住職さんは暗い顔付きになり、その表情は何やら煩悶しているのだが、私には彼のそんな状態その物が謎だった。その儘私達二人は暫く無言の儘だったが、見守る程に闇の深みへと沈み込んでいく住職さんの顔に対して、私の顔はどんどん元気を回復して行った。
『喜怒哀楽以外の感情』、先程の彼の言葉が私の脳裏へと浮かんできた。すると未知の言葉に、私は次第に興味深々となってしまった。私は本堂を背に明るい大気に向き直ると、目をパチパチさせた。好奇心に富む明るい表情を浮かべると、『聞いてみようかな。』と思った。勿論住職さんにだ。そこで再び彼に向き直ると、私は物思う熱い視線を彼に送り始めた。これは、教えて教えてと言う、この世のあらゆる物に対する興味、向上心に富む童心から来ていた。それは何気無い日常、気儘な自身の普通の状態だった。知りたがり屋になる、私の年頃はそれで良いのだと思った。そこで私は頓着せずに、「喜怒哀楽以外の感情って、何ですか?。」と、問い掛けた。静々と彼の側に寄り、再びその質問した。だが、やはり彼は沈黙した侭だった。
この時、彼は少し開いた扉の本堂の奥、中にいる人物を気にしていたのだが、私の方はそんな事はお構いなしだった。只、住職さんの顔が一段と曇り、遂には険悪な表情を通り越すと、鬼気迫る様な形相に変わった。ここで私は彼に畏怖を感じた。そこで頃合いを見量ると小さくそろりそろりと後退りした。『石段迄戻れるだろうか?。』、私がそんな事を考えて危惧していると、私のこの気配は住職さんに伝わったらしい。
彼は行成私に視線を向けた。彼は何処へ行くんだと私に問い掛けた。もう帰りますと返事をする私だったが、彼は私の意に反して私を引き止めた。「もう少し此処にいなさい。」。
その方が私も都合が良いのだ。住職さんは続けて私にそう言った。しかし事態の読めない私には何が起こっているのかと、尚更に奇妙に思う感情ばかりが湧いて来た。私の方は何方かというとこの場を離れたかった。時間の経過と共にそんな気持ちは募って来た。相変わらず住職さんは本堂の中を気にして言葉が無い。私は益々この場に居た堪れなくなって来た。今日のこの日の出来事等、何か知らずとも、如何でもよい事では無いか。遂にはそんな気持ちになった。
「帰ります。」
姿勢を正し、住職さんにはっきりと聞こえる様にと、私はきびきびと声を上げた。すると、この日初めて彼は私に笑顔を向けて来た。「此処に居なさい。お前は人助けが好きだろう。」住職さんはそう言った。帰宅に向けて、既にスタート、用意、…の姿勢に入っていた私は、出端を挫かれた。
予てより、私の父は「人助けせよ。」と、私に対して口にしていた。そこで私は常日頃、この言葉を肝に銘じていた。飛び出し掛けた私の足が一瞬止まった。『人助けか』、この言葉が私を引き止めた。この場は去った方が良い、この時私の直感はそう告げていた。判断に迷いながら私はその場で足踏みした。そうして半ば溜息を吐いた。私は一旦その場に留まった。が、また直ぐに二の足を踏みながら考えた。『帰った方が自分には良いのだ、でも、父の教えに従うべきだろうか?。』石段の前を行きつ戻りつ、横に数歩歩んでみながら私は決断を迫らた。
「喝!」
雷だ⁉︎、私は身を低くして耳を覆った。一瞬閉じた瞼を開くと、私の位置より下方、石段横の地面迄降り立った場所に、不思議にも住職さんがいた。続いてガラガラ響く音に、雷だと確信した私は耳を覆った。住職さんも身を丸くするのが見えた。それにしても、彼はいつの間に、また何故?、本堂から離れた場所、しかも屋根の外に向かったのか、と、私には彼の行動が謎だった。雷鳴が轟けば、屋根の下、本堂の内に身を隠した方が得策と私には思えたからだ。
その後も耳を塞ぐ私にガラゴロ音が聞こえたが、音は幾分小さくなった。ドンドンドン…、雷の音は遠ざかって行った。地面に降りた住職さんは頭上の様子を窺っている様だ。静けさが戻ると、彼はホッとした様子になり、程無く私のいる位置迄戻って来た。彼はやや決まり悪そうに頬を染めていた。そうして私の前に立つと相好を崩した。彼は茶目っ気のある瞳を輝かせると私に語り掛けた。「驚いただろう。」。
私が大様に雷の話をすると、確かに、雷が落ちたなと彼は合点して見せた。そうして私の物知りを、ほほうとばかりに褒めてくれたが、その事に対して怪訝な顔付きをする私の顔に気付いた。彼は次第に私達二人の間に存在する意思の相違に気付いた。
「雷親父」
知らない?、分からないのか。この年齢はそうか。住職さんは嘆息した。私達二人には又沈黙の時が流れた。この気不味さに、私は思い出した様に住職さんに尋ねた。喜怒哀楽の他の感情についてだ。すると住職さんは、雷親父を知らない私には話しても無駄だと決めつけた。
(想像出来た人もおられると思いますが、もう少し長くなりそうなので、一旦アップします。)