散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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亀が駆け寄る

2023-08-22 11:09:15 | 日記
2023年8月22日(火)
 「亀があわてて駆け寄ってきた」などと言ったり書いたりしようものなら、即座に「こいつはよっぽどものを知らない」と切って捨てられそうである。切って捨てる前に、以下の連続写真を御覧いただきたい。ゆっくり待って撮ったわけではない。けっこう急いで連写している。
 「四本の脚のいずれも接地していない時間があること」が「走る」の定義だとすれば、走っているとは言えないかもしれないが、脚の回転や移動速度はかなりのもので、「血相変えて駆けてくる」という表現がぴったりだ。駆け寄ってきた後は、ひたすらすり寄ってまとわりつき、足の甲に上がってきたりする。接近の意志は明白そのもの、犬のようにじゃれついたり顔を舐めたりしないのは、ただ身体構造がそれを許さないからに違いない。


 ほら……ね?


 ベランダに放し飼いにすることを思いついたのは六月頃で、当初から「毎日餌をくれる存在」としての認知はあったようだが、接近の頻度や反応速度はその後日増しに高まってきた。行動パターンは思いのほか多様で、西側の大きな洗面器とは別に、浅いプラスチック容器に水を張って北側に置いてみたところ、気分にまかせて(?)行ったり来たりしている。どこにいるのか、探させられることも多い。
 サンダルの並ぶ上がり口で出待ち風情の時間が長いが、昨日その付近で掃除機をかけたら轟音にタマゲたのか大慌てで逃げ出し、鉢植えの蔭でしばらく首をすくめていた。爬虫類は頭が悪いものときめつけていたが、なかなか捨てたものではない。見知らぬ人間が接近した場合に反応の違いがあるかどうか、次なる関心事である。
 この亀はもうずいぶん前に自由ヶ丘あたりの路上をのそのそ歩いていたのを、見かけた小学生が車に轢かれるのを心配して確保した。しかしその子の家では飼えない事情があり、代わりに託された級友というのが我が家の三男である。僕は小学生の頃、松江で似たような亀を飼っていた。近所の水辺でタニシをとってきては餌に与えていたが、どうかするとタニシに哀れを催して水に返してしまうことがあった。今は市販の固形の餌である。
 亀一匹でも生き物の同居する家は、その分だけ空気が柔らかく暖かい。

Ω

旦那様が申しておりました

2023-08-22 09:15:52 | 言葉について
2023年8月22日(火)
 頭がどうかなりそうだ。
 時は明治20年代、亡夫の遺志を汲んで蔵書を届けに来た未亡人が、故人のことを一貫して尊敬語で語っている。「旦那様は」「旦那様が」と繰り返すたびに、聞く耳がむずむずしてくる。
 言うまでもなく、外に対して身内を低めること、日本語の敬語法の大原則である。今でも職場なら、上司の留守中にかかってきた電話に「部長さんは出かけていらっしゃいます」とやったら厳重指導の対象になるだろう。「部長イシマル、ただいま席を外しております。もどりましたら折り返し云々」といった表現がマニュアルに明記されているはずだ。
 そのくせ「旦那様がおっしゃっていました」とは言わない、「申しておりました」との謙譲語を「旦那様」という尊敬語にくっつけるから、上げてるのか下げてるのか皆目わからない。こんな気持ちの悪い言葉を平気で俳優に語らせる脚本のセンスに恐れ入る。「タナベは生前、このように申しておりました」と、こう来なければどうしたって落ち着かないところである。
 厄介かつ面白いのは、韓国朝鮮語では「旦那様がおっしゃっていました」式が正しいとされることで、自身の尊属に対する尊敬表現こそが彼の地では絶対不動の原則となる。これ実は意味深いものがあり、もちろん言葉だけの問題ではない。世間秩序と身内の序列とどちらを優先するか、儒教道徳の継受のあり方にもかかわる、彼我の対比の要点である。
 それにつけても揺るがせにできない、「世間に対して身内を低める」のが、良し悪しは別として我が敬語法の鉄則である。「韓ドラでも言ってるじゃん」は反論にならない。
 
 鉄則とはいったものの、実際には至るところでボロボロの体。A君の婚約者であるBさんについて、第三者であるC氏がA君に「お相手はどんな方?」と訊くのはまず当然として、A君自身が「お相手は…」とやったら本来はアウトである。のみならず、Bさんが古風な人ならこれを聞いて気を悪くするかもしれない。「お相手」呼ばわりされるのは、A君がBさんを身内として認知していない証拠とも解せるからである。しかし実際には、今どきそんなことを気にする若者はいないだろうし、現に「お相手」流が堂々と横行している。(ついでながら、テレビ囲碁トーナメントの対局前挨拶も微妙な並行現象。)
 それもこれも日本人の人間関係そのものが変わってきているからであり、言葉遣いはそれを正直に反映するにすぎない。そうした世の移ろいを悲憤慷慨するほど後ろ向きではないし、むしろそこに現れてくる変化を注視観察したいとも思う。とはいえ仮にも古い時代を舞台にし、多少とも考証に留意してドラマにするのなら、もう少し丁寧につくりこんでほしい。
 視聴者の中の若い人々は、逆にドラマの脚本から言葉を学ぶ。そこで固定される一連の誤用は、意味のある変化ではなく単なる乱れであり、退廃でしかない。

Ω
 

「ならしの」の混沌

2023-08-22 03:46:35 | 日記
2023年8月22日(火)
「習志野市を故郷とする、現・春日部市民」さんより:

春日部市粕壁は確かに面白いですよね。
しかし、地名の面白さ(というか、カオス度)という点では、私の自称・故郷である習志野は筆頭格です。

習志野駅は、習志野市にはありません(船橋市)
北習志野駅も、習志野市にはありません(船橋市)
でも、新習志野駅は習志野市です。

日大習志野高校は習志野市にはありません(船橋市)
でも、習志野高校は習志野市にあります。

「習志野」という地名は習志野市ではなく、「船橋市習志野」です。
「習志野台」という地名も習志野市ではなく、「船橋市習志野台」です。
でも、「東習志野」という地名は「習志野市東習志野」です。

以前、私が住んでいた「袖ヶ浦」という地名は、袖ヶ浦市ではなく「習志野市袖ヶ浦」でした。
ついでに、私のような習志野の地元民は、住まいを聞かれると「習志野です」ではなく「津田沼です」と答えます。

なにゆえこのようなカオスが生じているかについては、以下を参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E


…… 貴重な御指摘ありがとうございました。

Ω