昨日の「つぶやき」では鶴彬の知名度について、あらためて「つぶやき」ます、と呟いていたのですが……。
まず田辺さんの書かれたその部分が見当たらないのです。確か小林多喜二と比して鶴彬の知名度の低さを説明しているのですが、あるだろうと思う頁を読み返してみても出てきません。
それにいま読みすすめている「夢路の秘めた恋物語」部分が気がかりで先へ読み進めたいのです。そこで昨日予定した『播州平野にて 内海繁文学評論集』の「鶴彬と私」の(二)(三)の該当頁をアップし文字移しだけしておきます。
p92
二
ところが、川柳人の一叩人(本名、命尾小太郎)という人が、鶴の発掘紹介に十年の歳月を打ちこみ、全く無償のまま資料探求と彼のあしあとの調査に没頭して、ようやくまとめあげたものが昨年秋「たいまつ社」によって『鶴彬全集』となって出版された。 全一巻二段組四百七十頁にこめられた質量はずっしりと重い。
この出版が高く評価され広く読まるべきは言うまでもないが、生前の彼と交渉を持ち、そのために一叩人の来訪を受けて、私の持つかぎりの資料文献をさがし出して提供した私は、個人としてもよろこびは小さくないのである。
昭和十年代の暗い季節を迎えて、諷刺文学の必然的な台頭が考えられたので、私は川柳に注目し、昭和十一年六月号の「詩人」という雑誌に「川柳についての考察」を書き、古川柳の社会諷刺・権力諷刺を賞讃し、現代川柳の退廃を批判して、少数ではあるが鶴彬らの作品に古川柳の正しい継承と発展を見るとのべ、これを重視すべきであると書いた。ところが同じ号に永瀬清子氏が「川柳諷刺詩を否定す」という一文を書いていた。
これに対して鶴彬は「蒼空」七月号に「川柳は詩でないか」という反論を書き、その中で私の所論を無条件に正しいと歓迎し、永瀬氏の論に激しく反撃した。それから鶴との書信による交友が始まったのである。
そうして鶴彬の求めによって私は川柳誌の二〜三に評論を数篇書いている。
彼は私をよき理解者支持者として親近感を持ったのであろう。 書信の往復もかなり頻繁にあったが、残念なことに私が昭和十七年秋 「短歌評論事件」 で検挙された時、 特高が彼の書信のすべてを押収してしまったため一片も残っていない。
三
ようやく鶴彬は甦りつつある。一叩人のたよりによると、東京と盛岡その他に「鶴彬研究会」が生まれ、盛岡には碑の建立が計画されつつあるそうだ。
鶴彬は広く読まるべき庶民の文学である。 川柳は最も大衆的な諷刺詩であり、現在国民大衆のくらしの中に充満しているいまいましい対象に、痛烈なパンチをくらわせて溜飲をさげる、これこそ「スカッとさわやか」な勤労大衆の嗜好品であるべきことを、 鶴彬全集は証明してくれるに相違ない。