「『命どぅ宝』かながわ委員会」
準備会に顔を出して来ました。
呼びかけ人の小堀諭さんは「4区市民連合」の事務局長、それに今日はじめてお会いした森詠さんが葉山町在の作家であってみれば顔を出すのが必然です。そしてこの企画が沖縄と私を結びつけ、その絆で孫たちとの繋がりの意味をいっそう深く受け止めさせてくれる、と気づかせてくれました。
「小室等と森詠の音楽トーク・ライブ&緒方修の映像で語る琉球危機レポート」の会については追々「つぶやき」ますので、今日は森詠さんのこの一文をアップしてオヤスミなさい。
なぜ、私は戦争小説を書いてきたのか?
森 詠
一、私の戦争小説
私は、これまでたくさんの「戦争小説」を書いてきた。あるいは、戦争や戦場にまつわる人間の物語やサスペンス、青春冒険小説である。私の小説のテーマは「戦争と人間」である。
なぜ、私は戦争小説を書くようになったのか? その理由の一つは、私が若いころ、中東をはじめとする世界各地の戦場の取材をしているうちに、ノンフィクションでは伝えきれない真実がある、と気付いたからだった。
第二の理由としては、戦場の悲惨な現実を見るうちに、私はシェルショックではないが、心に少なからぬダメージを受けていた。忘れたくても、忘れることが出来ない悲劇や残酷過ぎる事実がトラウマになっていたのだ。
ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まり、テレビ報道でかつて訪れたことがある街並みがミサイル攻撃や砲爆撃で破壊され、瓦礫と化すのを見ると、私はレバノンやシリアの戦場のトラウマが甦り、落ち着かなくなった。
テレビの映像で見るウクライナのビルや建物は、レバノンの海岸に建ち並ぶビルとそっくりなのだ。レバノン内戦やイスラエルのレバノン侵攻で、ベイルートのビル街は砲爆撃やロケット弾、ミサイル攻撃で崩壊したり、半壊した。その街の様子がほぼ同じに見えるのだ。
ウクライナの個人の家屋は、レバノン人の家屋によく似ている。石造りの白い家が多く、赤みがかった屋根瓦を戴く、地中海風な建物が多い。テレビの映像では、そうした家屋が砲撃を受け、無残にも崩落している。私にとって、それはレバノンやシリア、パレスチナ領のガザ地区やヨルダン河西岸で見た風景とそっくりだった。
私はウクライナを二度訪れている。一度目は、ソ連作家同盟の招待で、モスクワ、当時のレニングラード(現在のサンクトベテルブルク)、クリミヤ半島を巡った。三好徹さんを団長とし、眉村卓さんと私の三人からなる日本文芸家協会の代表団だった。
二回目は、チェルノブイリ原発事故直後のウクライナを取材するため、私は担当編集者と二人で訪れた。事故を起こしたチェルノブイリ原発はまだ石棺で覆われておらず、あまりに放射能の線量が高いので、近くまでは行けなかった。報じられていないが、いまもチェルノブイリ周辺の放射線量は福島原発周辺同様に、高いはずだ。
キエフからの帰りに港町オデッサに巡り、いまの激戦地のヘルソン州を車で走った。ちょうど小麦の刈り入れが始まる時期で、丘陵一面、金色の麦穂が風に吹かれて波打っていた。その光景が目に焼き付いている。
あの美しいウクライナの大地が、レバノンやシリアと同じように戦禍に塗れているのかと思うと胸が痛む。
ニ、砲撃の下で考えた
どうして人は、同じような歴史を何度も繰り返えすのだろうか。
私はレバノン南部の海岸の丘陵にあるラシャデア難民キャンプを取材で訪れていた時、夜中に初めて砲撃を体験した。キャンプの沖合に回遊したイスラエル海軍の砲艦からの艦砲射撃だった。難民キャンプの住民が、寝床に着く時間帯に、無警告無差別の砲撃だった。
砲撃の場合は、砲弾の風を切る音が響くので、慣れれば、あれは155ミリ砲弾だとか、120ミリ砲弾だとか判断がつく。その音から、至近弾か、やや外れたところに落ちるか、おおよそ見当がつく。
艦砲射撃の場合は、いきなり隣で爆発が起こり、初めて砲撃されたのが分かる。やや遅れて沖合の軍艦から砲声が聞こえてくる。艦砲射撃の砲弾は近距離だと、ほぼ水平に飛ぶからだ。
何発もの着弾があり、キャンプ内は大騒ぎになった。キャンプには防空壕がいくつもあり、住民たちは急いで近くの防空壕に避難する。私も看護師とともに爆発に追われるようにして、キャンプの診療所の小さな建物の地下室に逃げ込んだ。
地下室の中はほぼ真っ暗。蝋燭の明かりが一本、揺らめいていた。暗闇の中に近所の老人や母親、子どもたちが肩を寄せ合っていた。
地下室は頑丈な造りではない。階上の診療所は一応コンクリート造りだが、どの位鉄筋が入った壁や床なのかは分からない。近所の煉瓦や石造りの掘っ立て小屋に比べて、まだましという程度の建物だ。
近くに砲弾が落ちる度に、天井からぱらぱらと細かな破片や砂が落ちてくる。もし、診療所の建物が直撃されれば、地下室も無事では済まない。天井が潰れ落ち、私たちは生き埋めになる。
キャンプには電線が引かれていたが、レバノンの発電所や変電所などの施設が空爆撃で破壊されていたので、電気は通じず、自家発電しかなかった。その自家発電装置も、度重なる砲爆撃のため、かなり破壊されていたので、診療所や学校などの施設以外は、ほぼ停電になっていた。
地下室の明かりは蝋燭の火だけが頼りだった。揺らめく蝋燭の火を囲んで、子どもや母親たちは互いの手を握り合い、肩を寄せ合って、息をひそめていていた。子どもも母親も砲撃の恐怖で顔が引きつっていた。
それでも、母親たちは子どもたちを元気付け、自分たち自身も元気付けようと、声をあわせて歌を唄いはじめた。私には歌詞の意味が分からなかったが、看護師の女性によると、いつかみんなで故郷パレスチナに戻ろうという歌だといった。白い牛乳が流れ、撓わにオリーブが生る、美しい故郷パレスチナ。パレスチナへの望郷の歌だ。
哀調を帯びた歌を聞きながら、私は日本にいる連れ合いや子どものことを思った。もしかして、ここで自分は死ぬかも知れない、そう思うと居ても立ってもいられなくなる。日頃、あまり実感していなかった死が、地下室から階段を上がった戸の外に、でんと控えているのだ。
私が恐怖に慄いているのに気付いたのか、傍にいた十歳ほどの女の子が暗がりの中、手を私の手に重ねて握ってくれた。柔らかくてほんのりと温かい小さな手だった。
なんて自分は情けない大人なのだ! 大の大人の自分が、幼子に励まされている。私は気を取り直した。背筋を伸ばし、歌の音律に合わせ、どら声で子どもたちの合唱に加わった。
その間も砲弾は遠く近く、夜陰を切り裂いて、容赦なく着弾する。その爆発音はおどろおどろしく轟き、鈍く重い地響きが地下室の壁や天井を震わせた。至近弾の場合は、コンクリートの壁がみしみしと呻き、空気がびりびりと震えた。蝋燭の炎が何度も吹き消されるように揺れた。
こうして書いているいまも思い出すと、掌に汗が滲んで来る。背筋に冷たい汗が吹き出してくる。
パレスチナ難民やシリア難民、いまのウクライナの人々も、こうした暗い地下室や地下壕で、砲声に怯え、砲爆撃に恐怖している。そう思うと、なんとしてもウクライナ人やパレスチナ人、シリア人に声援を送りたくなる。
砲撃の終わりは唐突にやって来た。砲撃がぱたりと止み、急にあたりが恐ろしいほど静寂になった。艦砲射撃はかなり長く続いたように思ったが、腕時計を見ると、せいぜい十五分か二十分ぐらいだったろう。
私は立ち上がり、すぐにも外に出ようとした。母親や子どもたちが私の手を掴んで、まだ動いてはだめだといった。
砲爆撃の終わったからといって安心できない。今度はヘリやボートを使って、特殊部隊が難民キャンプに乗り込んで来ることがある、というのだ。
キャンプにはパレスチナ人コマンドの防衛隊がいるにはいる。だが、彼らは自動小銃や機関銃などの小火器しか持っていない。圧倒的な火力を誇るイスラエル軍を追い返す力はない。
イスラエルは、アメリカや欧州列強から無尽蔵な支援を受け、攻撃ヘリから戦車、ジェット戦闘機、ミサイルといった近代兵器を備えている。
対するパレスチナ人の唯一の強力な武器は、故郷パレスチナに帰るという堅い意志である。
イスラエル軍特殊部隊は、パレスチナ難民キャンプの戦闘員や老人を捕まえ拉致していく。捕虜を連れ帰り、厳しく尋問する。拷問にかけてでも情報を聞き出す。拉致されて生きて帰った者はほとんどいない。生きている者は、政治犯とか捕虜として、イスラエルの刑務所に入れられる。
ウクライナに侵攻したロシア軍も、占領地の住民を捕らえて、拷問にかけ、何十何百人も殺しているが、これはたいてい情報を聞き出すためだ。戦争になれば、ロシアだけでなく、どの国もやることだ。だからといって、ロシア軍の戦争犯罪が許されるわけではないが。
幸いなことに、その夜のイスラエル軍の攻撃は砲撃だけで終わった。沖合の砲艦は、いつの間にか引き揚げて行った。私はようやく地下室から出て、砲撃の惨状に息を飲んだ。
キャンプの建物は、ほとんどが石や煉瓦を積み重ねた掘っ立て小屋なのだが、周囲の何軒もの小屋が瓦礫と化していた。そのうちの一つの小屋は直撃を受け、寝ていた老人が爆発でばらばらになっていた。赤新月社の救護員や戦闘員たちが遺体の腕や脚、散々になった血に塗れた肉片を拾い集めていた。
ほかにも逃げ遅れた親子が犠牲になっていた。地べたに横たわった、四、五才の男の子は両脚を付け根から吹き飛ばされていた。幼子の遺体の周りで、家族らしい人たちが、天を仰ぎ、泣き叫んでいた。
遺族の一人は、記者の私がいるの知ると、ぜひ、この子の遺体を写真に撮れといってきかなかった。
私はカメラは持っていたが、まだ夜明け前で暗すぎ、フラッシュを焚かなければ写真は撮れない。そのフラッシュも持っていなかった。昼間のうちに、カメラの中のフィルムは撮り終えていた。
男の子の父親は、私の腕を掴み、「こんな幼子が、イスラエルに何をしたというのだ? やつらは子どもの命を奪い、パレスチナ人を根絶やしにしようとしている。この子の姿を写真に撮り、世界の人たちに報せてくれ」と叫んでいた。
私は父親の悲しみや怒りを少しでも和らげることが出来るならと、フィルムが終わっているカメラを幼子の遺体に向け、何度もシャッターを切った。虚しいシャッター音が響いた。私は心のフィルムにしっかりと幼子の顔を焼き付けた。幼子の眠るようなあどけない顔は、目の奥にトラウマとなって残り、いまも消えそうにない。
三、あるコマンドの死
内陸部のナバティエの町では、ロケット弾の攻撃に遭遇した。その時に見た光景を忘れることが出来ない。
私は一人のパレスチナ人コマンドの若者を捕まえ、インタビューした。二十歳そこそこなのに歴戦の戦士で、溌剌とした元気のいい若者だった。私は木陰で紅茶を飲みながら、彼の生い立ちからいままでの話を聞きながら、談笑していた。
インタビューが終わると、彼は立ち上がり、私に手を上げ、「またな」と笑いながら、近くの広場に歩いて行った。彼の後姿が広場の樹木の陰に消えた瞬間、広場で猛烈な爆発が起こった。山越えに飛んできたロケット弾が着弾したのだ。私はちょうど駐車していた車に乗り込もうとしていたので、からくも爆風を避けた。
白い爆煙が納まった広場を見ると、大勢が負傷して転がっている。その中に上半身だけの血だらけの彼が見えた。一目で死んでいると分かる。ほかにも広場では何人もの死傷者が出ていた。茫然としていた私は車の運転手に腕を引かれ、我に返った。
運転手は、ここに居ては危ない、またロケット弾が飛んでくると怒鳴り、私を車に押し込んだ。運転手は乗り込むと同時に、車を発進させ、猛スピードで走り出した。
心残りだったが、私は車の中から、彼の遺体に拝むことしか出来なかった。町の外に走り出た車の中で、私は必死に考えた。
なぜ、彼が死に、私は助かったのか。もし、私が彼と一緒に広場に出ていたら、私も死んでいたかも知れない。私は爆死した彼には済まないと思ったが、一方で自分は生きている、という喜びに心が震えていた。
パレスチナ戦争だけでなく、その後も、レバノン内戦、北アフリカや西サハラの戦地、クルド族の地域、イランイラク戦争、湾岸戦争など、いろいろな戦地や戦場を巡り、私はいやというほど死屍累々の惨状を目にして来た。しかし、努めて平静を装い、己れの心を閉ざし、無神経になろうとした。それらは、すべてトラウマとなって折々に私を苛んだ。
私はおそらく心理学でいう「モラル・インジュエリー(道徳的な心の傷)」を受けていたのだと思う。人を助けることができないという無力感と罪悪感である。
戦場で体験した実相は、思い出すだけで、悲しみや怒り、やりきれなさといった感情が沸き上り、まともなルポが書けない。もし、書いても、どこかに主観や感情が入り、嘘が混じって、ちゃんとしたノンフィクション作品にはならない。
戦争の惨状を報道として書くには限界がある。いくら戦争の実態はこんなに酷い、こんなに非人道的で犯罪的だと書きつらねても、だから、絶対に戦争はしない方がいい、と真摯に訴えても、なかなか読み手の人々の心に響くことはない。
むしろ、フィクションの方が人の感情を揺り動かし、戦争の悪を訴えやすい。嘘で真実を語る。私は、そこでフィクションの道を選ぶようになったのだ。
開高健がノンフィクション『ベトナム戦記』を書いた後、なぜ、小説『輝ける闇』を書いたのか。私なりに開高健の気持ちが分かる。
開高健は、サイゴンで公開処刑を見て、深いトラウマを抱えた。開高は、己れの陥った状態を滅形といった。警察長官が拳銃でベトコンの少年の頭を撃って殺すのを見たのだ。ショックを受けて当然である。同じ光景を、当時読売の記者だった日野啓三も目撃し、心に深い傷を持った。
開高健も日野啓三も、そうしたトラウマを抱えながら、小説を書き続けた。
戦場を巡るうちに、私はこう考えた。
虚構こそが戦争の実相や人間の真実を語ることが出来る。虚構は世界を、人間を変える力を持っている、と。
大岡昇平の『野火』『俘虜記』は戦場体験がなければ書けない小説だ。大岡が実録ではなく、小説にしたのは、どこかに虚構が入っているからだ。その虚構が事実をさらに真実に高めている。
四、五味川純平の小説を踏襲して
開高健や日野啓三は、虚構によって、人間の内奥に迫る純文学を書いたが、私は純文学とは違う方法を選んだ。五味川純平である。五味川は実体験をもとに、純文学ではなく、普通の小説、大衆小説として、虚構の物語『人間の条件』を書き、現代史と、そこに生きる人間たちを描いた。
五味川は『人間の条件』で、日本帝国の傀儡国家満州の大地を舞台に、あくまで人間の良心に従って生きようとし、死んでいった一人の日本人の運命を描いた。主人公の梶上等兵は、五味川の分身だったのに違いない。
五味川は五味川純平集『人間の条件』(河出書房新社)のまえがきにこう書いている。
「歴史の事実はフィクションよりも遥に複雑で、ドラマチックである。それはそのわけなのだ、無数の人間が長い時間をかけて繰り成す壮大な社会劇なのだから、そういう歴史を前にしては、虚構という手法に拠らなければ、とても真実の門口に近づくことが出来るものではない」
さらに、五味川は、こうも続ける。
「ところで、何を書くにしても、それが物語であるならば、面白くなければならない、という観念から私は離れられないーー面白く書けたかどうかは別にしてーー。私がここで云う面白さは、練達の文学者達からは『通俗』だと誹謗されそうな面白さである。もし大衆の健康な欲望が求め、親しみ易いと感ずる面白さがそういうところにあるのだとしたら、私はそれを探したい。それが追随主義になるかならないかは、面白さのせいではなくて、主題の質の問題である。」
私は大学先輩の五味川純平に組みしようと思った。「通俗」を恐れず、「通俗」に堕すことなく、物語で人間と戦争を書いで行く。
五味川の小説は実際の戦争体験をもとにしなければ書けないリアルな内容だった。私は五味川のような軍隊の体験はないが、戦場を駈けずり回り、戦争の生の実相を見てきた。戦後世代で近代戦争を体験した人間はそう多くはない。私が近代戦争の体験者として、リアルな戦争を書かないで、いったい誰が書けるというのか。
頭の中だけで考えて書く戦争小説は、やはり頭でっかちの虚像の戦争である。そうした「仮想戦記」やゲーム感覚の「戦争ノベル」は、正直いって読むに耐えない。
私は現代史に伴走し、過去になった歴史ではなく、五味川とは逆のベクトル、これから始まる近未来の現代史に時制を定め、国家や戦争に翻弄される人間を描こうと考えた。これが私のめざしてきた「戦争小説」なのだ。
じつは「戦争小説」だけでない。私の冒険小説、ミステリー、ハードボイルド、警察小説なども、同じ発想に基づいている。
私はフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』を読んで、衝撃を受けた。フォーサイスは、現代史の闇を虚構によって切り開き、読みごたえのあるミステリーに仕立てあげていた。『ジャッカルの日』は、フランスのド・ゴール大統領暗殺未遂事件をミステリヤスに描いているし、『オデッサ・ファイル』は第二次大戦後、ドイツから中東や南米に逃亡したナチ戦犯たちを追跡するミステリーだ。
さらに、米ソ冷戦下、秘密裏に国家と国家が激しく諜報合戦を繰りひろげている現実を虚構によって明らかにする、ジョン・ル・カレ、グレアム・グリーン、ジョン・ガードナーたちのスパイ小説に目を開かされた。
第二次大戦下、人間としての誇りや名誉を持った気位の高い男たちを描いたギャビン・ライアル、ジャック・ヒギンズたちからも、私は刺戟を受けた。
そして思い出したのが、若い頃に読み耽ったアーネスト・ヘミングウエイやジョージ・オーウエルだった。
ヘミングウエイの『誰が為に鐘は鳴る』はスペイン内戦に共和国側の義勇兵となった経験を基にした物語だった。『武器よ、さらば』は第一次世界大戦に参戦した経験を基にして書いた小説だった。
ヘミングウエイの小説は、決して純文学ではなく、普通の小説である。私は若いころ、ヘミングウエイの『誰が為に鐘は鳴る』の映画を見、小説を読んで、スペイン内戦の史実を知った。スペイン共和国が、フランコ率いるファッシスト反乱軍に潰されたのを知り、私は義憤を覚えた。
オーウエルの『カタロニア讃歌』は、スペインに誕生した共和国への讃歌であり、レクイエムだった。彼の『動物農場』は、スターリニズムを揶揄する寓話であり、『一九八四』は現代の超管理社会、専制主義国家に対するデストピアを予言的に描いた小説だった。
私は、こうしたヘミングウエイやオーウエルの小説のような作品を書こうと考えた。私の『夏の旅人』『冬の翼』『午後の砲声』などの作品は、そういう思いを以て書いた小説だった。
ヘミングウエイだけでなく、その後に続くハードボイルド作家たちにも、私は影響を受けている。ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロバート・B・パーカーといった作家たちである。私は彼らの作品だけでなく、社会の不正義や不条理に敢然と立ち向かう生き方に共感した。彼らの描く私立探偵は、いずれも戦争という大きな不条理な影を背負っている。
こうした作家たちの作品に刺戟され、私は、私にしか書けない、私の戦争小説、ミステリー、警察小説を書いてきた。
私の警察小説『横浜狼犬』シリーズの主人公である海道章刑事は、日本人と朝鮮人の混血児であり、日本と半島がらみの重い歴史を背負っている。扱う事件も、かつて日本帝国が侵略した大陸や半島に絡んでの事件だ。
警察小説『彷徨う警官』シリーズもただの刑事ものではない。第三部『総監特命』では、朝日新聞神戸支局を襲撃し、記者一人を射殺、一人に重傷を負わせた事件を題材にし、犯人の赤報隊の正体を推理し、事件の背後に「原発複合体」が潜んでいるのではないか、ということを書いた作品だ。
現代史の政治や犯罪や闇の事件を、虚構のメスによって切り開き、隠されている真実を明らかにするという試みである。それも面白い物語の小説として。これが私の小説やハードボイルド、警察小説である。
五、主題は、戦争と人間
くりかえしになるが、私はこれまで「戦争と人間」をテーマにして、数多くの戦争小説を書いてきた。
私の作品は、戦場での体験を基にしたリアルさに満ちていると自負している。
だが、出版社の編集者は広く売るために、私の戦争小説を「近未来シミュレーション小説」とか「仮想戦記」とか「ポリティカル・フィクション」とか、いろいろな宣伝文句を付けてくれていたが、これらは私の本意ではない。
私は、あくまで「普通の小説」として「戦争小説」を書いてきたつもりだ。それはたしかに純文学ではなく、大衆小説、エンターテインメントに分類される小説だろうが、私は気にしない。どう読まれるかは、読者大衆を信じるだけである。
私が書いた戦争小説のいくつかを紹介したい。
『日本封鎖』は、私が最初に書いた戦争小説である。主題は、日本は超大国をめざさずに、フランス、イギリスのように「中級国家戦略」をめざすべきだとした内容だった。この本は、意外なところに反響を呼び、当時の外務省や通産省の官僚たちに読まれ、講演の依頼を受けたりした。
『燃える波涛』六巻は「政治冒険小説」としてあるが、私としては「革命小説」を書いたつもりだった。世直しをしようとする若者たちの見果てぬ夢を描いた青春群像小説だ。この中でも、将来の日本の国のかたちやありかたについて、いろいろ想起している。
『夏の旅人』は、大正デモクラシーに生きた日本人青年男女が、戦争に突き進む時代の流れに抗して生きようとする。彼らは、日本を脱出し、当時のスペイン市民戦争に義勇兵として参戦、ファッシズムやスターリズムと戦い、結局、死んで行く悲劇の物語だ。
『冬の翼』は、スペインのバスクの独立戦争に殉じる日本人の父親を探す少年の青春小説である。
『午後の砲声』は、レバノン南部のパレスチナ戦線に単身潜入し、そこで体験した戦争の実相を描いた小説である。目の前に故郷の大地があるのに、還ることが出来ないパレスチナ人たちの苦難と悲しみを描いている。
『イスラム大戦』全四部は、イラク戦争の後、治安維持のために派遣された自衛隊国連PKO部隊が、イスラム過激派IS(イスラム国)と戦わざる負えなく物語だ。国連PKOであっても、日本が自衛隊を派遣すれば、どういう事態が待ち受けているのか、戦闘になれば、日本人の血が流れる、その覚悟があるのか、と警告する小説だった。
未来への警告の書は、次の二つの大河小説が該当する。
『怒涛の世紀』シリーズ十二部。これは副題にある通り「新日本中国戦争」を書いた小説だ。一九八五年に私は「新日本中国戦争」の第一版を書きはじめていた。まだ台湾問題が起こっていない頃で、予見的に中国が台湾を武力併合しようとする、と書いたもので、いつか必ず米中、日中が戦う恐れがあることをテーマにして書いていた。
その後も、政治情況に合わせて、三度にわたって改稿加筆した。その最終版として『怒涛の世紀』というタイトルでまとめた。
読んで貰えば分かることだが、物語の主題は「日中再戦不可なり」である。決して嫌中反中の書ではないし、まして日中対決や日中戦争をあおる小説ではない。
物語に登場するのは、ある日本人家族と中国人家族が、米中・日中戦争が始まったら、どう生きていくことになるのか、その悲劇的運命を描いている。
習近平の独裁体制の中国と、米国、さらにその米国に追従する日本の三ヶ国が、台湾や尖閣列島を挟んで対峙しているという世界の物語だ。習近平体制は見かけ倒しで磐石なものではなく、いつか内部で権力争いが起こり、崩壊するということを予言的に書いてある。
そうした習近平独裁体制が崩れる時が、最も危険な時で、中国は苦し紛れもあって、台湾に軍事侵攻する、そうなると否応なしに日本と米国は戦争に巻き込まれるという警告の書だ。
『炎熱の世紀』シリーズ十一部は、日本の最も恐れる危機事態である第二次朝鮮戦争の勃発を想定した小説だ。
もし第二次朝鮮戦争が勃発したら、日本、韓国、北朝鮮の人々の運命は、どうなるのか。
『炎熱の世紀』の前半のテーマは「拉致」だ。北朝鮮による日本人拉致問題を扱い、囚われている日本人たちを、いかに救出するかの物語である。
後半は「日本朝鮮戦争」、第二次朝鮮戦争が勃発したら、という架空の物語である。朝鮮戦争が再燃したら、日米は否応もなく戦争に巻き込まれ、日本列島は戦場になる。
日本の若者、韓国の若者、さらに北朝鮮の若者たちは、互いに見も知らぬ他人同士だが、戦場で遭いまみれ、血を流して戦うことなる。そうした三国の若者たちの残酷で不条理な運命を描いた青春群像小説である。
南北朝鮮の統一は、いつか必ず果たされるだろう。だが、歴史は常に残酷なものであり、平和が訪れる前に、日本、韓国、北朝鮮の若者たちの血が流れないと収まらないのではないか。そういうデストピアの物語になっている。
なお、物語の中では、北朝鮮軍が能登半島にある原子炉施設をミサイル攻撃したり、原爆を爆発させる。日本が三度目の被爆国になると警告している。
文中には、北朝鮮指導部は、もし戦争になったら、先制的に日本の原発にミサイルを撃ち込むだろうという暗い予測も入っている。ロシアはウクライナで、NATOやアメリカとの核戦争を恐れて、核を使うのを躊躇したが、北朝鮮の独裁者には歯止めがない。
北の独裁者は追い詰められたら、生き延びるために核を使うことを躊躇しないだろう。わざわざ、核を使わずとも北朝鮮は通常兵器で日本の原発施設を破壊すれば、核攻撃と同様な効果を挙げることを知っている。
日本列島には廃炉や休停止しているものも含めて、原発が五十四基もあるのだ。それらのいずれかを、ミサイルで破壊すれば、福島原発のような原発事故を起こる。ミサイルが原子炉格納容器に当たらずとも、炉心を冷却するための電源を破壊すれば、原子炉は暴走し核爆発する。
原発推進政策は、あらかじめ核兵器を日本国内に五十四基以上も配置しておくようなものだ。日本の防衛を考えるなら、安全な太陽エネルギーや風力発電など再生可能エネルギーの開発を進め、原発はすべて廃炉にすべきである。そもそも原発にエネルギーを依存しようという政策が間違いだったのだ。
原発推進の本当の目的は、電気エネルギーの確保ではなく、核兵器開発にある。日本の保守派は原発を保持することが、いずれ核を持つ布石なのを知っている。原子力の平和利用のまやかしを我々は知らねばならない。
日本は、もし原発をいま止めなければ、日本はいつまでも核戦争の危機に怯えなければならないだろう。日本は敵地反撃能力を持つべしという人たちがいるが、それでは敵国からの核攻撃、原発攻撃を防ぐことは出来ない。
防衛力だけで、国を守り国民を守ることは出来ない。粘り強く平和外交を推し進めることで、戦争を起こさせないことが、最も重要な政策である。
戦争は二度と繰り返してはならない。『怒涛の世紀』と『炎熱の世紀』は、そのことを主題にした長編小説である。
私は、現代や近未来の物語以外にも、歴史時代小説を多数書いている。たとえば、『会津武士道』シリーズだが、これも戊辰戦争、会津戦争の歴史に巻き込まれていく会津の若者たちの悲劇を題材にしている。
そのほかの作品群も(『オサムの朝』から続く自伝的青春小説系列を除いて)、ほとんどが「戦争と人間」というテーマで貫いてあることを、ここに記しておきたい。
(2022年12月10日改稿)