散日拾遺

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「雑役のおばさん」か「女労働者」か

2021-05-31 15:49:47 | 読書メモ
2021年6月1日(火)

 Дорогая Чайка 
 お待ちかね、種明かしをいたしましょう。
 『退屈な話』を初めて読んだのは1973年のことでした。修学旅行で関西へ向かう新幹線の中、Mという友人が別クラスで離れた車両に乗っていたのをわざわざやってきて、「これ、すごいぞ」と示したのが『グーセフ』です。お手許にある新潮文庫版の小笠原豊樹訳がそれで、修学旅行から戻ってすぐ買い求めました。定価260円とあります。
 文庫のタイトルは『決闘・黒衣の僧』でこの二作も素晴らしく、とりわけ『決闘』は何度読み返したかわかりませんが、いわばB面の『グーセフ』と『退屈な話』も同じく捨てがたい。この一冊ともいうべき愛読書になりました。
 第二幕はたぶん1981年頃でしょうか、また別の友人にこれを贈りたいと考え、それで既に絶版になっているのを知りました。当時はインターネットがなく、amazon 古書を手配するといった具合にもいきません。取り急ぎ刊行されている別の訳を書店であたってみて、違いに気づいたわけなのです。 

 問題の部分、まずは小笠原豊樹訳を転記します。

***

 …いつもの通り、彼女はトルコ風のソファか寝椅子に横たわり、何か読んでいる。私の姿を見ると、物憂げに頭を上げ、坐り直して、私に片手を差しのべる。
 「きみはいつも寝ているんだな」と、少しのあいだ何も言わずに呼吸を整えてから、私は話しかける。「それじゃ不健康だ。何か仕事をすればいいのに!」
 「え?」
 「何か仕事をすればいいと言っているんだよ」
 「どんな仕事を?女にできる仕事は、雑役のおばさんか女優くらいよ」
 「それがどうした?雑役のおばさんになれないのなら、女優になりなさい」
 彼女は黙っている。

***

 この作品に限らず、チェーホフの小笠原訳は名品揃いです。訳者の言語感覚と真摯な姿勢がすばらしく、なぜ新潮文庫はこれを絶版にしたか。小笠原豊樹という人が何者なのかずっと気になっていました。詩人・岩田宏(1932.3.2 ー 2014.12.2)と言えば通じる人には通じるらしいのですが、残念ながら私は詩を読みません。
 この場面もまた、チェーホフと小笠原のイメージが絶妙に呼応しています。そういったことはディテールに現れるもので、例えば多くの訳がカーチャの女性らしさを出そうとしてでしょうか、「~くらいしかありませんわ」といった語尾を用い、それだけですべて台無しにしてしまっているのと対照的です。
 とりわけ気に入ったのが、「雑役のおばさんになれないのなら、女優になりなさい」というくだりで、これを「女優になれないのなら、雑役のおばさんに」と言ったら差別意識丸出しの俗言に落ちるところ、逆転によって新しい意味を創り出し、あわせてカーチャの来歴を踏まえた老人の辛辣な諌言を重ねているのです。
 この会話が大好きなので、友人に贈るべく別の訳を探した時も、店頭でまずはこの部分がどうなっているか確認しました。そうしたら…

 「きみはなにか仕事をすればいいのに、と言ってるのさ。」
 「どんな仕事を?女はただの女労働者か女優になれるきりよ。」
 「いいじゃないか?女労働者にはなれないんなら、女優になりたまえ。」
 黙っている。
『退屈な話・六号病室』(湯浅芳子訳、岩波文庫旧版)

 女労働者!
 腰が抜けるかと思いましたね。「詩を読まない」と言いましたが、散文であってもとりわけ会話文において、頭の中で響く声や韻律が重要であることはよく知っています。これはダメ、これではまずい、慨嘆しながら他に選択肢もなく、一冊買い求めて注釈とともに友人に贈ったことを記憶しています。

 それからまた数年、いえ数十年が経つあいだ、この部分は私の脳裏で「雑役のおばさん」を定訳としてプレイバックを繰り返してきたのですが、ある日ふと、原文はどうなっているのだろうかと考えました。新約の原文が気になってギリシア語に取り組み始めた頃と、あるいは近い時期だったかもしれません。ロシア語は皆目できませんが、一部分に集中しての解読なら何とかなるのではないか。都合の良いことに、これはまた別の親しい友人が数年来仕事でロシアに滞在していたのです。彼にメールすると、驚いたことに『退屈な話』のロシア語原文がすぐさま送られてきました。
 もつべきものは良き友と感謝しつつ震える指を宥め宥め、行数や会話の体裁から目ざす部分を同定し、抜き出してみました。前述、湯浅訳の四行に対応するのが下記です。

-- Ты бы, говорю, занялась чем-нибудь.
-- Чем? Женшияа может быть только простой работницей или актрисой.
-- Ну что ж? Если нельзя в работницы, иди в актрисы.
Молчит.
 
 三行目末の актрисы(アクトゥリースィ)が女優(複)、ということは работницей が目ざす言葉です。こんなこともあろうかと、かねて用意の露和辞典が初めて机上に拡がりました。
 работниk(ラボトゥニク)は работa (【名】仕事・労働)や работatь(【動】働く)の派生語で「働き手、従事者、従業員」を意味しますが、男性名詞であって男性の「働き手」を指すとあります。その女性形が работницa(ラボトゥニツァ)、さらにその複数形が  работницей なのです。простой は「単一の、単なる、質素な」といった意味の形容詞。
 さて、どう考えたものでしょう?
 
***

 こんな風に未知の言語を渉猟するとき、英語という外国語がにわかに近しいものに感じられますね。消防士はかつて英語で fireman でしたが、男女平等の浸透に伴って firefighter と呼ばれるようになりました。これは一行飛ばしのようなもので、fireman があるなら firewoman もあるだろう、それならいっそ性を区別せず firefighter にすればよいと、理屈で言えば三段跳びの結果です。
 ここでスキップされている firewoman に相当するもの、いわば workman に対する workwoman にあたるのが  работницa と考えるなら、これはおよそ「働く女性」として広い意味をもちますから、文脈に従ってかなり広い訳語の幅が与えられるでしょう。простой は英語なら plain ぐらいでしょうか。その線でいくなら、「雑役のおばさん」はウィットの効いた意訳と言えそうです。ただ…
 ちょっと気になることがありました。というのは他でもない、当時のロシアの社会状況のことです。
 『退屈な話』が書かれたのは1889年、付け焼き刃の歴史情報ですが、この時期のロシアは皇帝アレクサンドル3世(在位 1881-94)の治世下に、「上からの工業化」「上からの資本主義」が推進された時期でした。工業化は工場労働を伴い、工場労働に伴って労働者が創出されていく、その流れの中で従来は家庭の中に封じ込められていた女性たちが、労働の現場に呼び出されることになる ー 日本の近代にも同じことが起きましたね。そこに登場した人々は何とよばれたか、「女工」です。おあつらえ向きに手許の辞書は、 работницa に「婦人労働者」とあわせて「女工」の語を挙げています。これをとらない手はないでしょう。
 「女工」という言葉は最も広い意味では工場労働にあたる女性一般のことですが、より限定した意味ではこのように近代の産業化とともに出現した女性労働者を指すでしょう。『レ・ミゼラブル』のコゼットの母ファンティーヌは、1820年代のフランスにおけるそのような女工の一人でした。数十年遅れてこれを追いかけるロシアにも、女工さんたちが出現しつつあったはず。日本ではどうだったか、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』が活写するところです。
 こうした時代状況を考えるなら、カーチャと老医学者の空虚な会話の中に、外の世界で歴史の舞台に召喚されつつある「女工」が登場しても不思議ではない。一方また、当時のロシアの平民女性が社会に出て働くとすれば、選択肢はこれぐらいしかなかったのではないか。そうなると、どうもここは「女工」でなければならない。「雑役のおばさん」は鋭い切れ技ですが、残念ながら少々「打ち過ぎ」のように思われます。

 ここから先は、より綿密な考証によってチェーホフとその時代の語彙を検証し、 работницей を「女工」と訳すことの適否を考察すべきこととなります。それは専門の人々の手にゆだねるとして、チェーホフ、とりわけその小笠原訳の一愛読者が提案する代替案として、下記のものを示しておきましょう。

 「何か仕事をすればいいと言っているんだよ」
 「どんな仕事を?女にできる仕事なんて、そこらの女工か女優くらいしかないわ」
 「それがどうした?女工になれないのなら、女優になりなさい」

***

 種明かしは以上です。この間、図書館で入手できるだけの翻訳を集め、関心を共にしてくださったことに心から御礼申します。
 最後に整理しておきましょう。

 池田健太郎訳(1960) 日雇い人夫
 中村白葉訳(1961)  (普通の)女労働者
 湯浅芳子訳(1963)  (ただの)女労働者
 小笠原豊樹訳(1972) 雑役のおばさん
 松下裕訳(2009)   日雇い
 一愛読者訳(2021)  (そこらの)女工

 チェーホフを訳し直す作業はこれからも繰り返されていくでしょう。そこで  работницей が次にどんな訳を与えられるか、まことに楽しみなことです。

 感謝を込めて
 С уважением 
 Кроt
 Ω

「真理」と「自由」についての付言

2021-05-31 07:55:22 | 聖書と教会
2021年5月31日(月)
 塾生御一同様:
 「自由」についてのフリートーク、昨日も楽しかったですね。少し私がしゃべりすぎたかと思いましたが、皆さんの発言やその後のMLでのやりとりを見る限り心配無用と思われます。

 途中で引用した言葉「真理は自由にする」について。

 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書 8:32)

 これはイエスと他のユダヤ人たちとの論争の場面で発せられたもので、「自分たちは現に自由であって、誰の奴隷でもない」と主張する相手に対して、(人は罪を犯さざるを得ない存在であり、そのことに気づかずにいるならば)「だれでも罪の奴隷である」とイエスが喝破する文脈で語られています。
 マルクス・エンゲルスの思想における階級闘争とイデオロギー、精神分析における無意識の欲動、キリスト教における「罪」 ~ 人を不自由にするものの正体について、引き続きいろいろと考えてみてください。
 たとえば「寿命が限られている」ことに由来する根源的な不自由を、Sさんが語られました。それを乗り越える契機を、これら三つの思想系列の中に見いだすことができるでしょうか?

 前述の聖書の言葉について、少し補足します。
 新約聖書には四つの福音書が収められており、その事情についてはいずれあらためてお話ししたいと思いますが、この四つを読み比べる作業は非常に面白いものです。
 前述の「真理はあなた方を自由にする」言葉、原文は

 η' αλήθεια ελευθερωσει υμάς.

 ギリシア語のアクセントがうまく表示できず、表記が不正確なのは大目に見てください。「真理」と訳される言葉は "αλήθεια" で、聖書にこの言葉が出てくるのはいかにも自然なことに思われるでしょう。その割には意外に聞くことが少ないような気がして確認してみましたら、"αλήθεια" の出現回数は福音書によって大きな違いがありました。

 マタイ、マルコ、ルカ ・・・ 1回
 ヨハネ        ・・・ 23回
 
 マタイ、マルコ、ルカで出てくるただ一度の用例は、三者共通のいわゆる並行記事の中に見られます。
 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」(マタイ22:16、マルコ12:14 および ルカ20:21に並行記事)
 面と向かっての歯の浮くようなおべっかには当然ながら底意があり、「ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうか」という難問を吹っかけ、答えるイエスの言葉尻を捉えようとしているのです。これまたスリリングで面白い場面ですが、それより今は、このような言葉の罠の中でしか「真理」という言葉が使われていないことに注目しましょう。マタイ、マルコ、ルカの三者(いわゆる共観福音書)は「真理」という言葉に関心を示しません。少なくとも、福音のメッセージを「真理」という言葉に載せて語ることには関心がないのです。

 これに対して全21章からなるヨハネ福音書は(数え間違いでなければ)23回、数字だけ見ても「真理」に対する著者の関心の強さがわかります。一読すれば、なおさら頷かれることでしょう。
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)
 と説き起こし、
 「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)
 という自己顕現を経て、
 「真理とは何か」(18:38)
 という総督ピラトの言葉が23番目です。
 最後の用例は、真理を説くイエスに対して正面から反論する代わりに、現世の権力者であるピラトが不可知論と懐疑をもって身をかわしたものと読むことができ、霊的な問題に関する不決断ないし韜晦の原型として常に引き合いに出されてきました。(教養課程のラテン語の教科書の最初の方に "Quid est veritas ?" という例文があり、誰の言葉かわかるかとの教授の質問に「ピラト」と即答した先輩がおられました。神経内科の女医さんになられたはずですが、今はどうしていらっしゃるか…)
 こうした数例を見ただけでも、ヨハネ福音書が共感福音書群とは違って「真理」をメインテーマに据え、「自由」を「真理」のもたらす成果と位置づけていたことがわかります。
 「わかります」と書きましたが、昨日の朝までこのことは、少しもわかってはいませんでした。皆さんとのやりとりの中でわからせてもらったのです。

 たったいま、昨日急ぎ発注した『哲学入門』が届きました。解説によればこの本は1949年秋にヤスパースがバーゼル放送局の依頼に応じて12回にわたって行ったラジオ講演 "Einführung in der Philosophie" の全訳とのことです。
 記憶による私の引用は、やっぱり少なからず不正確でした。逆に私がそれをどう読んだかが、そこからわかりますね。
 原文は第六講「人間」の中の「自由と超越者」の一節です。核心部分を転記することを以て、皆さんへの御礼に代えることとさせてください。

***

 …このような意味における自由の絶頂において、私たちは自分が自由であることにおいて、超越者から私たちに授けられているという意識をもつのです。人間が本当の意味で自由であればあるだけ、彼/女にとって神の存在が確実となるのです。私が本当の意味で自由である場合、私は私自身によって自由であるのではないということを、私は確認するのです。
ヤスパース著、草薙正夫訳『哲学入門』新潮文庫(1954)


Ω