散日拾遺

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読書メモ ~ 砂糖の世界史

2017-04-16 18:11:59 | 日記

2017年4月17日(月)

 川北稔 『砂糖の世界史』 (岩波ジュニア新書)

 昨年あたり、息子の誰かへのプレゼント用に買ったと記憶する。自分自身はある程度知っていることと思っていたからだが、読んでみて大いに反省、ページごとに新しい学びがあった。

 特定の品目に注目し、これを軸に地理的広がりや歴史的推移を展望するというのは有力な手法で、精神疾患や治療薬剤などを「軸」に置くことはよく頭の中でシミュレートするところでもある。書架の既刊書にも『ジャガイモの世界史』(伊藤章治・中公新書)といった快作があるが、「砂糖」は「ジャガイモ」以上にこうした手法に適している、というのも、文中で活写される通り「砂糖」はその生産・流通・販売のプロセスとシステムを巡って、人類世界のあり方が根本的に変わるほどの「世界商品」だったからである。
 「砂糖のあるところ奴隷あり」という言葉は象徴的で、サトウキビ栽培 → プランテーション → 奴隷貿易という命題一つだけでも、このテーマの広さと深刻さが分かるというものだ。

 もう一つ面白かったのは、『ロビンソン・クルーソー』の背景との関連である。中公文庫版で『ロビンソン・クルーソー』を読み直し、訳者・増田義郎氏の詳しい解説(大塚久雄氏への批判を含む)に触発されたことは以前書いた。その仔細をあらためて丁寧に教わった感じがする。
 ロビンソンは一攫千金を夢見てイギリスを発つが、最初のギニア行でなまじ成功を収めたことがあだになる。二度目の航海ではトルコの海賊につかまって奴隷にされた。二年後に逃げ出し、アフリカ沿岸を原住民の情けにすがって小舟で彷徨するうちに、ポルトガル船に救われる。「ポルトガル船に」というのがいろいろと含みのあるところで、ロビンソンは寛大公正なポルトガル船長の厚意で無事ブラジルに到達し、そこでサトウキビの農園主になる。首尾良くブラジルのプランターに収まったわけで、そこで満足しておけば良かったのだが。
 「(多少でも自分の本当の利益に思いを致し、正しい判断をしていたならば)このようにうまくいっている仕事から手を引き、将来の反映の見こみをないがしろにして、あらゆる危険が待ちかまえている海に出かけるようなことはしなかったはずである。(中略)しかし、わたしはせかされていた。そして、わけもわからず理性よりもむら気の命ずるがままに動いていた。」(P.64)

 要するにロビンソンは、プランテーションの労働力たるべき奴隷を買いつけるために再度ギニアへ向けて出発し、そして難船するのである。その後の孤島での生活記録が世界の読者を魅了してきたのだが、以上に述べたそもそもの動機を振り返るなら、彼が舐めた辛酸への同情もあらかた消し飛ぶというものである。
 著者の執筆動機にしても似たようなもので、増田氏によれば、「そこには著者デフォーの、きわめて政治的な野望が、シンボリックに投影されていた。(中略)デフォーは、オリノコ河口とその奥の「ギアナ帝国」に、イギリスの植民地を作れ、と言っているのである。」(P.467-8)
 「イギリス帝国は金の窃盗からはじまり、砂糖栽培で栄えた。」(P.469)
 これらの下りは、『砂糖の世界史』のある章への引用文としてぴったりハマる。僕の読み落としでなければ、残念ながら川北氏は『ロビンソン・クルーソー』に言及していないようだけれど。

 『砂糖の世界史』という本の狙いからは逸れるが、ひとつ面白かったこと。砂糖の相方である茶の貿易をめぐっての軋轢が、アメリカ独立のきっかけになったことはよく知られている。世に言う「Boston Tea Party」事件であるが、僕の幼年期にはこれはまだ「ボストン茶会事件」と呼ばれていた。 誰かが "tea party" を「茶会」と訳したわけだが、この "party" は「政党」などと言う時の "party" で、グループや党派を表すものとするほうが自然だろう。川北氏が「「ボストン茶党事件」あるいは「茶隊事件」」と書いておられるのを見て、生まれて初めて気がついた。
 もっとも、「イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は『ボストンで茶会(ティーパーティー)を開いただけだ』と冗談を言ってごまかし、真犯人は検挙できなかった」とする説も一方にあり、あながち誤訳とも言いきれないのかも知れない。(http://www.y-history.net/appendix/wh1102-014.html)

 「お前たちは茶党 tea party のメンバーではないのか?」

 「めっそうもない、ただお茶会 tea party を開いてただけなんで」

 そういった会話を想定すれば、どちらでもよくなるかな。

 最後にもうひとつ、『砂糖の世界史』の Amazon の書評は61件の平均が4.7という高得点だが、中に一人だけ☆1つを付けた読者がある。その言いようというのが、ふるっている。
 「思いつくままに書いているのか、同じような話が何度もでてきたり、いつのまにか別の話に変わっていたりして、文章の構成がみえません。途中で読むのをやめました。」

 人それぞれというほか、ないのでしょうね。

Ω

 


人生の長さについて

2017-04-16 12:53:32 | 日記

2017年4月16日(日)

 われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。たとえば莫大な王者のごとき財産でも、悪い持ち主の所有に帰したときには、瞬く間に雲散してしまうが、たとえ並の財産でも善い管理者に委ねられれば、使い方によって増加する。それと同じように、われわれの一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである。

セネカ「人生の短さについて」(茂手木元蔵訳・岩波文庫)

 忠実な僕よ、よくやった、お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。

マタイによる福音書 25章23章

***

 訳あって家で過ごすところ、S姉から素敵なプレゼントがあった。今日が今年のその日にあたる。どうかこのことばかりは、商業化されないよう祈る。

Ω


今年の花見 ~ 茗荷谷から幕張まで

2017-04-16 10:08:47 | 日記

2017年4月6日(木)から10日(月)にかけて:

 要するにミーハーなんだと思うが、サクラは人並み(以上)に好きなのである。文京SCのゼミで可愛い猫の写真を見た後、忘れ物をした。PC回りの小さな小物で、ないと厄介だがわざわざ取りに行くのもシャクに触る。幸い翌日6日は木曜日、午後から御茶ノ水で仕事がある。これ幸いと茗荷谷から御茶ノ水まで散歩することにした。今度はこの間みたいに迷わない、春日通りを一本だもの。

 首尾良く忘れ物を回収、最高気温21℃、風の強い薄曇りの中を写真とりながら東へ歩いた。古今東西花相似、どこもかしこも都下一斉の花盛りを徒歩で確認である。

  ← 茗荷谷のサクラ

   

 ↑ 500m東、播磨坂さくら並木。「第46回 文京さくら祭り」

  ← さらに900m東、伝通院正面+背後に覗くサクラ

 浄土宗伝通院は家康の建立、増上寺・寛永寺とならぶ江戸の三霊山に数えられ、徳川氏ゆかりの人々、特に女性や子どもが多く埋葬されているという。伝通院の名は、家康の母・於大の方の法名に因むのだと。今度あらためて訪ねてみよう。岡崎に城を構えた家康の父方には異能の奇人の気配があるのに対し、刈谷に本拠を置く母方の水野氏は鷹揚円満な大人の気風だったようで、そのハイブリッドが天下人を生んだ。於大の方は満74歳と当時では長命し、江戸開府の前年慶長7年に没した。

  

↑ ずっと進んで富坂の下り、道の向かいに春日局の銅像

 富坂は「とび坂」の訛りだそうで、このあたりに鳶が多かったので「鳶坂」、下りきった二ヶ谷(ふたがや、現・春日町交差点)をはさんで東西に坂が飛んでいたので「飛坂」の両説あるという。春日局像は文京区立礫川(れきせん)公園内にあり、大河ドラマ『春日局』(1989年)放映記念に文京区が建立したとある。春日の地名そのものが、家光より乳母にこの一帯の土地が与えられたことから来ている。春日局こと福の父は美濃守護代斎藤氏の一族で、明智光秀の重臣だったところから本能寺の変後に成敗された。遺された福らは外祖父の稲葉一鉄に保護されて育っている。この一鉄というのが斎藤氏・織田氏の幕下でも名うての傑物で、家康も高く評価していたことが姉川の戦いの逸話で知られる。逆賊明智の重臣の娘なのに家光の乳母に抜擢され得た背景には、「稲葉一鉄の孫娘」という出自も手伝っていただろうか。

  ← 春日通りから白山通りに入り、東京ドーム前のサクラ

  ← 水道橋の駅前から外堀沿いに東へ折れ、御茶ノ水目前の坂から

 サクラは探さないと見つからないが、それよりこの坂の名を記す標識が手前に写っているでしょう。

  「皀角坂」だって、読める?

 答は「サイカチザカ」だが、サイカチはふつう皀莢または梍と表記するらしい。サイカチとは・・・

  Wikipedia から:

 「サイカチ(皁莢、学名:Gleditsia japonica)はマメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木。別名、カワラフジノキ。漢字では皁莢、梍と表記するが、本来「皁莢」はシナサイカチを指す。」
 「樹齢数百年というような巨木もあり、群馬県吾妻郡中之条町の「市城のサイカチ」や、山梨県北杜市(旧長坂町)の「鳥久保のサイカチ」のように県の天然記念物に指定されている木もある。幹はまっすぐに延び、樹高は15mほどになる。」

 用途が面白くて・・・

 「木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いる。豆果は皁莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。」
 「またサポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)。棘は漢方では皂角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされる。」
 「豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される。若芽、若葉を食用とすることもある。」

 石けん・洗剤代わりだったのね。別名の「カワラフジノキ」は感じが出ている。マメの仲間は本当に強い。

***

 週末は修士課程のオリエンテーション、雨も降ったが気温が上がらずサクラは粘っている。

  ← 9日(日)夜、呑川緑道の夜ザクラ

  ← 閑話休題、10日(月)御近所で見かけたウンナンソケイ

  ← 同じく10日(月)、放送大学構内のサクラ

 ・・・ぼつぼつ盛りを過ぎ始めて、

  ← 12日(水)、幕張海浜公園の若葉ザクラ

 たくさん見たが、これで今年の見納めと致しましょう。
 ソメイヨシノはただ一本の木に由来し、全世界の全ての株がDNAは基本的に同一って、ほんとにほんと?大した御発展で、自己愛の時代には少々不気味な注釈でもある。

Ω