散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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クサイチゴを掌に摘む

2023-05-06 11:54:53 | 花鳥風月
2023年5月6日(土)

 あたりの草むらに野イチゴの赤い実があり、一面の緑の中に宝石を見つけた気分になる。口に入れてみるとこれがほんのり甘くて美味しい。庭のサクランボは甘酸っぱいが、こちらは酸味がほぼ全くない。
 春に遊びに来てくれた姻戚が同じ世代の大阪郊外の育ちで、「ヘビイチゴはよく見かけました」というが、ヘビイチゴは味がなく口に入れたいものではない。あらためて調べてみると、野イチゴとはこちらが勝手に決めたことで、クサイチゴ(草苺、Rubus hirsutus)というのが正式名称らしい。バラ科キイチゴ属の落葉小低木ということになる。ヘビイチゴ(蛇苺、Potentilla hebiichigo Yonek. et H.Ohashi)はバラ科キジムシロ属の多年草で、見かけ以上に違ったものであるようだ。

 なにしろそのクサイチゴが、今年豊作なのかこれまで気づかなかったのか、裏庭で掌に溢れるほど集まった。


 集めながら、ベルイマンの映画『野いちご』を思い出したのは自然な連想である。原題は "Smultronstället"(英訳 "Wild Strawberries")、「野いちご」は野生のイチゴ類の総称と思われる。クサイチゴは帰化植物ではなく、中国・朝鮮半島・日本に広く分布するとあり、北欧の野に実るものとの類縁関係はよくわからない。
 それより、あの映画が「野いちご」と題されていることの面白さである。一緒に映画を観た後で学生たちに質問を振ってみると、このタイトリングの企みがすぐにピンと来ないことが多いようなのが、やや意外に思われた。
 若い娘のサラは映画の主人公であるイサクの許嫁である。親族の食卓に供すべく野いちごを籠一杯に集めたところへ、イサクの弟ビクトルがやってくる。ビクトルはサラに言い寄り、押し問答の中で野いちごが籠から散乱してしまう。1957年制作で当然ながら白黒の画面だが、それだけに観るもののイメージの中で散らばる野いちごの赤は、かえって鮮やかに想像されるだろう。古い写真のカラー化が最近の話題になっており、それを楽しむのは大いに結構だし自分も楽しむつもりでいるが、それに耽るほどに人の想像力が痩せ衰えていくことは考えておいた方がよい。
 この場面、「野いちご」は横溢した生命力とエロティシズムの絶妙な象徴となっている。籠に収まっていたものが、溢れて散らばってしまったのである。説明の必要などありはしない。
 映画『野いちご』は仕掛けの多い快作で、ビクトルとイサク、後には二人のヒッチハイカーが「サラ」を競い合うところに託されたヘレニズムとヘブライズムの相克は、その太い軸ともいうべきものである。
 甘やかな野いちごを誰が賞味堪能することになるのか、人生の醍醐味は一にかかってそこにある。何という贅沢でしょうこの朝は!

Ω

ツバメのこと、松明のこと

2023-05-03 09:02:41 | 花鳥風月
2023年5月3日(水)


 上の写真は3月14日に納屋の梁を見あげて撮ったものである。その数日後に巣が無残にも床に落ちていたことを前に書いた。帰省から引き上げる際、納屋の外の門の梁に板を打ちつけ、崩落の懸念なく巣作りできる場所を設けてツバメを誘致してみた。しかしGWに帰省してみたところ、好条件の新規提案には見向きもせず、写真と全く同じ位置に新たな巣を設けている。胸の緑がかった鳥は見当たらず、どうやら別のペアらしい。戻ってくれたのは嬉しいが、またぞろ同じ憂き目を見はしないかと落ち着かない。
 この納屋は二階建てのしっかりしたもので、昭和10年代に築造された時には棟上げの祝いに餅を播いた。播き手をつとめた80年以上前の思い出を、今でも父から聞くことができる。
 屋内に無造作に積み上げられているものの中には大正から昭和初年の古い書籍が散見され、保存状態も悪くない。それならという訳で、一階の半分ほどをかたづけて本棚を入れ、書庫に使うことにした。ツバメの巣を見あげながら『史記』だの『プロメテウスの罠』だのを読むのも乙な図であることと、こちらは悦に入っているが心配なのは頭上の住人の方である。

 一つには、こうして人家の屋内に入り込んで巣をかけながら、なかなかすぐには人に慣れないことである。肩に止まって挨拶しろとは言わないが、こちらが忍び足で出入りするたびに大慌てで飛び出していくのでは、何のためにこんな近さに営巣したものだか。飛び出した鳥は近くの電線から「ツピー、ツピー」という特有の警戒音を発し、時には「ギギギ」という不快な音まで立てて仲間に不安を振りまいている。
 もう一つの懸念は、納屋の二階に上がってしまうことである。上がっても降りてくるなら放っておけばよいのだが、信じられないことに上がったきり降りてこられないことがよく起きるのだ。十年以上も前だろうか、二階に上がって鳥の白骨死体を初めて見たときは、こちらも小腰を抜かした。一階と二階は階段でつながっており、人が上り下りするだけの大きな穴がそこにある。そもそも上がったものなら降りられない理屈がないだろうに、二階の三方向に取り付けられた窓ガラス越しの空にもっぱら注意が向くものか、入った穴から出て行く了見をもつことができない。
 留守の間、二階の窓を開け放しておく訳にはさすがに行かず、一階の扉は立て付けがよくないので、きっちり閉めたつもりで指3本分ほどのわずかな隙間が残る。一階のその隙間から自在に出入りしながら、二階にあがると降りてこられないのである。一昨日また二階で二羽の亡骸を拾い、重い心で荼毘に付した。数千㎞を過たず往復する力強い生き物に、何と哀れな死角のあることか。
 仕方がないので、本棚の部品が送られてきた大きな段ボール箱をにわか加工し、一階と二階の隙間を塞ぐことにした。当方は昇降が不自由だが、夏の間の辛抱である。二階に自らを閉じ込めた哀れな鳥は、力尽きて息絶えるまでの間に大量の白い糞を一面に撒き散らしている。その掃除も冬の仕事まで先延べとしよう。
 当方の配慮を知るよしもなく、当代のカップルは人の姿を見てはバタバタ・ツピーを繰り返している。せめて立派に雛を育ててくださいませ。

***


 わかりにくいが、今度は焚き火の写真である。火を制御するのはコツも工夫も要ることで、「火の番人」というものが人類学的に何か意味があるのではないかと考えたりする。『ニーベルンクの指輪』ならローゲの役どころで、「火」「言葉」「道化」などを一身に具現する影の主役である。
 北極圏先住民 〜 今はエスキモーと言わないようだが、急ぎ調べた範囲でエスキモーと呼んで悪い理由は見当たらず、最近よく使われるイヌイットはかえって不適切な可能性がある。今ここで火中の栗を拾う必要もないので、このように書いておく。ああバカバカしい 〜 の民話の中では、当然ながら火種を絶やさないことが死活問題の重要さで語られる。岩波の『カラスだんなのお嫁とり』の中には、火の番をしているのが小さな女の子であるのをいいことに、悪人たちが火種を奪い去り、それをフクロウが取り戻してくれるという話があった。
 焚き火もそろそろ終わりにしたいところ、最後にくべた松の枝が不思議になかなか燃え尽きない。細々した火なのに長時間にわたってちょろちょろ燃えているのを撮ったのが上の写真である。
 それで思いあたった。たいまつを「松明」と書くのは、そのためか。

> 明かりとして使うために手で持てるようにした火のついた木切れなど。通常、長い棒や竿などの突端に枯れ草や松脂など燃えやすいものに浸した布切れを巻きつけたもの」

> 古くは、手に持つ灯火を「秉炬」「手火」と書いてタビと読み、いまもこれをタイといっている地方がある。のちに「炬火」「焚松」「松明」などと書いてタイマツとよぶようになった。今日、タイマツと読まれている松明の語は、本来は、脂(やに)の多い松材の意で、続松(ついまつ)、肥松(こえまつ)のこと。

 前者の解説によれば、「松明」と「炬火」は『和名類聚抄』では別項目として扱われ、松明の項に「唐式云毎城油一斗松明十斤」とあるという。「斤」という言葉を久しぶりに見た。1斤は約600gだそうな。食パンの「1斤」はしかし、これとは別物だそうで、その子細がややこしくも面白い。

Ω