kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

指先の不調にあらず。

2024-02-24 17:20:06 | kaeruの『資本論』

昨日の「つぶやき」については、指先ではなく身体全体の姿勢に問題あり、でした。要は机にiPadを置いて安定させていれば問題なく⤴️されたのです。身体を布団の中に入れ、指先で作業するという怠け者スタイルがまず第一原因。それにもう一つ原因は、Apple Pencil がどこかに置きわすれたままで不器用な指先に頼るからです。

ということで猿的反省して、今日は机上の作業です。

 

一昨日はこの写真からはじめました、

多分この「つぶやき」に、何回か⤴️されていると思います、そして多分その都度『資本論』を読もうとか学ばねば的なことを「つぶやき」、いくらかそれらしいことをやってきたと思います。一昨日も目も確かなうちに読み終わるくらいのことをしておかねば、というような「つぶやき」で、不破哲三さんの《『資本論』全三部を読む 新版》も開いたりしました。

そして昨日、何となく開いたこの本、

のここに、

昭和十二年を詠み込んだ一首があります、

昭和十二年(1937)に発行された長谷部文雄訳『資本論 第一巻』については、この本のなかで岡本博之氏(元日本共産党中央委員会常任幹部会委員)が、こう書かれています。

もっともこの1939(7)年という年は、日本帝国主義がいわゆる盧溝橋事件をひきおこして全面的侵略を開始した年であり、いっさいの進歩的な言論研究、運動などを圧殺する暗黒政治がつよめられるなかで、長谷部『資本論』は発売禁止の処分を受けました。

昭和十二年(1937)は私の生まれた年で、自ずから関心を持たざるを得ない年です。この年に科学的社会主義理論探究の先達としての長谷部先生が『資本論』(第一巻)の翻訳を遂げ、それに対して国家権力が発売禁止の攻撃をかけて来ていたのです。

改めて自分がどういう時代に生まれたのか、そしてその時代に日本において『資本論』はどう受け止めれていたのか。研究翻訳発行と発売禁止の二つは、自分にとって何を意味しているのか、自問自答の「つぶやき」を始めるべきでしょう。