散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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行きてみました

2015-10-15 22:18:26 | 日記

2015年10月14日(水)

 名古屋弁を丸出しにしてしまったので、ついでに方言の話。

 そつなくきれいな標準語(この言い方に実は抵抗と疑問があるが、そこはさしあたり抑えるとして)を話す人の言葉に、ちらりと方言が混じったりするのが、たまらなく楽しかったりする。これは転勤族の息子に生まれた小さからぬ利得かもしれない。

 NHKの囲碁講座だと、何代か前の聞き手を担当した青葉かおりプロは、至るところに抑えがたく名古屋弁が露出し、それはそれで大いに魅力だった。何かの囲碁雑誌に青葉さんが海外での囲碁指導活動の報告を書くにあたり、完全に居直って名古屋弁を会話のデフォルトにしていたのが、ものすごく面白かった。第二標準語とも言える関西弁と違い、名古屋弁はそれを知る人間でないと書いたものからイメージできない場合がある。

 いっぽう、秘めた楽しみを与えてくれるのは羽根直樹さんで、人柄の表れる折り目正しい解説の中に、「この形は、ほかっておくと死んでしまいます」などとおっしゃるのがむやみに嬉しかった。「ほかっておく」は「放っておく」を意味する名古屋弁である。「ほかる」が「放る」なのだろう。地方によっては「ほかす」とも言うよね。伊予弁もそうだったかな。

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 そこで話は先の日曜日に戻る。ずうっと昔、僕が生まれた頃、柿ノ木坂で教会生活を送っていらしたNさんという方が、鳥取からいらして礼拝に出席された。脊椎に障害があり両松葉杖を操るのも簡単ではないが、それを押しての御来京である。その事情はまた別に話すとして、Nさんが柿ノ木坂訪問のついでに僕に会いに来てくださった経緯には、世間の小ささと神慮の大きさが洒落た形で現れている。

 Nさんは鳥取で多方面の福祉活動に専心してこられ、世間話のように語られる諸事情の中には驚くべき事例や対処が多々含まれている。福祉を支えるのはこうした人々の隠れた献身に他ならない。奥ゆかしいけれども尽きることのないおしゃべりに耳を傾けるうち、ふと耳に引っかかる言葉があった。いま何とおっしゃいました?
 「ええ、是非にと勧めてくれる方があったので、思いきって行きてみたんです。そうしたら・・・」

 行きてみた!

 確かにそうおっしゃったんですね。

 これだから会話は楽しい、方言は捨てがたいと言うのである。一時に懐かしさが溢れてきた。動詞「行く」の連用形に促音便を用いず「行きた」「行きて」などと言うのは、昭和40年代の松江時代に経験した。島根・鳥取の山陰地方も東西に長くてバラエティのあることだろうが、出雲に関しては西の石見よりも東の伯耆と類縁性が大きくても不思議はなさそうだ。

 動詞の活用から考えれば「行く」の活用はカ行が原型で、それが後に音便化したのに違いない。するとここでも、「中央で変化が進み、周辺に祖型が残る」というありがちの傾向が証明されることになる。こんなにも豊かな方言を、軽視したり侮蔑したりする理由がない。日本各地の豊かな方言こそ、無形の世界遺産である。

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 「懐かしさが溢れて」と書いたが、松江は自分が住んだ場所の中で、つい最近まで懐かしいと思うことができなかった唯一の土地である。それにはそれなりの理由があり、簡単に気持ちを切り替えられるものでもなかったが、今になってようやく違う見方のあることに気づきつつある。最も自分を育ててくれたのは、実はあの時代であったのかもしれない。

 悲劇的な形で途絶させられない限り、人生は案外長いのだ。

  松江城、内中原小学校から写生に行くといえばここだった。

  宍道湖と嫁ヶ島。

 ↑ シジミの産地で知られるこの湖が中国は西湖になぞらえられ、そのほとりの景勝地である淞江(しょうこう)にちなんで「松江」の名が起きたという。旧制高校で「松高」というと、伊豫の松山高校や信州の松本高校と弁別できない。そうした時、わざとさんずいを付けて「淞高」と記すことがあったと、今年の夏頃に同地の出身者から教わった。


スマホの効用を知ってあらためて思うこと

2015-10-15 11:02:43 | 日記

2015年10月14日(水)

 Facebook はよく分からないし、得体の知れない「友だち」がお化けか何かのように顔を出すのが薄気味悪いので手を出さずにいる。ただ、名古屋の友人らが集っているところにだけは登録らしきことをしたので、そのコアメンバーが登校する写真だの何だのは見ることができ、300kmの隔たりを感じずに済むということがある。以上が伏線。

 今日はコース教員総出の作業で、長い一日になる。往時の稲刈りみたいなもんかな。京葉線を降りる寸前にスマホに着信の気配あり、チェックして「おっ」と小さく言い、それからニンマリ笑った。誓い通り「ながらスマホ」はしない。震災直後は公衆電話のボックスがねじ曲げられたように傾いていたのが、跡形もなく修復された海浜幕張駅前を横切り、コンビニと駐輪場の間を抜けて道を渡る。ホテルの本館と新館の間を抜けてもう一本道を渡り、海浜公園に入ればちょっとした別天地。ヤマモモの林から、広い芝生道に出てぐるりを見渡す。うろこ雲を浮かせた青空の下、半径100m以内に人影はない。これなら許されるだろうとスマホを取り出し、電話番号に触れる。トゥルルル・・・

 「はい、もしもし」

 「石丸です、東京の」

 「あれ石君、久しぶりだがね、あんた元気にしとるの?」

 「ケイちゃん、誕生日おめでとう」

 「えー覚えとってくれたの、嬉しいわあ!」

 「よう覚えとったがね、ケイちゃんの誕生日は忘れんわ」

 フェイスブックにメッセージが出たからとか、そういう野暮なことはもちろん言わない。こっちの言葉も瞬時に名古屋弁に切り替わるのが、自分でも可笑しくて仕方がない。

 ケイちゃんは汐路中学校時代の仲良しである。斉木画伯は3年B組の同級生で、ケイちゃんは2年G組の時だ。仲良しといっても彼女のBFみたいなのは別にいて、僕はその少年の親友だった。そんな位置取りが案外長続きするのは、どこでもあるんだろうと思う。

 高校で上京した後ケイちゃんが手紙をくれて、そこに制服姿の写真が同封してあった。それを見た東京の級友が「可愛い!」と目を丸くし、石丸は名古屋に可愛い彼女がいると囃したりしたが、残念ながらそういう展開はなくて。

 ケイちゃんはその後、酒屋のおかみさんになった。造り酒屋ではなく、町中の販売店である。彼女の人生は名古屋市瑞穂区で完結している。そこで生まれ育ち、学校に通い、嫁いだ。いつも朗らかで、ものすごくおしゃべりで、お節介なぐらい親切だが不思議に押しつけがましくなく、誰かを憎むということ ~ 少なくとも憎み続けるということが、たぶんできない。中高一貫の進学校などに行ったら、ケイちゃんのような友だちはどう逆立ちしたってできなかっただろう。

***

 それにしても、これがスマホの効用(SNSの、というべきか)であることは認めざるを得ない。僕は無精なので、名古屋の友人たちを心から懐かしいと思っても、手間ヒマかけて連絡するようなことが続かない。フェイスブックからお節介な誕生日リマインダーが入り、御丁寧にもケイちゃんのケータイ番号まで示されるのでなかったら、こんな電話はゼッタイにしていない。確かにすばらしく便利であり、僕のように生い立ち上全国に知り合いが散らばっているような人間には、とりわけありがたいのである。

 だからこそ、あらためて思うんだが・・・

 電車の中で見まわせば、乗客のまず8割はスマホをいじっている。ゲーム党が半分、ネットサーフィンだのメールだのラインだのが残り半分だろうか。僕の用途は全く違っていてメモや作文の機能が殊の外ありがたく、出先で書き留めたことをそのままオフィス作業の素材にできることで、今後どれだけ助かるか分からない。加えて今朝のケイちゃんとのコミュニケーションである。ゲームは全く要らない。インターネット検索はなるほど便利だが、なくても構わない。電子手帳の超進化版が僕にとってのスマホの効用なのである。

 つまり何のことはない、スマホは要するにその人間を現すのだ。皆がスマホの使い方を通してそれぞれの正体を現している。考えてみれば相当に怖いことである。

 もうひとつ、あるいはだからこそ、ながらスマホ・歩きスマホの危険性をあらためて実感する。法をもって規制することすら、仮にそれが実効性をもつなら考慮してよい。ただ、実効性はあまり期待できないかな。どうだろう。