田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』には数多くの水府の川柳が紹介されているのですが、こんな面白い句があります、
田辺聖子さんは「字と句と画が渾然一体とな」り、「童心.横溢の句」と言われています。
まさにその通りです、ところでこの頁を横書きにしてみると、
「国なまり母にそぐはぬ玉屋町」(〃)
しかし水府と信江二人にとっては興尽きぬ浮世の悦楽であった。 昼間から三味の爪弾きの音が聞え、芸者や役者が往き交うまち。 青竹の駒寄せ、磨き上げた格子戸、 打水をした石畳。
ミナミへ出ればすぐ宗右衛門町 道頓堀、千日前、
「よいすしを食べに三つ四つ路地を抜け」
「紅生姜夜店のすしもあなどれず」
「稲荷ずし冠といふ姿なり」
水府にはたべものの句も多いが、
団子団子団子団子と積み重ね
という面白い作品がある。いつの程にか、さらさらと柳画のコツなども手に入れた人なので、これも字から受けるイメージをそのままに、字と句と画が渾然一体となったような、童心横溢の句である。
千日前で電気写真という安い即席の写真を撮ったこともあり、これが新婚の記念写真となったが、あまりにボロボロになったので人に見せられなくなったと水府はいう。要するに新婚の二人にとっては「大阪はよいところなり橋の雨」を実感させられる場所に新居を構えられたわけである。
積み重ねられた団子が一転串団子になり、一本づつ横並びに連なった図になってしまったのではないでしょうか。
現在発行されている川柳や俳句関係の雑誌も本も縦書きです。でもネットでは五七五も横書きになっています。短歌も含めてですが短い字数・音数で感覚的なものを発信するには「字と句と図が一体」になることで内容がとらえらるものがあります。
ネット社会・ネット時代に、短詩の表記がその内容とも関連させながらどう変化発展していくのか、案外川柳がその自由さをテコに切り拓いて行くのではとも思います。その点では「つばさ」は横開きが天性のものですから、その先頭を飛ぶのではと考えも出来ます。