2021年5月30日(日)
前回、5月9日には「汚れた霊に取りつかれた男」の除霊による癒やしの箇所を担当した(マルコ1:21-28)。その直前はヨルダン川での受洗・伝道活動開始・シモンら四人の漁師を弟子にするところだから、イエスの活動に関する実質的な最初の記事ということになる。
続く箇所は、シモンのしゅうとめの癒やし(1:29-34)、巡回説教についての短い記載(1:35-39)をはさんで、重い皮膚病を患っている人の癒やし(1:40-45)であり、イエスの初期の活動はその大半が病の癒やしにあてられている。異能の治療者としての名声が瞬時に拡散し、再びカファルナウムに戻ったとき「家」に押し寄せた群衆は、病者の癒やしを求める当事者・関係者と、癒やしのわざを見ようとする野次馬が大半であったに違いない。
中風の患者を寝床ごと運んできた4人の男はその典型であり、この一行に向かってイエスは、事の本質が別にあることを初めてはっきりと示す。それが本日の箇所(マルコ 2:1-12)の決定的に重要な意義であり、見方によっては福音書の物語の真の始まりともいえるものである。この構造が、マタイではその直前に3章にわたる山上の説教が挿入されることによって見えづらく ~ ほとんど見えなくなっている。「言葉」に重きを置くマタイの筆法である。ルカがまた、それ自体は貴重な価値をもつさまざまな逸話をあれこれ挿入することによって、この箇所の本来の起爆力を薄めてしまっているようだ。
とりまく群衆に遮られてイエスに近づくことができず、決意一番、病人を床ごと屋根に引っ張り上げ、イエスの頭上あたりの瓦(ルカ)をはがして病人を吊りおろしたという有名な逸話。4人の男は、病人(性別すら明記されない)とどんな関係にあったのか、それほどまでの親切をなぜ抱くに至ったか、興味津々のディテイルは想像にゆだねるとして、イエスなら中風でもなんでも何とかしてくれると信じた剛直愚直な熱誠は疑うべくもない。イエスまたこの「信仰」を嘉し、しかし最初にかけた言葉が意表を突く。
「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ 2:5、マタイも同様、ルカのみ「赦された」 ~ 主の祈りの文言の異同と比べて興味深い)
病の癒やしを求める者に、イエスはまず罪の赦しを宣言した。それが少しも的外れでないことは、深刻な闘病経験のある者なら容易に理解できる。同時に、旧約聖書の訓詁解釈に存在を賭ける律法学者らが、聞くが早いか直ちに拒絶反応を示したことも、これまた当然。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほか、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」(2:7)
この反論の後段が100%正しいことを、年長の子らには考えさせたい。確かにその通り、そこで問題は「イエスとは誰なのか」という点に絞られる。驚異的な癒やしの技と不思議な言葉の力を携えた一伝道者か、それとも神の子か。
マルコ福音書の全体は、この問に関して後者を弁証するために書かれている。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き起こされた同書の、具体的な問題意識が初めて明示されるのがこの部分であり、「福音書の物語の真の始まり」と先に書いたのはその意味だった。
そして、ここで提示された問題意識に一つの答を与えるのが、同書の末尾近くに置かれた一場である。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取ったのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ 15:39、マタイも同様。ここでもルカのみ「本当に、この人は正しい人だった」)
大きな物語の中に、問と答の呼応が入れ子のように収められているのが見えると、構造がわかりやすくなる。マルコ福音書の2章で本格的に立てられた問が、15章で受け止められている。1章を序説、16章を大尾と見るなら、なおさらわかりやすい組み立てである。
他にも入れ子が見つかるだろうか?
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