今日はキウイ教室。本来切るって事を余りしないタイプのガラスタイルを切るのは中々難しく、思った形に切れなかったりするのだけれど、難しいのはそのテクニックも去る事ながら、本当に難しいのは、出来る事と出来ない事の見極めだったりするのね。それをキウイは上手いから出来るんだ・・・と判断する人は自分は上手くないから
出来ない・・・と判断するし、逆に人が出来るのなら・・・と私も・・・と思う人はその凄さも判らずに簡単に手を出し、簡単に諦める事になる。そもそもそれが凄いと判断出来る人は、もうその技術に気が付いている時点で、見極めの眼を持っている人なのね。つまり眼を持っているのだから、後は出来るのかな?の勇気が必要になるのね。
ただ当然、未熟な分、失敗の確率の方が高く、材料も失敗の山になって行く可能性がある。けれど、その眼があれば、同じ失敗の事例にならないように・・・って言う工夫と、基本の切り方さえ間違えなければ、段々慣れて来れば出来るようになる。逆に全く何も判らない場合、習っている人が出来ているのなら、時間を倍にすれば出来る?
って言うような安易にスタートを切ったりもする。ただそこには無謀さって言うものと、失敗しても簡単に道具も材料も捨てられるお金等を持っていないと、中々出来るモノじゃないし、所が場合に寄っては数打ちゃ当たる的に、出来ちゃう分野もあったりすれば、見るモノ見るモノ、新しいモノ・・・に、また手を出したりも出来る。
それが最初に出来ちゃえば、また・・・があるし、最初に大きく失敗してしまえば、こりごりになる。恐らく両者にはこんな分かれ道みたいなものがあって、結局心持ちみたいなものの方が大事だったりする。眼を持っている人は、やって見たい・・・って気持ちが必要だし、何でもやって見なくちゃ判らない・・・って人は、出来ると良いな・・・と、
言う位に謙虚さがあると、失敗した時の気持ちの立て直しも出来たりする。ただ難しいのは、大抵眼がある人は謙虚であって、その謙虚さが私なんて・・・と卑下とも思える位に自分の能力を下げて見てしまい、逆に何でもやって見ないと判らない発進の人は、最初こそ出来たら良いなでスタートしても、最後までそのままなら良いのだが
、これが出来るならこれも・・・折角だからこれも・・・と欲張ると、結局最初の出たしの謙虚さを忘れ、おごり所か傲慢にもなり兼ねず、しかも両者共に気が付かない。自覚って話になるのだけれど、それが今度は自分を低い位置に置けば、アドバイスを聞く立場になり、広い意見が聞けたりする。けれど逆に上手くなると言うのは、
自分の立ち位置をあげる事になるのだから、アドバイスを受ける事が少なくなる。ここも当たり前の話なのだけれど、そこにも落とし穴があって、謙虚であるか?傲慢であるか?を自分で判断しているようでは、それが一番信用ならない気がするのね。評価とは人が決める事だったりするのだら。それを体験なら自己満足で成立。
だからこそ、出来たら楽しいもので、やればやるほど、人の欲望は尽きないもので、上手くなりたい・・・と思えば、当然ただ作るだけで楽しいはずも無く、けれど、自覚が無いと、何処まで行っても、上手いんだか?どうだか?って気持ちになるし、逆に人の評価なんてどうでも良いやなんて思えば、それはそれで楽になる。
それは読んて字のごとくたのしい。ラクなんだから。ただ上手くなるって言うのは、人に簡単には出来ないと思われるから上手いモノであって、そう簡単に真似されちゃうものが果たして満足行くか?となると、続ければ続けるほど、眼は肥えるわ、腕が欲しくなるわ・・・と欲望は果てしないのね。しかも、更に言えば、そこも自分が
決める人は、この位で良い・・・みたいに自分で決められるのだから、そこで止まってしまうか、諦める事になるだろうし、だからこそ継続するって言うのが難しいって事にも繋がると思うのね。そんな事から考えれば、もう切る事に困らないキウイに教える事は少なく、もし教える事があるのなら、どう見せたいか?の相談相手。
例えば静かな湖畔って言うのなら、無風なのか?いや、いくらか風があるのか?どっちから光が当たっているのか?みたいな細かい事の描写ばかりて、もしそう見えればそれこそが繊細さに繋がる話で・・・そんなお教室の後は、昨日のサインボードの続き。
1個スペルが違っているのをキウイが見付けて・・・かぐやが居れば、そんなミスは無かったと思うが、不在の中やっちゃったからなぁ・・・まぁこんなの何度もあって自慢にはならないが、ただあぁたの、こうだの・・・と色々考えながらやっていると、スペルうんぬんよりも、夢中になってて・・・まぁ1個で助かったとでも思うしか無いか。
出来ない・・・と判断するし、逆に人が出来るのなら・・・と私も・・・と思う人はその凄さも判らずに簡単に手を出し、簡単に諦める事になる。そもそもそれが凄いと判断出来る人は、もうその技術に気が付いている時点で、見極めの眼を持っている人なのね。つまり眼を持っているのだから、後は出来るのかな?の勇気が必要になるのね。
ただ当然、未熟な分、失敗の確率の方が高く、材料も失敗の山になって行く可能性がある。けれど、その眼があれば、同じ失敗の事例にならないように・・・って言う工夫と、基本の切り方さえ間違えなければ、段々慣れて来れば出来るようになる。逆に全く何も判らない場合、習っている人が出来ているのなら、時間を倍にすれば出来る?
って言うような安易にスタートを切ったりもする。ただそこには無謀さって言うものと、失敗しても簡単に道具も材料も捨てられるお金等を持っていないと、中々出来るモノじゃないし、所が場合に寄っては数打ちゃ当たる的に、出来ちゃう分野もあったりすれば、見るモノ見るモノ、新しいモノ・・・に、また手を出したりも出来る。
それが最初に出来ちゃえば、また・・・があるし、最初に大きく失敗してしまえば、こりごりになる。恐らく両者にはこんな分かれ道みたいなものがあって、結局心持ちみたいなものの方が大事だったりする。眼を持っている人は、やって見たい・・・って気持ちが必要だし、何でもやって見なくちゃ判らない・・・って人は、出来ると良いな・・・と、
言う位に謙虚さがあると、失敗した時の気持ちの立て直しも出来たりする。ただ難しいのは、大抵眼がある人は謙虚であって、その謙虚さが私なんて・・・と卑下とも思える位に自分の能力を下げて見てしまい、逆に何でもやって見ないと判らない発進の人は、最初こそ出来たら良いなでスタートしても、最後までそのままなら良いのだが
、これが出来るならこれも・・・折角だからこれも・・・と欲張ると、結局最初の出たしの謙虚さを忘れ、おごり所か傲慢にもなり兼ねず、しかも両者共に気が付かない。自覚って話になるのだけれど、それが今度は自分を低い位置に置けば、アドバイスを聞く立場になり、広い意見が聞けたりする。けれど逆に上手くなると言うのは、
自分の立ち位置をあげる事になるのだから、アドバイスを受ける事が少なくなる。ここも当たり前の話なのだけれど、そこにも落とし穴があって、謙虚であるか?傲慢であるか?を自分で判断しているようでは、それが一番信用ならない気がするのね。評価とは人が決める事だったりするのだら。それを体験なら自己満足で成立。
だからこそ、出来たら楽しいもので、やればやるほど、人の欲望は尽きないもので、上手くなりたい・・・と思えば、当然ただ作るだけで楽しいはずも無く、けれど、自覚が無いと、何処まで行っても、上手いんだか?どうだか?って気持ちになるし、逆に人の評価なんてどうでも良いやなんて思えば、それはそれで楽になる。
それは読んて字のごとくたのしい。ラクなんだから。ただ上手くなるって言うのは、人に簡単には出来ないと思われるから上手いモノであって、そう簡単に真似されちゃうものが果たして満足行くか?となると、続ければ続けるほど、眼は肥えるわ、腕が欲しくなるわ・・・と欲望は果てしないのね。しかも、更に言えば、そこも自分が
決める人は、この位で良い・・・みたいに自分で決められるのだから、そこで止まってしまうか、諦める事になるだろうし、だからこそ継続するって言うのが難しいって事にも繋がると思うのね。そんな事から考えれば、もう切る事に困らないキウイに教える事は少なく、もし教える事があるのなら、どう見せたいか?の相談相手。
例えば静かな湖畔って言うのなら、無風なのか?いや、いくらか風があるのか?どっちから光が当たっているのか?みたいな細かい事の描写ばかりて、もしそう見えればそれこそが繊細さに繋がる話で・・・そんなお教室の後は、昨日のサインボードの続き。
1個スペルが違っているのをキウイが見付けて・・・かぐやが居れば、そんなミスは無かったと思うが、不在の中やっちゃったからなぁ・・・まぁこんなの何度もあって自慢にはならないが、ただあぁたの、こうだの・・・と色々考えながらやっていると、スペルうんぬんよりも、夢中になってて・・・まぁ1個で助かったとでも思うしか無いか。