散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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8月7日は「歴史」記念日

2023-08-09 14:17:09 | 日記
2023年8月9日(水)
 立秋はこの時期で良いのだと力説してみたものの、猛烈に暑いのは間違いない。田舎の家ではできるだけエアコンを使わぬよう心がけ、実際それで何とかなりはするのだが、日中の生産性の低さは如何ともし難い。
 かろうじて呼吸するだけで夕方を待つのもシャクなので、一昨日は納屋の本棚から無作為に本を一冊取り出してきた。たまたま手に取ったのがヘロドトスの『歴史』である。定年後の楽しみに買っておいたものの一つだが、それまで封印しておく決まりでもないので、気に入りの籐の椅子にふんぞりかえって読みはじめてみたところ、気がつけばあっという間に100ページ近く進んでいた。

 古代ギリシアの三大史書の中でも、ヘロドトスのそれはペルシア戦争に焦点を合わせたものである。ツキジデスの『戦史』はペロポネソス戦争、ポリュビオスの『歴史』は第三次マケドニア戦争などローマの覇権確立を扱っている。
 ペルシア戦争はダレイオス・クセルクセスの二代にわたってアケメネス朝ペルシアがギリシアへ侵攻したものだが、ヘロドトスはこれを記すにまずはペルシア勃興の経緯から説き起こす。
 オリエントに覇を唱えたアッシリアの軛から、まずメディアが離脱し、リュディアなどと対抗しつつ一大帝国を築くが、やがて傘下にあったペルシアの台頭で下剋上を許すことになる。「メディア-リュディア-ペルシア」という名称は世界史年表で見覚えがあるが、もちろん字面しか知らない。しかしそれぞれの個性と確執の記録を追っていくと、そうした字面が次々に実体となって想像空間で躍動し始める。これだから歴史書は楽しく、それが現代から遠いだけに屈託なく楽しめる。

 やや教訓的に読むとするなら、何よりまずヘロドトスの展望の大きさである。ペルシア戦争の記述をペルシアという国の成り立ちから説き起こすのは、日米戦争の歴史をアメリカ合衆国の成立経緯から始めるのに等しい。歴史的視点を語るなら、これだけの覚悟がなくてはならない。
 もう一つは、逆に目の前の個別の事実への忠実な関心である。これなくして歴史は歴史たりえない。広島に「リトルボーイ」が投下されたのが8時15分であることは知っていても、長崎に「ファットマン」が投下された時刻はなかなか覚えない。それが一般的に重要かどうかをいうのではない、自分自身の場合にそれが関心の偏りを端的に示すことを自覚するのである。
 小倉から変更されて長崎に投下されたプルトニウム型の爆弾は、TNT火薬換算で広島を上回る破壊力を備えていたばかりでなく、猛烈な爆風のつくり出す衝撃波によって広島とはいくらか違った様相の地獄をその地の人々にもたらした。
 11時2分がその時刻である。


Ω


二十四節気 立秋

2023-08-09 12:24:55 | 日記
2023年8月8日(火) 〜 追いついた


 
立秋 旧暦七月節気(新暦8月7日頃)
 暦の上では秋になりますが、まだまだ気温も高く、残暑が厳しい時期です。
 しかし、注意してみると、空を行く雲の姿、夜風のそよぎなど、どことはなしに秋の気配が漂っています。
 蜩(ひぐらし)が鳴きはじめるのもこの頃です。
 この日からは、残暑見舞いが時候の挨拶になります。
(『和の暦手帖』P.68-69)

 1984年の夏、まだ学生だった時分に、たちの悪い夏風邪を引いて十日ほども寝込んだことがある。寝ついたのが八月十日頃、ようやく回復して久しぶりに外に出たのが八月二十日としておこうか。
 このとき十日ぶりに外気に触れ、気温はほとんど変わらないのに空気の香りというのか風の色というのか、ともかく何かがはっきり移ろい別の相に入っているのをありありと感じて、非常に驚いた。
 
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる

 『古今集』にある藤原敏行の歌だそうだが、これが観念や修辞の産物ではなく、むしろ万葉のそれに近い素朴な自然認識であることを悟ったものである。
 だから「こんなに暑いのにどこが立秋か」というのはお門違いで、季節を気温だけでなく五感の総体で味わうなら、立秋のタイミングは今でもそんなに外れていない。ひたすらの暑さが質的な爛熟に遷移する、そんな意味合いの転換点である。

七十二候
 立秋初候 涼風至(すずかぜいたる)  新暦8月8日〜12日
 立秋次候 寒蝉鳴(ひぐらしなく)   新暦8月13日〜17日
 立秋末候 蒙霧升降(ふかききりまとう)新暦8月18日〜22日

 平成生まれで、いかにも今どき風に垢抜けた院生が、指導を請うメールの中で「まだまだ日中は暑い日々が続いておりますが、夕暮れになると横須賀ではヒグラシが鳴くようになりました」と書いてきた。
 どこでどんなふうに育ったのか、蜩の告げる季節感をこうして自然に織り込める感性が頼もしい。育ちの良さとは金のかかる習い事をどれほど積み重ねたかではなく、たとえばこんな一面から知られるのではないかと思う。

Ω

二十四節気 大暑とアオギリ

2023-08-09 11:15:17 | 日記
2023年7月21日(金) 〜 半月遅れ


大暑 旧暦六月中気(新暦7月21日頃)  ☜ 誤植見つけた。6月21日になってる。
 夏の最後となる二十四節気です。
 梅雨が明けて、本格的な暑さがやってくる時期です。気温が高く、酷暑の季節といってもいいでしょう。
 子供達は夏休みに入り、夏の土用も始まる頃です。油蝉が鳴き、これからいよいよ夏の真っ盛りという気配に満ちています。
(『和の暦手帖』P.62-63)

 特に付け加えることもないが、私的には「転校」と「帰省」の記憶が暑さに連動している。前橋から松江へ、松江から山形へ、山形から名古屋へ、いずれも盛夏の大仕事だった。そうした際にもけっして直接移動するのでなく、必ず本貫の地に立ち寄って休暇を過ごすのを怠らなかったことは、両親の主張であり見識であったと思う。
 自分自身もそれを継承してきたつもりだったが、愛媛なり河野郷なりを自身の根拠地とする意識は息子たちにはいったいに希薄のようで、それがいけないというのではないが、何がどう自分と違ったのかと折に触れて考える。「転勤族」ということが、やはり一つのキーワードだろうか。

七十二候
 大暑初候 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)新暦7月23日〜27日
 大暑次候 土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)新暦7月28日〜8月2日
 大暑末候 大雨時行(たいうときどきふる)   新暦8月3日〜7日

 溽暑という字はいかにも感じが出ている。
 桐という木がまたいろいろ連想を呼ぶものだが、その仔細は別の機会に譲るとして。
 この季節に書いておきたいのは、ヒロシマのアオギリのこと。ただ、この樹木は「アオギリ(青桐)」と呼ばれるが、実はキリ(桐)とは別科別属別種だという。
 アオギリは青桐・梧桐(Firmiana simplex)、アオイ目アオイ科アオギリ属の落葉広葉樹。
 キリは桐(Paulownia tomentosa)、シソ目キリ科キリ属の落葉広葉樹。
 こういう話はそれ自体とても面白が、今は立ち入るべきでない。植物学ではなく、歴史とモラルの話である。
 以下、若干手を加えつつ転記 :

 1933(昭和8)年4月、広島市中区東白島町の広島逓信局の庁舎(現在の日本郵政グループ広島ビル、以前の中国郵政局)の中庭に、4本のアオギリの苗が植えられました。
 1945(昭和20)年8月6日、原子爆弾が投下された時、爆心地から約1.3kmの距離にあり、爆心地方向にさえぎるもののなかったアオギリは、熱線と爆風をまともに受けました。枝葉はすべて吹き飛ばされ、幹の爆心側は焼けただれました。4本のうち1本は、そのまま枯死してしまいました。
 枯れ木同然に見えた残る3本は、しかし翌年の春になると新たに芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で虚脱状態にあった人々に生きる勇気を与えたのです。
 その後、中国郵政局の建替えに伴って、1973(昭和48)年5月に現在の場所へ移植され、原爆の体験を無言のうちに語り続けています。
 移植による枯死が懸念されたアオギリは、事実3本のうち1本が枯れてしまいましたが、その後、二世と確認できる苗木が発見され、現在は再び3本となっています。アオギリは毎年種子をつけ、これらの種子は国内外へ贈られて多くの2世が元気に育っています。
 学校の平和学習等に活用してもらうため、広島市は毎年3~6月、9~11月にキョウチクトウ(広島市の花)又は被爆アオギリ二世の苗木を配付しています。

Ω

二十四節気 小暑と「川の日」

2023-08-09 09:14:40 | 日記
2023年7月7日(金) 〜 月遅れ…


 小暑 旧暦六月節気(新暦7月7日頃)
 暦の上では夏の終わり、晩夏の時候ですが、だんだんと暑気が増してくる頃です。
 この日からは暑中見舞いを出しても失礼にあたりません。
 しかし、実際は本州の梅雨が明けるかどうか、微妙な時期でもあるようです。
 この頃から蓮の花が咲きはじめ、優美な姿を見せてくれます。
(『和の暦手帖』P.60-61)

 「異常な暑さ」が毎年続いて、これが新たな平年並みになる。令和の肌感覚で昭和と決定的に違うのが、七月の意味であるようだ。じめじめした梅雨が明ける開放感などというものを味わうまもなく、いきなり殺人的な熱暑に突入し、一方では豪雨の害が各地を襲う。「文月」などという風情も味わいもありはしない。
 この時期の良さを探すのが難しく、ただただ厭わしいばかりである。

七十二候
 小暑初候 温風至(あつかぜいたる)       新暦7月7日〜11日
 小暑次候 蓮始開(はすはじめてひらく)     新暦7月12日〜17日
 小暑末候 鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす) 新暦7月18日〜22日

 蓮はともかく、鷹の子の成長まで節気に織り込まれていた昔が偲ばれる。
 ところで今日は川の日だそうな。そんな日があることも、いつの間に決まっていたかも気づかなかった。制定は平成8年度とあるから、もう四半世紀を越える歴史があるのである。

「建設省(現国土交通省)は、河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について、広く国民の理解と関心を深めることにより、河川行政が地域住民等との連携・協調の下で展開されることを目的として、旧河川法及び砂防法の制定により確立された近代河川制度の100周年にあたる平成8年度から7月7日を「川の日」として制定しました。
 牽牛と織姫が一年に一度、天の川で会える七夕を「川の日」としました。」

 川というものをもう少し意識しようという提案に異論はない。暇さえあればジョギングしていた頃は、川沿いをゆっくり走るのが好みだった。水の流れに同調したかったのだろう。
 天地万物にアニマを見る姿勢をとるなら、川に命を投影することは至って易しい。龍は天地を自在に駆け、地上に縛られるものではないが、その二次元への投影図としては川が最適である。『千と千尋の神隠し』のハクは、もとコハク川の主だったというが如く。
 さてその川を細長い生き物に譬える場合、海や湖に開けるいわゆる河口を「口」すなわち先端と見るのが主流ではないだろうか。驚いたことに、アイヌではこれが逆だという。つまり川は海から遡上して上流に這い登ってくる何ものかなのだ。
 産卵のため流れに逆らい、重い体に傷を負いながら上ってくる鮭の群が、その原型にあるのかどうか。2022年は北海道の秋鮭が久々の好漁だったらしい。大半が四年魚である鮭の場合、2022年夏〜秋の好漁は2019年春の海水温が稚魚の生育に適した8〜13℃であったことに依るという。ならば今春の海水温によって2026年夏〜秋の漁獲が既に決まっていることになる。
 万事かくの如し。


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