そこで紫苑さんは、
「丹精込めたバラを折る人がいるとは…。」
嫌な世の中ですねぇと、嘆息して声に出しました。その紫苑さんの声に、庭の主はちょっと面差しを和らげると、お好きな花を持っていかれるとよいですよと、手にした花切狭を彼に見せました。紫苑さんの方はいえいえと、自然に咲いている花が良いのです。こうやって散歩の途中にこの花が嬉しく咲いているのを見るのが楽しみでしてねと、遜って説明しました。
そんな紫苑さんの言動に、主の方は何だか当てが外れたような顔をしました。顎に手をやって考えたりしていましたが、やはりちょっと猜疑心に溢れた目つきをして紫苑さんを見やりました。『上手い事誤魔化して、陰でコッソリ家の花を折っているんだな。』主の目はそんな事を言っている様に見えました。紫苑さんは早々にこの場を退却する事にしました。何時もの様にのんびりと花を眺める事も無く、香りを堪能する暇もなく、失礼しますと彼に声を掛けると、足早にその場を離れたのでした。
『思えば私の花じゃないのだから。』
特に花泥棒に対して憤る事も無いのですが、その花泥棒に間違われたらしい、という事が彼の自尊心を傷つけ、他人の庭で目の保養をしていた事が後ろめたくもなっていました。これ迄、人がせっせと丹精込めた花を、こちらは気楽に眺めて心行くまで満喫していたのです。『少々図々しかったな。』案外と生真面目な紫苑さんはこう反省したりするのでした。
このような出来事があってから、紫苑さんは2度ほどこの家の前は通ったのですが、それは彼にとって、ぱったりこの家の前を通る事を止めると、いかにも自分に後ろめたい事があるようにこの庭の主に取られそうな気がしたからでした。しかし3回目になると自然彼の足はこの家の方角へ向かうのを嫌い、別の道へと入り込んで行くのでした。その内、彼は他の家の庭への花巡りもする気が起こらなくなり、日用必需品の買い物以外は図書館と、その建物がある公園内の散歩だけが日課のようになってしまいました。
「人の世は空しい物だなぁ。」
公園内のベンチに1人座ると、紫苑さんはそう溜め息を吐くのでした。