8月26日午後は「武侯祠」に行きました。

「武侯」とは、三国志で名高い劉備の軍師「諸葛亮(孔明)」に死後贈られた贈名です。
成都はかつて彼が長年働いた都市で、そして5回も魏国を北伐するために出発した都市
なので、当初はここより西に離れた所に「武侯祠」がありました。

ここは、もともと劉備の墓と廟があったところですが、明の時代に「君臣を合祀するべきだ」
という考えによって、合併されて現在の形になりました。

したがって正門の上の字は、劉備玄徳を祭る「漢昭烈廟」で、これが正式な名称です。
一番最初の「武侯祠」の文字は、正門右脇にありました。

入場して参道を進むと、右側に「唐碑」をおさめた小堂があります。
横の説明文によると…809年に創られ、全名は「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」である。
唐朝の著名な宰相裴度が撰文し、有名な書道家の柳公綽(柳公権の兄)が筆をとって書き、
名匠・魯建が篆刻した石碑で、文章、筆跡、石彫のすべてが優れていたので「三絶碑」と
呼ばれる…ものです。

中門をくぐります。「明良千古」の「明」は劉備の賢明、「良」は諸葛孔明の忠誠を、
「千古」は「後世まで伝える」という意味で、明の字の「偏」が「目」になっているのは
劉備の賢明さを強調したものでしょうか?
中庭を囲む回廊に、文官と武官たちの彫像が立ち並んでいます。

右が「趙雲子龍」、左は「孫乾」。超雲は「蜀国勇猛武将代表人」として特に人気が高い
ようです。
「建安13年(208年)、長坂の戦いで劉備が曹操の大軍に追われて逃走した時、趙雲は劉備
の息子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を助けました。…」
ガイドの蒲さんは、よほど三国志が好きなようで、時には映画「レッドクリフ」を引き合い
に出しながら、微に入り細をうがって詳しく説明してくれました。実は、変愚院夫婦に
とって武侯祠は三度目なのですが、始めてじっくりと見学しました。

この廟の主人公「蜀王・劉備玄徳」
関羽、張飛と三人が桃園で義兄弟の縁を結んで、お互いに誓いを守り共に戦う話を初めて
知ったのは、吉川英冶の「三国志」でした。その原本となった「三国志演義」や「通俗
三国志」はもちろん史実とは異なるでしょうが、現代でも次々と廟にお参りする人が後を
絶たないことで、その人気のほどが分ります。
なお中門で、ショートパンツにノースリーブの若い女性が警備員に厳しく叱責され入場を
制止される場面を見ました。中国でも古い伝統をないがしろにする新しい世代が出現して
いることを知り、複雑な気持ちでした。

関羽雲長
信義に厚い事などから、現在では商売の神として祭られ、そろばんを発明したという伝説
まであります。世界中の中華街で祭られていて、神戸南京町にも関帝廟がありますね。

張飛翼徳
『心が優しいですが、性格がとってもせっかちで、乱暴です。ノンベーなので、一旦酒を
飲み始まると必ず酔っ払うまで飲み続けるそうです』

「武侯祠」入口をくぐります。先年の四川大地震の影響があったようで、内部でまだ補修
作業が行われていました。

武侯祠屋根の上の飾り

劉備が「三顧の礼」を持って迎えた名軍師・諸葛亮(字は公明)
『鵞鳥の扇子を持つ智者姿が中国人のもっとも馴染みの諸葛孔明へのイメージです』
(『』内は現地旅行会社・中青旅四川のホームページより引用しました)

赤い塀と煉瓦の道が、劉備の墓へ続いています。赤い色は魔よけということです。
竹の緑と美しいコントラストを見せる道です。

劉備玄徳の墓と伝えられる塚。高さ12m、周囲180m。
劉備が病死した白帝城は、三峡付近のなので成都から1000キロも離れています。果たして
遺体がここへ運ばれて埋蔵されたかは疑問で、一説には衣服だけが納められているといい
ます。発掘が許されないので、真実は謎に包まれたままです。
見学を終えて出口までの間にある「博物館」に入りました。各時代の珍しい美術品が展示
されているのですが、学術員が説明を始めると中央の何段かに分れた棚に明りが灯りました。
2006年、やはり成都の杜甫草堂の「博物館」で出会った同じ状況です。案の定、四川大地震
で博物館も被害を受け復旧の費用捻出には入場料収入では足りないこと。展示品は売り物では
ないが、寄付してもらったお礼に差し上げることはできる。この珍しい細工物はいくらする
と思うか?この辺りは北京や上海と違って田舎で、細工する人の賃金が安いので6万円でいい。
……。この販売方法は他の都市でもあるそうですが…。

18時40分、成都を離れて九寨黄龍空港へ向かいます。
1時間足らずのフライトで降り立った空港は標高3448mのところにあり、空気が薄いので離陸
に必要な揚力を得るために、3,200mもの長大な滑走路が設けられています。ともあれ無事に
着陸して、バスで真っ暗な曲がりくねった道を下ります。
途中、川主寺(地名)で夕食後、空港から171km走って九寨溝市のホテルへ着いたのは今夜も
23時を過ぎていました。
この日の歩行距離=9,400歩

「武侯」とは、三国志で名高い劉備の軍師「諸葛亮(孔明)」に死後贈られた贈名です。
成都はかつて彼が長年働いた都市で、そして5回も魏国を北伐するために出発した都市
なので、当初はここより西に離れた所に「武侯祠」がありました。

ここは、もともと劉備の墓と廟があったところですが、明の時代に「君臣を合祀するべきだ」
という考えによって、合併されて現在の形になりました。

したがって正門の上の字は、劉備玄徳を祭る「漢昭烈廟」で、これが正式な名称です。
一番最初の「武侯祠」の文字は、正門右脇にありました。

入場して参道を進むと、右側に「唐碑」をおさめた小堂があります。
横の説明文によると…809年に創られ、全名は「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」である。
唐朝の著名な宰相裴度が撰文し、有名な書道家の柳公綽(柳公権の兄)が筆をとって書き、
名匠・魯建が篆刻した石碑で、文章、筆跡、石彫のすべてが優れていたので「三絶碑」と
呼ばれる…ものです。

中門をくぐります。「明良千古」の「明」は劉備の賢明、「良」は諸葛孔明の忠誠を、
「千古」は「後世まで伝える」という意味で、明の字の「偏」が「目」になっているのは
劉備の賢明さを強調したものでしょうか?
中庭を囲む回廊に、文官と武官たちの彫像が立ち並んでいます。

右が「趙雲子龍」、左は「孫乾」。超雲は「蜀国勇猛武将代表人」として特に人気が高い
ようです。
「建安13年(208年)、長坂の戦いで劉備が曹操の大軍に追われて逃走した時、趙雲は劉備
の息子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を助けました。…」
ガイドの蒲さんは、よほど三国志が好きなようで、時には映画「レッドクリフ」を引き合い
に出しながら、微に入り細をうがって詳しく説明してくれました。実は、変愚院夫婦に
とって武侯祠は三度目なのですが、始めてじっくりと見学しました。

この廟の主人公「蜀王・劉備玄徳」
関羽、張飛と三人が桃園で義兄弟の縁を結んで、お互いに誓いを守り共に戦う話を初めて
知ったのは、吉川英冶の「三国志」でした。その原本となった「三国志演義」や「通俗
三国志」はもちろん史実とは異なるでしょうが、現代でも次々と廟にお参りする人が後を
絶たないことで、その人気のほどが分ります。
なお中門で、ショートパンツにノースリーブの若い女性が警備員に厳しく叱責され入場を
制止される場面を見ました。中国でも古い伝統をないがしろにする新しい世代が出現して
いることを知り、複雑な気持ちでした。

関羽雲長
信義に厚い事などから、現在では商売の神として祭られ、そろばんを発明したという伝説
まであります。世界中の中華街で祭られていて、神戸南京町にも関帝廟がありますね。

張飛翼徳
『心が優しいですが、性格がとってもせっかちで、乱暴です。ノンベーなので、一旦酒を
飲み始まると必ず酔っ払うまで飲み続けるそうです』

「武侯祠」入口をくぐります。先年の四川大地震の影響があったようで、内部でまだ補修
作業が行われていました。

武侯祠屋根の上の飾り

劉備が「三顧の礼」を持って迎えた名軍師・諸葛亮(字は公明)
『鵞鳥の扇子を持つ智者姿が中国人のもっとも馴染みの諸葛孔明へのイメージです』
(『』内は現地旅行会社・中青旅四川のホームページより引用しました)

赤い塀と煉瓦の道が、劉備の墓へ続いています。赤い色は魔よけということです。
竹の緑と美しいコントラストを見せる道です。

劉備玄徳の墓と伝えられる塚。高さ12m、周囲180m。
劉備が病死した白帝城は、三峡付近のなので成都から1000キロも離れています。果たして
遺体がここへ運ばれて埋蔵されたかは疑問で、一説には衣服だけが納められているといい
ます。発掘が許されないので、真実は謎に包まれたままです。
見学を終えて出口までの間にある「博物館」に入りました。各時代の珍しい美術品が展示
されているのですが、学術員が説明を始めると中央の何段かに分れた棚に明りが灯りました。
2006年、やはり成都の杜甫草堂の「博物館」で出会った同じ状況です。案の定、四川大地震
で博物館も被害を受け復旧の費用捻出には入場料収入では足りないこと。展示品は売り物では
ないが、寄付してもらったお礼に差し上げることはできる。この珍しい細工物はいくらする
と思うか?この辺りは北京や上海と違って田舎で、細工する人の賃金が安いので6万円でいい。
……。この販売方法は他の都市でもあるそうですが…。

18時40分、成都を離れて九寨黄龍空港へ向かいます。
1時間足らずのフライトで降り立った空港は標高3448mのところにあり、空気が薄いので離陸
に必要な揚力を得るために、3,200mもの長大な滑走路が設けられています。ともあれ無事に
着陸して、バスで真っ暗な曲がりくねった道を下ります。
途中、川主寺(地名)で夕食後、空港から171km走って九寨溝市のホテルへ着いたのは今夜も
23時を過ぎていました。
この日の歩行距離=9,400歩