一瞬、父の瞳が驚愕し顔色が青ざめた様に私には見えた。
が、見直して見ると、私の目に父の顔は平時の状態の物に映り、彼の瞳は閉じられていた。その後彼の瞼は半分程開いたが、父は視線を下に落としていた。私は父の顔を見つめ続けていたが、彼の顔は、顔色も彼の普段の顔色になっていた。父は平常そのものに見えた。そこで私はまた見間違えたのだろうと思った。ここ迄来ると、今日は自分の感覚が誠に信じがたい、というのが正直な私の気持ちになった。
私はきょろきょろと座敷の中の2人を再度見直すと、彼等に近寄ろうと考え座敷に踏み入ろうとした。
「待て、」
父が言った。「でも、叔父さん。」と、私に背中を向けている従兄弟が言った。「まぁ、待て、何も言うな、動かないでくれ。」こう父が言い、お前そこにいてくれと言う。私は座敷の入り口で、彼のこの言葉が彼が私に言っているのか従兄弟に言っているのか判別が付かないでいた。私の座敷入り口への出現に気付いていない従兄弟にすれば尚更だろう。父のこの言葉が、自分以外の相手に掛けられているのかもしれない等、従兄弟には想像も付かないに違いない。彼は父の前でじっと静かに立った儘となった。すると父は私に一瞥をくれると廊下の方、座敷出口にもたつく足で歩み寄った。彼は開いた戸口に半ば身を乗り出すと、そこにいるらしい人物にぽそぽそと小声で何か話し始めた。
「本当だな。」
自分を納得させる様に誰かに向かってそう言うと、暫くして父は部屋の中に戻って来た。彼は怪訝そうで半信半疑技と言う様な表情をしていた。視線は従兄弟と言うより主に私に向けられていた。まぁ、そんな事もあるんだな。父は呟く様に言うとぼうっとした儘の状態になり、やはり暫くは放心状態の体となった。
相変わらず、私の目に映る父と従兄弟は共に静止状態の儘身動きせず座敷に立っていた。そこで私は2、3歩彼等に近付いた。ぼんやりとする父に変化は見られなかったが、気配を感じたのだろう、従兄弟の方は向こうを向いた儘だったが、その注意がこちらへ向けられた事が私には分かった。小さな黒い頭に、やや顔をこちら振り向けようとする動きがあったのだ。それで私は足音を忍ばせて、こっそり従兄弟の後ろから近付きわっ!と、驚かせたい衝動に駆られた。
そうっと、そうっと、と、従兄弟の背後に忍び寄った。私が従兄弟の背に手を掛けようと両手を持ち上げかけた時、ハッとした感じで父の意識が私に向けられた。彼は私と視線を合わせると、
「いつの間に、」
お前いつの間にそこ迄来たのだと、さも私に不審そうに聞いて来る。私が今だと言おうとして口を開き掛けると、「まぁ、待て、動かないでくれ。」と、父は相変わらず、待ての指示を出して来るのだった。今回は、動いているのが私1人だった事から、この彼の静止が私に向けられた物だと私は判断した。
「誰に言っているの?。」
従兄弟が父に声を掛けた。やはり彼は私の座敷への参入を勘づいていたのだと私は思った。しかし、自分の直ぐ背後まで近寄られているとは、そこ迄は思ってもいないだろうと、私は目の前の小さな黒い頭を見詰めほくそ笑んだ。
「お前に、」
と父は口にして、やや間を空けたが、「言ってもいいんだな。」と言った。曖昧なニュアンスだ。言ってもいいんだが、と、父は続けると、どっちに言ってもよい言葉だったなと言った。彼は顎に手をやり視線を落とすと、その儘無言で首を傾げ何事か考え出した。
ふと、父は視線を上げ私の方を見詰めた。お前今何をしようとしていたんだと、その彼の言葉の語尾には咎める様な調子が感じられた。何だろう、父は何か怒っている調子だと私は思った。ついドギマギとした焦燥感が私を襲った。何って?、思い当たる事柄が私の胸には浮かばないのだ。
「何をしようと思っていたんだ。」
父はその様に狼狽えた私を見て取ると自らの勢いが増した様だ。ふんとばかりに両足で座敷の畳を踏み締めすっくとばかりに背筋を伸ばした。瞳もきつい光が増して、彼はぐっとばかりに私を見据えて来る。
「言ってみろ。」