昨日の題を反対に読んでわおん。漢字で連想したのが和音でした。私はあまり音楽的な素養が無いのですが、幼少の砌(難しい漢字ですね)、オルガンを習わせられていました。今思うと、ピアノで無くて何故オルガン?、と思ってしまいます。親が習わせるので、私にすると何時の間にか訳も分からず、母に連れられで通っていたという感じでした。なので親の意図は全く分かりません。当時の流行りだったのかもしれませんね。近所の親しい子は皆同じ音楽教室に母子連れで行っていました。発表日には他所行きの晴れ着を着せられ、これは嬉しかった覚えがあります。女の子はワンピース、男の子は半ズボンのスーツに蝶ネクタイ等していて、如何にもお坊ちゃんという出立ちでした。しかし演奏練習となると、結構子供の私には厄介な習い事でした。
まず、通う内に段々と習う曲が長くなり、その練習が億劫でした。演奏に慣れれば指がそれなりに弾いてくれるのですが、新しい曲を覚える事が、幼い私には一苦労でした。それでも母の厳しい指導の元(母はオルガンは元よりピアノ等弾けません、多分。生涯彼女が演奏する姿を見た事がありません。)、翌週迄に何とか弾ける様になった新しい曲です。そうして、やって来ました教室練習日。
さぁと、オルガンの先生の声の下、皆、部屋に並んだオルガンの前で一斉に曲を奏で始めました。揃っていたのは最初のフレーズのみ、段々と合奏の音は小さくなり、教室の中、曲を奏でるオルガンは一台のみになりました。誰あろう私でした。ほーっとかへーぇーっとか、同窓の子供達の溜息が洩れていました。
そうして、その日の練習終了時、よく演奏できたね、上手だね等言われて、私は何人かの多くの子供達に取り囲まれて羨望の的になりました。この頃の子供はそう競争心が無いようです。へん!とか、ふん!とか、私はパッシングを受けた覚えがありません。中には初めて話をする子、顔を見る子もいて、私には新鮮な驚きでした。私の習い事はオルガンが初めてでした。
その時の私は面映い気持ちでした。見知らない子から褒められて恥ずかしかったのと、他の子より抜きん出た演奏が自分1人だった事実に恐れ慄く気持ちが入り混じり、晴れやかな気分など到底持てず、只々謙遜する気分で一杯になっていました。
それ迄の私の一週間の自宅練習は泣きの連続でした。実際、私が出来無いと言うと、いや出来る、と怖い顔で言う母。そうして、むくれて弾く手を止めた私の頬は、パシパシとビンタの応酬に合ったのでした。その結果、オルガンの前でワーンと大泣きする私。と、この何度かの繰り返しの後に、私はその日の立派なオルガン演奏に漕ぎ着けたのでした。
「泣いたんだよ、お母さんに叩かれたんだよ、泣いて練習したんだよ。」、顔を顰めて、私は皆に私の練習法を話しました。皆シーンとして潮が引くように私から離れると、母親に手を引かれ静かに帰って行きました。当然、私がこの練習法の話を皆に向けて一際大きな声で話した裏には、スパルタ指導をした母への当てつけが含まれていました。そのお陰かどうか、翌週迄母の演奏指導は笑顔そのもの、彼女の手はピクリとも動かず、その翌週も、その又翌週もと、私の演奏技術は全く進歩せずに音楽教室へ通い、卒園と共に教室も卒業。短期に終える事となった私の初の習い事となりました。和音、そういえば、3本の指で同時に抑える和音を幾つか習いました。演奏の時、左手で右手の調べに合わせて鳴らす、そんな初歩的な曲を演奏しましたね。