田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』を読む目的のなかに鶴彬を知りたい、ということがあります。反戦川柳作家という鶴彬について朧げな知識しかありませんでした。
この文庫本は3巻で、今第2巻で鶴彬が剣花坊を訪ねて来た昭和三年の秋を読んでいるところです。
そんな時ですので、この図書館にあった払下げ本の、
この頁は私の関心にピタリきたのです、下に文字移しをしておきます。
鶴彬と私 『鶴形全集』の出版によせて
(一)
昭和初年から、日中戦争の時代にわたって、鶴彬(つるあきら、本名喜多一二)という傑出した川柳作家がいた。彼は次のような作品をのこしている。
凶作を救へぬ仏を売り残してゐる
ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ
これからも不平言ふなと表彰状
暁を抱いて闇にぬる
万歳と挙げて行った手を大陸へおいてきた
手と足をもいだ丸太にしてかへし
日本独特な大衆性をもった諷刺詩である川柳は、その諷刺の眼をそらさずに進むかぎり、権力の理不尽と戦争の非人間性の告発の吹矢とならざるを得ない筈だが、ほとんどの川柳人たちは眼をそらして、いわば「ユーモア川柳」 のあそびへ逃避してしまった中で、鶴彬は一人敢然と権力と戦争を告発する諷刺の吹矢を放ちつづけ、 それ故に昭和十三年九月十四日、二十九歳の若さで獄死したのであった。
同じ昭和十三年九月三日、「間島パルチザンの歌」 「生ける銃架」などの作者である天才的詩人損村浩が、二十六歳の身で特高警察の拷問の果て獄死同然の死を土佐脳病院で強いられている。
プロレタリア文学の傑出した作家小林多喜二が、特高たちに虐殺されたのは、昭和八年二月二十日であり、多喜二は三十歳だった。
しかし、小林多喜二や槇村浩は、多くの人の手によって評価され紹介され、作品集が出版され広く知られ、多くの人々に読まれているが、 鶴彬の業績は埋もれ忘れられ、その名さえ知る者はほとんどなくなりつつあった。
このあと(二)(三)と続くのですがその部分は明日にして、ここで内海さんが言われている小林多喜二、槇村浩、鶴彬に知名度です。多分、小林多喜二をまったく知らないと言う人はいないでしょう。それと比べたら槇村浩はグッと下がる、そして鶴彬になると川柳を詠んでいる人でも知らない人が多いのではないでしょうか。
この一文は1978年に「兵庫民報」という地方情報紙に書かれ、この本の発行は1983年です。その当時から現在まで他の二人に比べなお知名度は低いでしょう。そのことに関連して田辺聖子さんも論じています、「鶴彬と私」の後部分と合わせ明日にします。