Jun日記(さと さとみの世界)

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うの華 179

2020-03-12 13:22:19 | 日記

 すると、奥さんの方はどう思ったのか知れないが、自分が立っていた帳場の畳上から、さーっとばかりに進むと急いで玄関に降り立った。カタカタと履物を履くのももどかしい様子で、すぐ様に店頭にいる私の傍へとやって来た。彼女は思い詰めた様に赤い目をして私を睨んでいた。私は頭上から見下ろして来る強面の奥さんの顔に、今から何を怒られるのだろうと、彼女から怒鳴られる事を覚悟して縮こまった。

 「さ、これを持ってお帰り。」

口早で冷静な声だった。彼女の差し出す手には紙包みが有った。包みの中身は先程彼女がパンケースから取り出していたパンだろう。大きさからみるとパンが1個入っている様子だ。咄嗟の事だったが、私は2個じゃないのだと包みの様子を怪訝に思った。

 「何だい、文句でもあるのかい。」

私の顔付きに、彼女はぽんと言葉を発した。

「大体、あんたの家の人は皆そうだが、人様を何だと思っているんだい。」

馬鹿にして。と、こう喋り出した彼女は相当癇が立っていた。眉間に青筋まで走っている。行き成り怖い顔で詰め寄られた私はべそを掻きそうになった。今、何を言っていいのか分からない。何故彼女がそう迄私の事を怒っているのかも分からない。私は困り切った。

 「おいおい、その子のせいじゃ無いだろう。」

ご主人が声を掛けて来た。その子に言っても埒が明かないだろう。そう奥さんを諭すと、奥さんは、それでも…と、まだ何か言い足りなそうにしてご主人の顔を見た。ご主人が帳場でドンと構えているので、奥さんも二の句が継げないようだ。

「広告費にしたらどうだい。」

ご主人が言う。この声に奥さんが不思議そうに広告?と呟くと。ご主人は宣伝費の事だよと言った。

「それでいいじゃないか、家は商店なんだ。」

「商売の付き合いにしておけばいいんだ。そうすれば腹も立たないさ。」

と、彼はあくまでも冷静な素振りだった。奥さんの方はそんなご亭主に、「そんな…、」と悲しそうな気配で、お前さんだって五郎ちゃんや、二郎ちゃんは大のお気に入りだっただろうにと訴えた。

 するとご主人も俯いて目を閉じたが、やや進んで帳場に来ると、そこで屈み込んで手に鉛筆を持ち、無言で何やら書き込んだ。そんな夫に、店頭にいた妻は急いで煙草棚に走り寄ると、棚の向こうにあるらしい帳簿を覗き込んだ。へえぇ、ふううん。奥さんは唸ると、そんなになるんだと呟いた。

 その後彼女は、それよりと言うと、いっそこの方がと、貸して、とご主人から鉛筆を譲り受けると、サラサラと何やら帳簿に書き込んでいたが、それを見てご主人の言う、お前それでいいのかいと言う言葉にええと頷くと、放心したような顔付でこちらへ振り返った。

 彼女は沈んだ感じで肩を落としていたが、そろそろと静かに歩み寄り私のいる場所へと戻って来た。今度の彼女は先程の怒りを含んだ形相とは違い、打って変わって、何だかこちらに気の毒そうな顔付をしていた。私は彼女のその憐れむような瞳に、彼女が自分の事を可愛そうにと思っているのだと感じた。この時の私は、彼女に怒られるより、可哀そうがられる方が良かった。

 彼女は言いにくそうに、又は如何言ったらよいかを考える様に、口の中で言葉を細々噛み砕いていたが、

「ありがとうございました。」

「これは1個〇円だからね。お代は後でいいからね。」

と口にした。その後寂しそうに微笑むと、さようなら、あなたのお祖母ちゃんに宜しくね、と、私を帰りの道まで送り出してくれた。

 彼女の送り出してくれた方向が、私の帰途方向に当たっていたので、私はやむなく散歩を取り止める事になった。私は紙包みのコッペパンを1個携えて、早々に朝の散歩から自分の家に戻て来る羽目になった。


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