今日ブログを読んでいたら、知人の死を悼むものがありました。それでふと高校時代の合宿の事を思い出しました。
合宿最終日の前日、午後の一休みをしている時でした。顧問の先生が私の名を呼び、3組の○○って知っているかと尋ねるのです。私には性別さえ分からない同学年の生徒でした。
「実は亡くなってね、昨日バイクの事故で死んだんだよ、知らない生徒だった…」
ビックリしました。知らない生徒でも同学年、16、7歳の早すぎる死はショックでした。私にとっては顔を思い浮かべることが出来ない生徒、練習に入るとすぐに忘れてしまったのは他人事のようでした。が、もう一人の同学年の部員にとっては、顔が分かっていただけにショックが尾を引いていたようでした。折に触れて私にその生徒のことを話し掛けてくるのです。けれども、私の「驚いたね」「ビックリだったね」「早いねぇ」の通り一遍の言葉が続く内に話題は途切れ、話を打ち切り沈黙してしまいました。
翌日、合宿も終わり帰途の電車を降り、駅から地下への階段を下りた所で私は同級生の友人に出くわしました。顔見知りでも親しくない同学年でした。けれども2人とも大声で「知ってる?○○君の事?」パタパタ駆け寄ると「亡くなったんだって!」「知ってたの…」と、同じ様な声掛けと反応を繰り返したあと、地下街の入り口で声高にしゃべり始めたのです。
何だ知ってたの、ニュースの伝達者の先人よろしく嬉々として出会って話し始めた2人でした。以降話題の知識の豊富さを競うようなお喋りが続き、ふと、私は我に返りました。
『私達は同学年生の死について喋っているんだわ、人の死について喋っている、人の死は嬉々として話すことかしら?! 』
辺りを見回すと、私達に注意を向ける人はいないようでした。通る人は他人事、気にも留めていない、というより話を聞いてさえいないようでした。話を続けながら、私は辺りの商店の奥、ウィンドウの中の空間に思い至りました。
店員さんがいるわ、動かずに聞いている人々。私は最新のニュースを伝達するという興奮から同年代の死への鎮魂へと、徐々にムードを変え話題を終わらせようとしました。
が、相手のペースは衰えず益々盛んになってゆくのです。私が無理やり話を終息させようと思った時、相手は階段上に別の話し相手を見つけ沈滞気味の私をその場に置くと駆け上がっていきました。
別れの挨拶をそこそこに私はその場を離れました。いったい如何してあんな大声で同学年生の死について喋ったりしたんだろう。後悔しながら地下街を貫け、ほっとして振り返ると、背後に私の後をうけて話し始めた同級生がいました。
2人の話題の終息の早さにちょっと驚き、私が微笑んで話しかけようとすると、相手はばつが悪そうに顔を背け俯いて目を伏せ、足どりも渋り二の足を踏むような状態で、話題の嫌悪をはっきりとその表情に表していました。
元々そう親しく無い同級生、軽く会釈すると私はそのまま向き直り、歩を速め帰路を急ぎはじめました。人の死について往来で迂闊に話すべきじゃなかった…。そうはっきり感じていました。
思えば、部活の同学年生も先ほどの私のような気持ちになったのかもしれない。亡くなった生徒を知っていた者と知らなかった者の差。私の無頓着な応対が昨日の沈黙の原因だったのだと思い至りました。話題の速さに自慢げに笑顔さえ浮かべていた、私のそんな不謹慎が思いやられました。
まだ経験の浅い思春期、青春期、身近な人の訃報に触れて思うこと多々あった夏の合宿の日、今日はそんなことを思い出していました。
ちゃんとお悔やみが言える人はえらいです。