散日拾遺

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春に散る

2015-10-25 09:22:09 | 日記

2015年10月24日(土)

 要するにそういう年回りなのだろう。汐路中学校は数年前に「卒業40周年」を期して同窓会を開いた。その3年後は高校の「卒業40周年」になるわけで、これは満58歳にあたるから、多くの勤め人にとって60歳の定年目前でもある。子どもに手がかからなくなり、親の介護からも人によっては解放され、どれ、そろそろ集まるかという具合で。

 もっとも、同じ19期でも隣のA組は仲の良いクラスで、皆キャリア形成に忙しい時期にも定期的な集まりを怠らなかった。こちらB組は対照的に数えるほどしか集まりをもたず、このほどようやく20何年かぶりに話が動き出した。

 幹事役はA君で、諸般の事情から打ってつけの役割である。しかし、彼がエイヤと決めた11月の日曜日は、残念ながら校務出勤日で僕は出られない。そのように発信したら、折り返しA君から「クラス会とは別に一杯やらないか」と誘いがきた。その約束が21日(水)である。これより先、別の同級生H君とも、「クラス会とは別に・・・」の一席を約し、こちらは23日(金)。

 面白いのは、A君とH君は附属の小・中・高とずっと一緒で、クラブ活動も共通という竹馬の友同志、僕はそこに高校から割り込んだ形なのだ。何なら3人一緒にと提案してみたが、ちょっと面白い力動が働き、中一日はさんで二人と別々の再会が実現した。そういう次第である。

 そこで見出したこと、感じたことは、とても一言では表せない。会ってみればこれまで30年も会わずにいたのが不自然なぐらい懐かしくもあり、それぞれと旧交を温めることになるのだろうと思う。それならなぜ、こんなにお互い無沙汰を続けていたかというと・・・どうしてなんだろう?

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 実はタイムリーというのが、朝刊の連載小説である。主人公・藤原は元プロボクサーで、若い時には大いに嘱望された。日本チャンピオンのタイトル戦で露骨な不当判定に泣かされ、渡米して雄飛を目ざしたが、ついに世界には手が届かなかった。そのまま彼の地に住み、若い頃の鍛錬をそのまま習慣化した超健康生活を続けていたのに、思いがけず心筋梗塞を患うことになる。そんな形で老いを自覚させられた時、ふともう一度日本を見たくなった。40年ぶりの帰国である。

 かつての所属ジムを訪れ、その近くにアパートを借り、それから彼がしたことは、かつての3人の僚友の消息を尋ねることだった。4人のうちの誰が世界チャンピオンになってもおかしくないと言われた麒麟児たちは今、一人が傷害事件を起こして山梨の刑務所にあり、一人が山形の郷里で周囲と絶縁した貧窮生活を送り、一人が神奈川の下町で妻の喪から立ち直れずにいる。

 この男話に花を添えるのが、不動産事務所の若い女性スタッフ佳菜子である。部屋探しや日本の生活への再適応を助けてくれた礼に、藤原は佳菜子をレストランと映画に連れて行く。どちらも佳菜子には「初めての経験だった」と聞かされ、伸びやかな外見とは違った生い立ちの影のあることが暗示されるのだが、それよりとりあえず映画である。後で佳菜子が「ときどき藤原さんが隣からいなくなった」といみじくも表現するように、彼の思いは映画そのものから離れ、予告の一場面からある企てへと迷い込んでいく。

 老音楽家たちのための共同住居がそこに描かれている。そうしたものがあるなら、老ボクサーたちの共同の住まいがあっても良いのではないか、そう藤原は考えた。この思いつきを佳菜子は手助け可能と請け合い、物語の最初では不親切に見えた不動産屋の主人も、案に相違して身を乗り出してきたのが今朝までの展開。今後が大いに楽しみだというのも、楽しみのポイントがいくつもあるからだ。共同住居の成否、元ボクサーそれぞれの運命、佳菜子の秘密、それに藤原と佳菜子の道行き等々。

 既にいくつかの名場面があって、その中のひとつは藤原たち4人の若者が、ボクシングジムの練習生に採用された経緯の回想である。希望してやって来る者があると、ジムの会長は決まってひとつの課題を出した。ヘミングウェイの短編小説を読み、その読書感想文を書いてこいというのである。感想文を踏まえて会長の面接があり、これをクリアした者が入門を許されたのだが、後になって4人がそれぞれ自分の書いたことを語り合うのが面白い。そのオチが小洒落ていて、「会長は感想文など読んでいなかったし、書かれた内容はどうでも良かった」というものだ。

 連載中の小説でもあり、ネタばらしはこの辺にしておこう。ただ何とも懐かしいのは、作家・沢木耕太郎が同じ朝日新聞に連載した『一瞬の夏』を、当時楽しみに読んでいたということである。たぶん1970年代だが、僕としては珍しく正確な時期を思い出せない。

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 『春に散る』という題名も気になるところで、主人公が、あるいは主人公たちが散ってしまうのか、どのように散っていくのかと、心配で落ち着かない。沢木耕太郎と彼が描く人々は、僕らの一世代上にあたる。藤原が40年ぶりに帰国して日本を再発見するように、僕らも40年ぶりに再会して自分というものを再発見しつつある。僕ら自身の老いと成長と、そして散っていく道筋を、毎朝の紙面になぞるようである。