はっちんの住む亀岡市には、昨日の夕方にやって来て
まさに嵐のように去って行きました。

この日、船を守る当番だったはっちんは、暴風雨の中での作業
を覚悟し、夜8時から遊船事務所の2階で待機しておりました。
幸いにも、雨の量が思ったほど降らなかった事もあり
外での作業は免れましたが、夜中に突然振り出した
雨などに気をとられ、結局一睡も出来ませんでした。

そのせいか?今日は少しお疲れモードの1日でした。

今年はすでに、七つも台風が上陸した上、
ここに来て地震も頻繁に起っています。
更に、予報では台風の発生はこれからが本番、という声も出ています。

最近の荒れ狂う自然の猛威は、私達人間に何かを語ろうとしている
天の声ように思えてならないハッチンなのでした。