タイトルのセリフは、この「予告編」では出てきませんが、その場に導く宮本信子扮する絹代の赤ん坊を背負った姿は見られます。
いつも使わさせてもらっている佐藤利明さんの『みんなの寅さん』ではその場面に向けてこう書かれています。
長崎の大波止の船着き場で、赤ん坊を背負って呆然としている絹代(宮本信子)に優しく話しかけ、宿賃を持たぬ彼女の面倒をみます。
(略)
寅さんの親切に、ほっとしたのか、息せき切ったように話をする絹代の姿に、彼女が過ごしてきた修羅の日々が見えてきます。やがて絹代は気まずそうに、子供の横で服を脱ぎはじめて「金ば借りて、何もお礼ができんし、子供がおるけん、電気は消してください」。この時の寅さんの表情について、山田洋次監督のシナリオには「哀れみとも、憤りともつかぬ、やりきれぬものがこみ上げて来る」と書いてあります。
「俺の故郷にな、ちょうどあんたと同じ年頃の妹がいるんだよ。もし、もしもだよ、その妹がゆきずりの旅の男にたかだか二千円ぐれえの宿賃でよ、その男がもし妹の身体をなんとかしてえなんて気持ちを起こしたとしたら、俺はその男を殺すよ。」
明日のテレビではこの場面を注視しようと思います。
最初に山田監督の話の紹介から、
「(第4作のあと会社として)もう一本どうしてもやりたいってことになった時に、その三作、四作、監督が違うと、不思議なもんで、いい悪いじゃなくてねえ、同じキャスティングで僕が脚本書いて、同じ衣裳を着て出るんだけども、不思議なもんで監督が変わると、ぜんぜん色合いが変わってきちゃうわけですね。だから、もう一回僕の、僕の味付けで、僕の好き色合いに映画を作ってお仕舞いにしたいと、だから第五作は、「じゃ僕が撮る」って言って、~『望郷篇』っていう作品を作ったんです。」
(kaeruの発言=確かに違う監督の第三作は見終わって違和感があった、第四作はそうでもなかったが)
これは聞き手の佐藤さん
「そうしますと『望郷篇』は山田監督の中で『完結編』として取り組んだ作品ですね。」
山田「そうです、そうです。」
佐藤「で、そこにテレビ版のおばちゃん役の杉山とく子さん、櫻役の長山藍子さん、博士役の井川比佐志さんと‥‥‥」
山田「そうそうそう、長山さんが出て、井川さんが出てね。」
佐藤「それで有終の美を飾るつもりでつくることになったと。」
山田「うん、だからそういう意気込みがあるわけですよ、これでお仕舞いにすると、そういう僕の意気込みやら、渥美さんたちの意気込みやらが、こう、ひとつの力になったんじゃないかなあ、とても元気のある映画ができたんですね。そしたらこれがまた、今までを上回るヒットを遂げちゃったんで、まあ、終わるに終われなくなっちゃっていうか、今度はもう観客に押されるようにして、今さらやめるわけにはいかないっていう感じがしてきちゃってね。」
「観客に押される」 というのがこのグラフでしょう、
それまで平均約50万人だった観客数か大きく伸びたのです、この人々こそ山田洋次監督を「男はつらいよ」に引き戻した力です。
「男はつらいよ お帰り 寅さん」はこちらを、
「男はつらいよ」 を第5作まで観て、「お帰りなさい 山田洋次監督」 と思いました。
山田監督が「男はつらいよ」 を撮りやめると考えたことが二回あり、一度目は実際にやめました。それはテレビ番組としての「寅さん」時代、26回続いた最終回で寅さんを死なせてしまったからです。
フジテレビで1968年10月3日に始まったテレビ版「男はつらいよ」は最初はなかなか苦戦していたようです。視聴率3とか4%、テレビ会社からは苦言――これじゃ困るからああしろこうしろ、テキ屋はまずいからもっといい職業にとか――。
そのうち、段々視聴率が上がって、13回の約束を、もう1ク―ル、26回までと。ずっと視聴率が上がり、またもう1回やることになりそう‥‥と山田監督は思ったのですね。
(この辺のことは佐藤利明さんの『みんなの寅さん』を中心にして書いています。
その頃の山田監督の考えは)、
ぼくは、寅さんのような人間が現代に実は生きていれるっていうのはドラマの上であって、実際はこの現代って言うのはそんなことが許される時代じゃないんです‥‥‥。
それで26回目寅さんは一儲けを企みハブ捕りに奄美大島に出かけ、ハブにかまれて死んでしまいます。
ところが山田監督の「偉そうな」言葉を大きく乗り越えテレビ局が総攻撃されます。
こんな風に――「あんな終わり方はひどい」「バカヤロー!よくも寅を殺したな」「お前の局の競馬中継なんか見ねえぞ」――等々。
こうなると山田監督は反省するしかないわけです。
これは失敗したなぁ、と。
ここからは本の49ページの上段、
佐藤 その段階で視聴者の方々、出演者の方々の中に「男はつらいよ」「寅さん」っていうのが、それぞれの中で生まれていたっていうことなんですね。
山田 そうなんだね、だから、みんなが寅さんをそんなふうに抱いてくれていた、そして愛してくれていた。それで今度は、寅はああするだろうこうするだろうと想像を描いて楽しみでドラマを観てくれていたのに、突然作者が出てきて、「はい、死にます」って殺しちゃう。それはね、やるべきことじゃないってことがね、反響とか手紙とか、それで、ぼくは知らされちゃったねぇ。
この「反省」が映画「男はつらいよ」につながるのです、とはいえもう一度山田監督は「男はつらいよ」の「終わり」を考えたのです。それは「男はつらいよ 望郷篇」の配役に表れているのです。
そのことは明日にします。
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選挙ポスターで「共産の手から守ります」はアリなのか?(相澤冬樹) - Yahoo!ニュース
大阪に関係する用件で東京・目黒区を訪れた私は区長選挙のポスターに強い違和感を感じた。現職候補が「何としても共産の手から守ります」と書いている...
Yahoo!ニュース 個人
〈この方は、自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる。総理になって何年も経つのに、この方は全国民のために選ばれた職にある自覚は持ち合わせない、遺憾ながら。〉
2017年夏の都議会議員選挙最終日で総理大臣の肩書きで登場した安倍氏の演説を思い起こしました。〈〉内は「小泉内閣の総理秘書官だった小野次郎・元参議院議員」の言葉としてこちらで紹介されています。
こちらをクリックしてください、ポスターとか予告編が観れます。
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第3作 男はつらいよ フーテンの寅| 松竹株式会社
柴又に帰って来た寅さんを待ち受けていたのは、見合い話だった。相手は川千屋の仲居・駒子(春川ますみ)。彼女は寅さんの昔なじみで、亭主持ちという...
『男はつらいよ』公式サイト | 松竹株式会社
そして予告編に「何処へ行くのか此の瘋癲」とあるようにフ―テンは瘋癲なのですが、風天と書かれることもあります。風天は渥美清さんが俳号として付けていたものです。
田所康雄・渥美清・車寅次郎、ひとりの人の三つの名前、それぞれの立場役割によって瘋癲・フ―テン・風天がその場その場に表れます。今夜の第3作にはこの三者がどう現れるのか、楽しみです。
ここをクリックしてください、
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第2作 続 男はつらいよ| 松竹株式会社
一年ぶりに帰郷した寅さんは、葛飾商業の恩師・坪内散歩(東野英治郎)と、その娘・夏子(佐藤オリエ)と懐かしい再会を果す。酒を酌み交わしたものの...
『男はつらいよ』公式サイト | 松竹株式会社
「いつか先生がうめえこと言ったね、人生は一人旅だって。この俺なんざ本当の一人旅だよ。さんざぱら親不孝した挙げ句の果てだから仕方ねえって言えばそんだけだがね。そいでも時々夜中になると溜息が出るんだよ。男はつらいよね。先生、本当につらいよ。」
これは映画「続男はつらいよ」ではなくテレビ版の最終回の冒頭のシ―ンだそうです(佐藤利明著『みんなの寅さん』)。
映画「男はつらいよ」は寅さんの一人旅物語ではありますが、独り肩をつぼめて行く旅姿ではありません。道連れを失っても次の道連れへの期待が消えることなく、また常に「東京は葛飾柴又」が戻る在所であり、同時にそこは袖振れ会った一人旅の者にも訪ねることをすすめる所です。
第2作「続男はつらいよ」は、生みの母親に会い喧嘩別れの末の失意の姿が描かれます。しかしそれで終わらないのが寅さんワ―ルドです。
映画の最終場面をシナリオをもとに見てみましょう。
場面は京都、とは言っても幻の母親への期待を裏切られた街なかではなく鴨川は三条の橋近く、医師藤村と新婚旅行で京都を訪れていた夏子が、橋のたもとを見てギョとします。
露天の靴屋にいるのは寅さんに間違いなく、そして「寅!」の大声はいつかのラブホテルで会ったお菊さん――寅さんの母親です
「もういくで」
「うん、こまかいのちょっとくれよ、ほらほら」
「あつかましいなもう、何べんも何べんも、この子は」
「いいじゃないかよ、親子の間柄でよ、ほら」
「勝手なこというな、金の話はまた別じゃ」
スタスタと行く
「シミッタレてやんな全く‥‥‥よオ、お母ちゃん」
と、あわてて追いかける。
寅、橋の上でお菊と何やら大声でわめきながら歩いてゆく。
知らぬ人が見れば、やり手婆アと用心棒が肩を並べてあるいているとしか見えぬ光景だが、夏子には胸につきささる強い感動をもってせまるのである。
山田監督の「あとがき」です、「1972年 晩秋 男はつらいよ第十作「寅次郎夢枕」の脚本執筆中‥‥」と記されています。
書き出しは、
「男はつらいよ」の第1回の脚本を書き始めたのは、思いかえせば三年前の春、桜のつぼみがほころびる頃でした。
この映画のトップシ―ンは、江戸川に散る桜吹雪から始めようと思いたち、それじゃあ、桜の花の咲いているうちに実景だけでも撮りに行こうと、あわててカメラを持って江戸川の堤に駆けつけました。
ところが江戸川の堤には桜は一本も無かった!水元公園にある、というのでそこへ向かい一日かかりで撮影したそうです。
当時、テレビドラマ「男はつらいよ」の映画化に、会社はあまり乗気ではなく、桜の実景を撮るにあたっても、何度も頭を下げてお願いしなければ実現しなかったものです。
思えばその頃、この作品がシリーズになって早くも十本目を準備している現在のこの日があろうとは、夢にも思わなかったものです。
~
葛飾柴又という現実の土地の名を借りた、架空の世界、つまり、ぼくら日本人が、今日あこがれてやまない心のふるさとでしょうか――。
現実にふるさとを見出せないことは、ふしあわせなことです。ぼくらは、まさにふしあわせな時代に生きています。右をみても、左をみても、いやなこと、腹の立つことばかりです。
そんな中で、ぼくらがこの映画をつくるのも、観客と共にしばし、幻のふるさとの夢と抱きあうことを願っているのでしょう。しかし、願うだけにとどまるのであってはならないと思うのです。
ぼくらはいつか、幻ではなく、現実のこの日本にふるさとをつくらなければならないことまでをも、観客と共に語りあいたいからです。
ああそうだったのだのか、この映画に引きつけられるのは、ふるさとづくりに参加しようとの声が聞こえたからなのです。
第1作の一コマ