その年の梅雨時頃、近くの川が氾濫しました。
おかげで床下浸水、床上浸水などの言葉をよく耳にしました。
私にはこの出来事で目にした人々の苦悩や嘆きが、はっきりとした重鎮となって胸に残り、
悲惨な災害の記憶としてこの言葉を覚えようと思い、事実そうしたものです。
この時 、登園仲間のお友達の家も床上浸水して酷い事になりました。
暫くは掃除して綺麗にして暮らしていましたが、その内、やはり住みたくないからと引っ越して行きました。
私にとっては身近な人の危難を見た最初の出来事でした。気の毒な話に同情して余りあるものがありました。
心配で暫く通っていると、友人宅の生活が大変そうなので、
我が家で泊めてあげたらとか、お見舞いを出してあげて欲しいと大人に訴えたり、
果ては幼児の僅かな貯金を持ってお見舞いに行ったりしました。
この頃の私のお小遣いは1日5円でした。1ヶ月貯めても150円程です。
もちろん何の足しにもならないので、友達の家の人にすると返って迷惑だった事でしょう。
それでも、園での昼食用のパンが20円~50円程で買えましたから、パン3~7個になったかもしれません。
さて、災害です。その日の雨はどしゃどしゃと大ぶりの雨粒が降り注ぎ、
終始物凄い雨音と屋根に当たる水の衝撃の連続が、果てるとも無く続いていました。
私はこの天候に心穏やかではいられませんでした。
庭を見ると、見る見る水位が増して、10センチ、20センチと溢れ返って行きます。
その年の梅雨は、既に何度かこんな土砂降りの日がありました。
が、私は水嵩を見ている内に何時もと様子が違う事に気付きました。
「お水だお水だ、一杯あってお風呂みたい。海みたい。」
いつも私が面白がって囃し立てて眺める庭の水位とは違い、
どんどん水は高さが増して行くのです。
以前父から聞いていた、幾ら水に浸かっても、水が来るのはあの辺りまで、
後は雨も止んで引いていくから大丈夫だという目印ももう超えたのに、
雨は止まず、水もどんどん増えていくばかりなのです。
幼い子供心にも、これは、何だか大変な事なのではないかと感じました。
そう思いながら見守る内にも、水高は益々増すばかり、
どんどん増えて止まる気配が無く、当然引いていく様子もありません。
私は居ても立っても居られ無くなり、
このままだと家が水に浸かるんじゃないかと気が気でならなくなりました。
父や祖母に庭の異常な水位を報告して、大変大変と1人で騒いでいました。
父は笑顔で大丈夫だと言いましたが、祖母はそんなに言うならと、私に付き合って庭を眺めに来てくれました。
「これは、本当にちょっとおかしい。」
と、祖母もその庭の水位に血相を変えて祖父に知らせに行き、
やはりいつもと様子が違うと訴えました。
最初、祖父も父に合わせて笑顔で応対し、女子供は大げさなと、半ば半信半疑で縁側まで来ましたが、
その頃はもう縁側の戸口のある土間にまで雨水が侵入し、10㎝ほどの高さに水が溜まって来ていました。
それを一目見て、私と祖父母3人は縁でしーんとしてしまいました。
縁側の降り石も雨に浸り、このままではそう遠くない内に水に沈みそうです。
さっき祖母と見た時にはこんな所に水が無かったというと、祖父は祖母に確認して、
水の増す速さに信じられない様子でした、が、やはり余程の事っだったのでしょう。
祖父も何処かへ問い合わせた方がよいと判断したようでした。
急いで、おいおいと父の名を呼んで、縁側まで来るよう呼びつけました。
父はやってくると、祖父母と孫が寄り集まって血相を変えている姿に呆れて、
何だいこれはと言って相変わらず暢気なものでした。
土間に侵入した水を見ると、一瞬、何だいこりゃぁ、と、顔を曇らせましたが、
直ぐに、父さんまで子供のいう事を真に受けてと、あくまで朗らかでした。
祖父は流石に眉間にしわを寄せて父に何か意見をしていました。
おまえ、それじゃあ、こんな所に水が来たのを今まで見たことがあるというのか。
おかしいと思わないのか。そんな事を言っていたように思います。
その後、少ししてどこから情報が入ったのか、
「○○川が氾濫したそうだ。堤防の上まで水がついて、あっちの方は家も水に浸かっていてまだまだ水が溢れているそうだ。」
と、これは大変だ、見に行って来なくてはと、
父と祖父は降りしきる雨の中を雨合羽に長靴を履いて出かける準備です。
祖母は危ないからと祖父を引き止めていましたが、
祖父にすると如何も父の事が心配だったようです。
1人でやる訳にもいかないだろうと、2人で出かけて行きました。
2人を雨の中に見送った後、程無くして後を追うように祖母と母と私も見に行く事になりました。
長靴に傘をさして歩き出すと、アスファルトの道路は軽く水が溜まり流れていましたが、
徐々に水嵩はまして、長靴の沈みこむ深さは増していきました。
家から10メートルの所で祖母は年寄りの足にはもう無理だからと、1人リタイアして家に戻って行きました。
母と私は先に進み、溢れたという川の方向へ角を曲がり、
次の角に差し掛かった所でLさんと彼女のお母さんの2人連れに出会いました。
「あ、Junちゃん。」
向こうも気付いて声をかけてくれます。
「行かない方がいいよ、酷いのになっているから。」
と、Lさんは見ない方がいい、行かない方がいいと繰り返していました。
Junちゃんは見ない方がいいよ。本とに酷いのになっているから、と、
最後にもう一度行かない方がいいよと私を振り返って見ながら、
彼女はお母さんに連れられて行ってしまいました。
私は神妙な顔つきをしていたと思います。
如何しよう、Lさんがああ言うからには行かない方がいいなと思います。
帰ろうかと踵を返すと、母が帰るのかと聞きます。
そうよ、だってLちゃんが見ない方がいい、行かない方がいいって言ってたじゃないの。
私はLさんの忠告に素直に従う気でいました。