散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ムクドリ大集合

2023-06-19 19:47:22 | 日記
2023年6月19日(月)

 2週間ほど前だったか、朝からムクドリの大合唱で何事かと腰を浮かすことがあった。「大量にムクドリが集まった場合には、パチンコ店内の音量と同じレベルに達する」と Wikipedia にある、まあそんなものである。さほど長くは続かなかったが、近隣に相当数のムクドリが住んでいることはこれで知られる。
 今日は今日とて夕暮れ時、夏至直前でまだまだ明るい18:45、ふと見ると中学校のグラウンドを囲むネットのてっぺんにムクドリが大集合している。鳴き声は控えめでおとなしく整列、この度はそういう申し合わせらしい。



 騒音の害やら糞害やら、都市部では悪評が目立つようだが、僕はこの鳥を悪く思うことができない。ひろすけ童話集で読んだ『むくどりの夢』が心の中にしっかり根を下ろしているからである。
 気がつけば自分も、子どものとりの境涯になった。

Ω

 
 

小塩先生のお人柄

2023-06-19 18:12:54 | 日記
2023年6月19日(月)

 小塩先生の記事を今日アップしたのは偶然かと、さっそく知人から質問あり。というのも、昨日のNHK『こころの時代』で同先生の追悼番組が放送されたからである。
 『神との対話 ~ ゴート語訳聖書の世界』、以下は配信サイトに付された解説:
 小塩節さんは、テレビのドイツ語講講座の名物講師だった。ドイツ語への関心は、戦争中、牧師の家庭に育った幼いころの記憶に始まる。戦後、初めてドイツで学んだ時に出会ったのが、古いゴート語訳の聖書。戦争中の蛮行への罪責が生々しかったドイツの人々の信仰のあり方と相まって、忘れられないものとなる。以来、半世紀をかけて追いかけた古い聖書に込められた「神」への思い、それを訳した人の信仰。【2004年3月初回放送】

 今日取り上げた経緯については質問者の御明察、遠方の親族がこれを見て「良かった」との感想を家人に伝えて来、食卓の話題になって思い立ったのである。そうと知って知人が伝えてくれた思い出話をそのまま転記する。

 …小塩節先生がドイツ語講座を担当しておられたとき、母が大ファンで、いつも「コシオブシ先生」と呼んで親しんでいました。母は語学が大好きで、特にロシア語とドイツ語に励んでいたのです。
 そんな母の様子を、姉が小塩先生あてに手紙で書き送ったことがありました。
そうしたら、なんと「お母様へ、コシオブシより」と書いてお返事が来たのです。
 先生は、御自身より年上の母が先生の講座で学んでいることを、申し訳ないほどの敬意をもって喜んでくださっていました。
 ブログを拝見して、そんなことを思いだしました。

***

 念のため、御尊名は小塩節(おしお たかし)と読む。ゴート語訳聖書とはどんなものか、聖書をゴート語に訳すとはどんな作業か、ひとつ配信サイトで見てみるとしよう。

Ω

小塩先生が聖書の朗読についておっしゃったこと

2023-06-19 07:34:37 | 聖書と教会
2023年6月19日(月)

 「すぐれたお坊さんの唱えるお経にはみごとなものがある。真言経や般若心経など、耳を傾けているだけで心に沁みるものがある。キリスト教の教会でも、かつて用いられていた文語訳聖書を明治生まれの牧師さんは堂々と朗読していた。最近の私たちの世代は、マシュマロのように骨のない口語訳聖書を、いたるところまちがえながら読みあげて平気である。これは国語力の衰弱以外の何ものでもない。」
小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』講談社学術文庫(P.57-58)

 
 
 たまたま家庭で話題になったので、久しぶりにページをめくってみた。小塩節先生は1933年生、2022年没。残念ながら直接お目にかかる機会がなかったが、ドイツ語講座などで聞き慣れた深く柔らかい声と朗らかな語り口が記憶に鮮やか、世代・時代を彩る背景の重要な一部である。そう言えばアルフォンス・デーケン師やグスタフ・フォス師などと「ドイツ」や「キリスト教」という切り口で接点がなかったものか。
 「最近の私たちの世代」について師が慨嘆されたのは1980年代のことと思われる。口語訳聖書を「マシュマロのように骨のない」と評する師が、新共同訳聖書についてどのように感じておられたか、伺ってみたいものだった。
 上記に続けて以下のくだり。旧約には師をしてかく言わしめるものがあり、思想内容のみならずその形式に注意を払う必要がある。聖書朗読にあたる礼拝司式者も留意すべきところ。「仮に日本語訳で読むとしても」と付け加えておこう。

 「聖書はお経と同じだ、とは言えぬかもしれない。せめてたとえれば旧約聖書は全篇これ「詩」篇だと言うことは許されよう。だとすれば、詩の朗読と同じように、正確かつ音楽的でないといけない。」
上掲書(P.51)


Ω