散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

万葉秀歌 005 ー きのくにの・やまこえてゆけ(1・9 額田王)/ 厳橿(いつかし)

2019-04-23 11:53:05 | 日記

2019年4月23日(火)

 紀の国の山越えて行け 吾が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)がもと [巻1・9] 額田王

  「原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」というので、上半の訓が難しいため、諸説あって一定しない。契沖が「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と嘆じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釈する時に、一首として味わうことが出来ないから回避するのであるが、私は下半の「吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるので、この歌を選んで仮に真淵の訓に従って置いた。」

 「厳橿は厳かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。あるいは相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。」
『万葉秀歌(上)』P.11

 万葉仮名の難解さはキラキラネームの元祖にしてその比にあらず、と心得ていたが、なるほどこれは念が入っている。「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気」はまるで判じ物で、どこをどういじって「紀の国の山越えて行け」に落としたのか。
 一千年来訓読不明という歌が万葉にあり、それでも下半捨て難しと茂吉は見ている。厳橿(いつかし)という言葉を覚えておきたい。

 樫の木の画像を検索していたら、こんなページに出会った。伐られた樹に対する思いに深く共感する。
 
 2018年、久々に正月を田舎で過ごして東京に戻ると、最寄り駅に向かう道の桃の木が跡形もなく消えていた。春になると毎年忘れず源平の美しい花を咲かせる昔なじみの一本だったが、歩道にいくらか邪魔であるのを誰かが言い立てたものだろうか。蛮行という語が浮かび、悔し涙が滲んだ。今もその場所を通るたびに虚しさを禁じ得ない。
Ω


万葉秀歌 004 ー にきたづに・ふなのりせむと(1・8 額田王)

2019-04-23 11:52:35 | 日記

2019年4月10日(水)

 熟田津(にきたづ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は榜(こ)ぎ出でな

 出ました!

 有名な歌であり、それ以上に個人史において忘れがたい意味をもっている。この歌を教科書で教わったのは中学頃かと思われるが、「熟田津」という地名の解説が欄外脚注に添えられていた。

 「愛媛県松山市および周辺の港のうち、三津浜、和気、堀江のいずれかと考えられる。」

 詳細はあやふやながら、これらの地名が候補として挙げられていたことは間違いない。そのいずれもが自分にとっては帰省の際に聞き馴染んだローカルな地名である。特に和気と堀江は松山と言うより旧・北条市、地元も地元「おらが浜」ではないか。
 これは嬉しかった。相当に嬉しかった。

 転校生というのはつまるところよそ者で、友達はそんなことに頓着なくケンカもし、仲良くもしてくれるけれども、ある種の直観なり芽生えつつある内省なりの結果として、自分がその土地に属していないことに本人は気づいている。ではどこに属するのか?
 そうした自問がコスモポリタンへの道を開くというのは、いったん成長を遂げた後の話で、さしあたり帰属先のはっきりしないことがどうにも心細い。そんな心境の中で、耳に馴染んだ故郷の地名が教科書に載って全国で読まれるのを見、そこを舞台に歴史に残る万葉の名歌が詠まれたと知った時の気もち!
 ひょっとすると、故郷は誇れる場所なのかも知れない、そう思うことが元気の源になった。そうだった。高校野球で松山商業の活躍を見るのと並んで、「熟田津」の歌は実に実に支えになったのだ。
 これが僕の「熟田津体験」こと万葉体験その一である。その二は1994年米国ミズーリ州セントルイス市における「瓜食めば体験(山上憶良体験)」。その三があるかどうかは今後のお楽しみだ。

 なお、熟田津を松山/北条あたりに定位する伝統説に対し、同じ伊豫でももっと東の西条や今治であるとする主張があり、それぞれ興味深い。
   熟田津西条説 ⇒ http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history7.html 
   熟田津今治説 ⇒ http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-n.htm

 こういうことを大の大人が目吊り上げて論じ合えるのが平和のありがたさで、今となっては「どちらもガンバレ」だが、当時の自分は和気だの堀江だのの地名に魂を洗われる思いがしたのだった。

  ***

 「また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満ち始めるから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる。また書記の、「庚戌泊干伊豫熟田津石湯行宮」とある庚戌(かのえいぬ)は十四日に当たる。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰も大潮の満潮に当たったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。」
『万葉秀歌(上)』 P.9



道後温泉の老舗旅館にて2018年8月15日撮影

Ω