散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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二十四節気 芒種

2023-06-08 11:59:47 | 日記
2023年6月6日(火)


 芒種 旧暦五月節気(新暦6月6日頃)
 芒種とは、稲や麦など「芒(のぎ)」のある穀物をさしています。同時に、この頃が稲を植えつける好時期であることも表します。
 例年、梅雨に入るか入らないかの頃合いで、昔の農家は田植えの準備に忙しい時期だったようです。
 そろそろ梅の実が黄色く色づきはじめ、スーパーなどに並ぶ頃です。
(『和の暦手帖』P.54-55) 
***
 知名度が低い、というより自分が注意を払っていなかっただけのこと。田植えの準備に忙しいのは、今の農家も同じに違いない。芒は麦にもあるのだろうが、節気としての芒種はもっぱら稲に関わっている。麦秋に続いて芒種を迎え、田野の主役が麦から稲に交代する。

七十二候
 芒種初候 蟷螂生 (かまきりしょうず)     新暦6月6日~10日
 芒種次候 腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)新暦6月11日~15日
 芒種末候 梅子黄 (うめのみきばむ)      新暦6月16日~20日

 時候の花が「紫陽花」「菖蒲」と聞くと、ぐんとイメージが可視的になる。
 「あじさい寺」は固有名詞ではなく、そのように呼ばれる資格のある寺が全国に無数にあるようだ。郷里松山では、空港に向かう道沿いにある黄檗宗安城寺を挙げた記事がある。高校後輩の I 医師がそのすぐ近くで地域医療にあたっていたが、惜しいかな五月八日に急逝した。
 花言葉の「移り気」「浮気」「無常」などは色が移ろうことに由来するのだろうが、他方「辛抱強さ」ともある。こちらは花期が長いことに依るらしい。I 君には、是非とも辛抱強く長生きしてほしいかった。

Ω



天の季節と人の時 〜 コヘレトの言葉 3章

2023-06-08 11:58:59 | 聖書と教会
2023年6月4日(日)

 つまりこの日は辻堂を通って茅ヶ崎まで、招かれて話をしにいったのだけれど、案の定こちらが大いに教わって帰ってくることになった。シラス丼まで振る舞われて、申し訳ないことこのうえない。
 旧約聖書の『コヘレトの書』から、問題の部分を末尾に示す。

 冒頭の一行、すなわち
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
との託宣、知らなければそのまま読み過ごすところ。読み進めば「殺す時」「憎む時」などと物騒な話で、それらすべてにわたって細大もらさず神が用意されると、そういうことか。
 否、そう単純ではない。T牧師が分かりやすく解き明かしてくださった要点は「何事にも時があり」と「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」というこの二つの「時」に対して、原語ではそれぞれ違う言葉が用いられているというのである。そうだったのか。

 翻訳の多くは、これに自ずと対応して訳語を変えている。たとえば口語訳聖書では、

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」

 「季節」と「時」で訳し分けている。「生まれる時、死ぬ時」以下にずらずらと列挙されるのは、すべて「時」であって「季節」ではない。これすなわち「人の時」であり、人はそれぞれのもくろみに従い、特定の時点であれこれの行動を起こす。
 しかし天が下には、それとは異なる天の季節というものがあり、神の計画に従って粛々と進んでいく。いわば二重の時間の中に置かれていながら、もっぱら自分が時を選んで物事を進めていくように人は思い込む、そうしたダイナミズムを俯瞰的に示したものらしい。
 他の訳を列挙すれば、
 
 「天が下の萬の事には期あり、萬の事務(わざ)には時あり」(文語訳)
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(新改訳)
 「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある」(聖書協会共同訳)
 新共同訳を除く全てが二つの時の一つを別の言葉に訳し変え、両者の違いを示唆している。「原文に忠実」をモットーにするはずの新共同訳が、敢えて同じ「時」の語を当てて違いを消去したのはなぜなのか、その意図はよくわからない。

 ついでに英語・フランス語を見ると…
 "For everything there is a season, and a time for every matter under heaven." (New Revised Standard Version)
 "Il y a un moment pour tout, un temps pour toute chose sous le ciel:" (仏聖書協会版)

 後続部分との関連から、日本語訳の「時」にあたるのが time と temps、「時期」「時機」「季節」に相当するのが season または moment であることがわかるが、「天の下のすべてのこと」との組み合わせが日本語訳と英仏訳では逆になっているように見える。違うのかな?

 さて、そうなるといよいよ原文 〜 ヘブライ語を見なければならない。これがそれだ。

לַכֹּ֖ל זְמָ֑ן וְעֵ֥ת לְכָל־חֵ֖פֶץ תַּ֥חַת הַשָּׁמָֽיִם׃    

זְמָ֑ן    zeman   天の「時」 season
עֵ֥תהַ  eth    人の「時」  time

 So if any distinction intended, as seems probable, between the word zeman and eth, the author implies by the use of the former term that whatever occurs has been determined or fixed by God.
(The Interpreter's Bible, vol.5, P.43)

 さて、「天の下」云々が season と time のどちらに関連するかだが、何しろ自分のヘブライ語がよちよち歩きにも達しないレベルだから、はっきりしたことは言えそうにない。語の配置を素直に見れば、文末に置かれた「天の下の」はより近くに配置されたעֵ֥תהַ(time)を修飾するようであり、手許の英訳と仏訳はそのように訳している。
 しかし「すべてのことには(神の)季節がある」とするのが書き手の主張だとすれば、「天の下の」という決め言葉をこちらと結びつけるのは自然な発想である。修飾語と被修飾語が離れた位置に置かれたり、我々の感覚には不自然と感じられる語順をとったりすることは、たとえばラテン語では珍しくなかったような気がする。
 さらに、「天の下のすべてのこと」には、(人の)時 time があると同時に、(神の)季節 season があるというふうに、「天の下」が両方にかかるとする第三の説も考えられる。よく見れば新改訳と聖書協会共同訳はこの説に与して読点(、)で文を三分しているように見える。
 つまり…
 「天の下」は time にかかる   ・・・ 英語訳、仏語訳
 「天の下」は season にかかる ・・・ 文語訳、口語訳、新共同訳
 「天の下」は両者にかかる   ・・・ 新改訳、聖書協会共同訳

 「ギリシア語(新約)はカッチリしていて訳に揺らぎの余地がないが、ヘブライ語(旧約)は読み解くのに感性の助けが要る」という意味のことをセントルイスの教会で Don Howland 牧師から聞いた。四半世紀も前のことだが、今になってその意味が少しわかってくるようである。
 サザン通り界隈に多くの教会がひしめく茅ヶ崎の町で、同信の人々とともに過ごした幸せな半日。

***

『コヘレトの言葉』3章1~11節 (新共同訳聖書による)

1: 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2: 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3: 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
4: 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
5: 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
6: 求める時、失う時/保つ時、放つ時
7: 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
8: 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
9: 人が労苦してみたところで何になろう。
10: わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11: 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に
与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極
めることは許されていない。

Ω

『浜辺の歌』を駅に聞くこと

2023-06-06 11:58:28 | 日記
2023年6月4日(日)
 
 項を分けておこう。
 茅ヶ崎へ向かう電車が辻堂駅に停車したとき、ホームから聞き慣れたメロディが流れてきた。『浜辺の歌』である。帰途にもまた聞こえたから間違いない。
 2016年(平成28年)12月から行われていることだそうで、下記に仔細が記されている。歌人で作詞家の林古渓が、幼い頃に辻堂東海岸を歩いた思い出をもとに歌詞を作ったとされるのが根拠とある。
 https://tujidounotami.jimdofree.com/%E8%BE%BB%E5%A0%82%E9%A7%85%E9%96%8B%E8%A8%AD100%E5%91%A8%E5%B9%B4%E4%BA%8B%E6%A5%AD/%E8%BE%BB%E5%A0%82%E9%A7%85%E7%99%BA%E8%BB%8A%EF%BE%8D%EF%BE%9E%EF%BE%99%E6%B5%9C%E8%BE%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C/

『浜辺の歌』

作詩:林古渓  作曲:成田為三
大正5年(1916年)

あした浜辺をさまよえば
昔のことぞ偲ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も かいの色も

ゆうべ浜辺をもとおれば
昔の人ぞ偲ばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

***

 そういえば、「もとおる」という言葉は自分の辞書になかった。下記を見れば「さまよう」とよく呼応する言葉のようである。
 ①から②への転意はわかりやすいが、③、④とひっくり返るのは不思議で面白い。

もとお・る、もとほる【回・徘徊・繞】〘自ラ四〙
出典 精選版 日本国語大辞典精選版
① まわる。めぐる。徘徊する。
※古事記(712)中・歌謡
 「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻(もとほ)ろふ 細螺の い這ひ母登富理(モトホリ) 撃ちてし止まむ」

② (曲がる意から)まっすぐでない行ないをする。曲がったことをする。
 ※成唯識論寛仁四年点(1020)六
 「忿と恨とを先と為、追ひ触ればひ、暴(し)ひ熱(あつ)かひ、很(ひすかし)まに戻(モトホル)を以て性と為」

③ 思うようにはこぶ。思うように自在に動く。自由になる。
※上杉家文書‐天正一〇年(1582)(三・四月頃)上杉景勝自筆書状
 「人躰衆にふにふにて、もとをらす、のひのひにて口惜迄候」
※浮世草子・傾城禁短気(1711)一
 「もとおらぬ三味線鳴らしてゐやう程に、主は笑止がる顔して」

④ 役に立つ。
※滑稽本・早変胸機関(1810)
 「もとをらねへことをいったっても始まらねへはなし合だから」

Ω

土曜の朝の紙面から

2023-06-03 08:30:30 | 日記
2023年6月3日(土)
 クイズは苦もなく正解できるが、知らない言葉や使ったことのない言葉がよく見れば端々に織り込まれている。出題者の隠れた望みが漏れ伝わる。

● 麦笛:
 麦の茎を切って、笛のように吹き鳴らすもの。むぎわらぶえ。夏の季語。
麦笛や雨あがりたる垣のそと ~ 秋桜子

● 目柱(めばしら):
 矢の先につける大形の鏑(かぶら)。また、蟇目(ひきめ)にうがった目(孔)と目との間の部分。

 これなどは、さらに「蟇目」を引かないとわからない。

● 蟇目:
 引目・曳目・響矢などとも。長さ4・5寸(大きいものでは1尺を越えるものもある)の卵形をした桐または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔をうがったもので、これを矢先につけ、射るものを傷つけないために用いた。故実によると、「大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという」とあるように、もともと同類のものであったようである。その種類には犬射(いぬい)蟇目、笠懸(かさがけ)蟇目などがある。またその名の由来については前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているという説や、これが飛翔するとき異様な音響を発し、それが蟇の鳴き声に似ているとされることから魔縁化生のものを退散させる効果があると信じられ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの式法が整備されてきた。今日でもこの蟇目の儀は弓道の最高のものとして行われている。[入江康平]

● 擬古文(ぎこぶん):
 江戸時代に多く国学者が古代の仮名文・和歌を模範としてつくった文。国学者の間には、古代の言語は正雅であり、後世の言語は卑俗であるという価値観があり、それに基づいて制作された。模範となった文は雅文とよばれた平安時代のものが主で、奈良時代のものは古文とよばれて除外されることが多かった。平安時代の文・和歌に用いられている語彙・語法を研究し、自分たちの表現に取り入れようとしているが、発想の基盤がその時代の言語にあるため、制作された文は平安時代そのままでないことが多い。文字は平仮名を主とし、漢字・漢語をできるだけ避けているが、鎌倉時代以降の和漢混交文の影響も見逃すことはできない。賀茂真淵、村田春海、加藤千蔭、本居宣長、石川雅望、藤井高尚、清水浜臣などの文章がよく知られている。なお、鎌倉時代以降の和文、たとえば『徒然草』のようなものは、厳密には擬古文とはいえないが、これも分類に入れる考え方もある。[山口明穂]

● 裏印(うらいん):
 ① 文書の表に名を書き、署名部分の紙背に印を押すこと。
 ② 一通の文書が、数枚の紙につづけて書かれたとき、連続するものであることを証するため、紙の継ぎ目に印を押すこと。また、その印。継ぎ目印。
 ③ 表の文面を承認または保証するために、文書の裏に署名、捺印すること。また、その署名、捺印。
※禁令考‐後集・第二・巻一五・天保一三年(1842)一〇月「地頭裏印并役人奥印於無之は」
 ④ 実印の一方の端に刻んだ小印。多くは代判に用いる。裏判。
 ⑤ 手紙などの封筒の裏面に押した、差出人の住所氏名などの印。
※一九二八・三・一五(1928)〈小林多喜二〉四「労農党××支部、さう言ふ裏印を押した手紙がくると」

● 星石(ほしいし):
 〘名〙 流星の地表に達したもの。ほしくそ。隕石。〔和訓栞(1777‐1862)〕

● 獅子口(ししぐち)
 ① 屋根につける棟飾りの一つ。鬼瓦の代わりに棟の両端に置く瓦。側面に山形の綾筋(あやすじ)があり、上方に経の巻という三個の丸瓦をつけたもの。神社、宮殿など檜皮葺屋根に瓦棟をおいた時、あるいは唐破風(からはふ)の棟に用いる。
 ※書言字考節用集(1717)二「蚩吻 シシクチ 俗謬二蚩尾一為二蚩吻一。称レ模二蚩尤首一或設二鬼頭一或為二口脣一以置二屋宇一冝レ照二考遠一」


 ② 能面の一つ。獅子のように口を大きく開き、牙(きば)をむき出した凶暴な面相のもの。「石橋(しゃっきょう)」などに用いる。

 ③ 竹製の花器の一つ。長さ約三〇センチメートルで、生け口が横に大きく、獅子の口に似ている。置花・掛花の両様に用いる。
 ※雑俳・口よせ草(1736)「獅子口を切そこなって竹をすて」

● 徒組(かちぐみ):
 江戸幕府の職名。将軍外出のとき、徒歩で先駆を務め、また沿道の警備などに当たった。おかちぐみ。かち。

 徒組は御徒町の地名の由来でもあるのだろう。「獅子口を切り損なって竹を捨て」は、誰しも覚えのある悔しさをさらりと読んでこころにくい。

 ああ、おなかいっぱいだ。さしもの大雨がそろそろあがる頃である。

Ω

ピンとキリではどちらが偉い?

2023-06-01 19:06:55 | 読書メモ
2023年6月1日(木)

 A子さん、先日は「文藝春秋」三月特別号を御恵贈くださり、ありがとうございました。第168回芥川賞を受賞した二作品について、A子さん御自身の評価は完全に別れたとのこと、一方はそれなりに面白く読み入ったのに対して、他方はちっとも良さが分からなかったのでしたね。
 私も読んでみました。
 松江出張の間は仕事と現地を楽しむことに余念なく、帰京後に少し落ち着いてから分厚い雑誌のその部分だけ切り抜き、電車移動の間に読んだのです。その結果は愉快なことにA子さんとまったく同感、一方は文章に粗さが垣間見えるものの、触発の火花を随所に感じつつ読み進め読み終えたのに対して、他方は楽しいとも面白いとも少しも思えず、10ページもいかないうちにいっそ投げ出したくなったほどでした!
 錚々たる選考委員諸氏が一致して高い評価を与えていることを思えば、A子さんも私もきっと文学を解さぬ凡愚の輩なんでしょうね。それで結構、たくさんです。偉い人々が何とおっしゃろうと、つまらないものをつまらないと言い放つ至高の権利を私たちはもっているのですから。
 ただ、A子さんは二作のどちらが面白く、どちらがつまらないかをおっしゃいませんでしたね。だから、ひょっとすると私は貴女と同じ感想を抱いたのではなく、それどころか正反対だったのかもしれません。だとしたら、これまた愉快なことでしょう。
 照合するのはお目にかかってのお楽しみとして、一つ付言を。一方の作品は南東北を舞台にしており、それを忠実に反映する福島あたりの方言の会話が私にはことのほか懐かしいのでした。主人公の離婚した相手が「星」という姓になっていましたが、この洒落た姓の人々は福島に断然多いのです。そのあたりも作品の写実性を裏書きするものと感じられました。
 とはいえ、そのことと作品全体の面白さとは別の問題、さてどちらがどちらだったのか、せーので明かしてみるとしましょう!

Ω