2017年4月21日(金)~23日(日)
みかりんさん、正解!
良く見ると夜景の写真でも駅名が見えましたね、徳島でした。
僕は本籍が愛媛、同じ四国だから徳島なら周知だろうというのは当たらない。四国という小さな島の交通の不便さは首都圏の人々の想像を超える。徳島の人々にとって、「うずしお」と「いしづち」を乗り継いで4時間半近くの松山より、飛行機で1時間あまりの東京の方がはるかに近い。豫州人にとっても同様だが、これをマイナスとばかり見るかどうかは見識次第である。
交通が便利になれば国土はその分だけ狭くなる。所与の空間を広く使いたいと思えば、交通を不便に留めるがよいと賢くも述べたのは誰だったか。未来永劫、新幹線が走ることのないであろう 18,800㎢ の四国島は、土地の文化の多彩さもあって余人が考えるよりよほど広い。そのゆとりを、島の東西で阿波と伊豫が共有している・・・と思いたい。
実際よく似た感じがあるが、徳島の人々の方が開放的で明朗な印象あり、空と海の広さと呼応しているようである。空港から徳島駅まで送っていただく間、O先生に「広々して良いところですね」と本心を述べたら、「ありがとうございます、ただ一つだけ欠点があります」と言われた。「津波」だそうである。
なるほど、内海に囲い込まれた松山などに比べ、徳島の海は外洋に直接している。傾斜に乏しく山裾まで海抜の低い徳島平野を津波が襲ったら、一瀉千里で逃げ場がない。O先生によれば、事実それが起きたらしいという。さらに踏み込み、それまで阿波にあった国都が、津波の害を避けて奈良盆地に移されたとする推測があるんだと。
「調べてみると白鳳地震(南海トラフ地震)が684年にあったようです。奈良の平城京が710年ですから、被害を受けたそれまでの 阿波の地から津波の心配の無い都を奈良に移したのではないか?津波の不安がなく、全国に影響を及ぼしやすい奈良の地に、中国長安をモデルに新都を造営した・・・無理のないストーリーと思われます。」
帰京後にメールでそのように御教示くださった。魅力的な筋立てだが、たとえば672年の壬申の乱を考えても白鳳地震以前から政治の中心は近畿にあり、平城京に先立って藤原京(694~710)、さらに飛鳥浄御原宮(672~694)が存在するから、にわかに採るわけにもいかない説である。
とはいえ、眉山の頂から広々とした徳島平野を眺めてみれば、畿内・淡路の要地の南に開けるこの豊かな土地が放っておかれたはずはないとも思われる。奈良は良いところに違いないが、内陸の盆地にわざわざ土地を求めた古代人の発想に首を傾げるところもある。淡路から紀伊水道へ広い海原に視線をめぐらすにつれ、棄却したはずの幻が頭をもたげてくるのだった。
↑ 眉山のいただきから市内を望む。正面が北、淡路島の方向。
← 上の立ち位置のすぐ足下。
↑ 市内の高層レストランから吉野川河口を見下ろす。
↓ 逆に市内から眉山を見上げる。白い建物は、ビルマで戦没した県人の慰霊碑。
蜂須賀氏の居城であった徳島城は、1875(明治8)年に新政府の命で破却された。唯一残された鷲ノ門は1945年7月4日の空襲で焼亡したが、1989(平成元)年に復元されている。上の写真は太鼓櫓跡。良い散歩道だ。
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