2019年4月23日(火)
紀の国の山越えて行け 吾が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)がもと [巻1・9] 額田王
「原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」というので、上半の訓が難しいため、諸説あって一定しない。契沖が「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と嘆じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釈する時に、一首として味わうことが出来ないから回避するのであるが、私は下半の「吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるので、この歌を選んで仮に真淵の訓に従って置いた。」
「厳橿は厳かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。あるいは相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。」
『万葉秀歌(上)』P.11
万葉仮名の難解さはキラキラネームの元祖にしてその比にあらず、と心得ていたが、なるほどこれは念が入っている。「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気」はまるで判じ物で、どこをどういじって「紀の国の山越えて行け」に落としたのか。
一千年来訓読不明という歌が万葉にあり、それでも下半捨て難しと茂吉は見ている。厳橿(いつかし)という言葉を覚えておきたい。
樫の木の画像を検索していたら、こんなページに出会った。伐られた樹に対する思いに深く共感する。
2018年、久々に正月を田舎で過ごして東京に戻ると、最寄り駅に向かう道の桃の木が跡形もなく消えていた。春になると毎年忘れず源平の美しい花を咲かせる昔なじみの一本だったが、歩道にいくらか邪魔であるのを誰かが言い立てたものだろうか。蛮行という語が浮かび、悔し涙が滲んだ。今もその場所を通るたびに虚しさを禁じ得ない。
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