はっちん達船頭の仕事場、保津川下りの乗船場は、
現在保津橋の上流・右岸側に建っています。
なになに「400年の歴史を有し、京都有数の観光地である保津川下りにしては
あまりにもちゃちな乗船場だな~」ですって!
そうなのです!一様鉄筋コンクリート造りですが、平屋建てな上、
船頭の待合室はプレハブ造り、新しい橋が出来てからは、その橋の影に
隠れて駅からも見えなくなってしまう始末!
年間30万人の観光客が訪れる施設とは思えない様相かもしれませんね。
来れれたお客さんは気が付かれましたか?隣に立派な鉄筋4階建てのビルがあるのを!
あのビルこそ、大手鉄道会社が保津川下りの営業をする為に建てたビルで、
以前はそこが保津川下りの社屋であり乗船場だったのですよ。
さすが大手!昭和40年にこれだけのビルを建てるのですから。
このビルが建っている川岸は荷物船の時代から、‘保津の浜’と呼ばれ
荷物の積み下ろしがなされ、筏も係留されてていた所でした。
ビルが建ってからは川岸に階段型の護岸が造られ、
この階段からお客さんが下りて来て乗れる様に整備されていたそうです。
いまでもこの階段の跡が残っています。
しかし、会社側の撤退によりここでの営業は長くは続かず、
このビルはわずか5年で他の人手に渡ることになりました。
今の乗船場はその後作られたもので、乗船場も社屋も
船頭が資金を持ち寄り、手作りで立てられました。
なりは隣のビルに比べたら確かに見劣りがするものでしょうが、
その時代に生きた先輩船頭の熱情が伝わる、思い入れの強い建物なのです。
そして今でも、乗船場の木造板は2~3年ごとに船頭の手によって
張替えられており、先人の思いを受け継いでいるのです。
以前、取材来られた新聞記者の方が、
「ここは変に観光地化されてなくていい、伝統のある施設はこうでなくては!」
とおっしゃられていたことを聞いた事がありました。
この様な感性の方は案外多くおられるらしいです。
何処へいっても画一化された観光施設が多い中、頑なまでに
前時代的な手作りに拘った、今の乗船場を大事に守っていきたいと
思うはっちんなのでした。
写真は旧社屋だったビルです。
この川岸には戦国時代に亀岡の城主をしていた
明智光秀が植えた雌雄の‘サイカチ’の木が残っています。
サイカチは戦国時代に石鹸の役目を果たしていました。
保津川下りに来られたら是非見て帰ってくださいね。
現在保津橋の上流・右岸側に建っています。
なになに「400年の歴史を有し、京都有数の観光地である保津川下りにしては
あまりにもちゃちな乗船場だな~」ですって!
そうなのです!一様鉄筋コンクリート造りですが、平屋建てな上、
船頭の待合室はプレハブ造り、新しい橋が出来てからは、その橋の影に
隠れて駅からも見えなくなってしまう始末!
年間30万人の観光客が訪れる施設とは思えない様相かもしれませんね。
来れれたお客さんは気が付かれましたか?隣に立派な鉄筋4階建てのビルがあるのを!
あのビルこそ、大手鉄道会社が保津川下りの営業をする為に建てたビルで、
以前はそこが保津川下りの社屋であり乗船場だったのですよ。
さすが大手!昭和40年にこれだけのビルを建てるのですから。
このビルが建っている川岸は荷物船の時代から、‘保津の浜’と呼ばれ
荷物の積み下ろしがなされ、筏も係留されてていた所でした。
ビルが建ってからは川岸に階段型の護岸が造られ、
この階段からお客さんが下りて来て乗れる様に整備されていたそうです。
いまでもこの階段の跡が残っています。
しかし、会社側の撤退によりここでの営業は長くは続かず、
このビルはわずか5年で他の人手に渡ることになりました。
今の乗船場はその後作られたもので、乗船場も社屋も
船頭が資金を持ち寄り、手作りで立てられました。
なりは隣のビルに比べたら確かに見劣りがするものでしょうが、
その時代に生きた先輩船頭の熱情が伝わる、思い入れの強い建物なのです。
そして今でも、乗船場の木造板は2~3年ごとに船頭の手によって
張替えられており、先人の思いを受け継いでいるのです。
以前、取材来られた新聞記者の方が、
「ここは変に観光地化されてなくていい、伝統のある施設はこうでなくては!」
とおっしゃられていたことを聞いた事がありました。
この様な感性の方は案外多くおられるらしいです。
何処へいっても画一化された観光施設が多い中、頑なまでに
前時代的な手作りに拘った、今の乗船場を大事に守っていきたいと
思うはっちんなのでした。
写真は旧社屋だったビルです。
この川岸には戦国時代に亀岡の城主をしていた
明智光秀が植えた雌雄の‘サイカチ’の木が残っています。
サイカチは戦国時代に石鹸の役目を果たしていました。
保津川下りに来られたら是非見て帰ってくださいね。