今日は午前中野暮用があって、午後から急きょキウイ教室。実は他の人が入っていたんだけれど、キャンセルがあって、キウイはキウイで、予約日の変更をしようとしたら、空いているなら・・・って事で変更になったのね。
ただ教室と言っても、感想として難しい事は、キウイの実力からすると特に無いのだけれど、難しいのは彫ってある中に入れる・・・って事なんだけれど、何しろこれを彫った頃の俺は、まだまだ未熟で、描かれた下絵の通りに彫るのがやっと。
そんな調子だと、彫れただけで安心しちゃうような感じ。だから、幅が一定のようで一定じゃ無かったり、恐らくデザインじゃ無い所を考えれば判るような事さえも、余分に彫ってしまったり・・・そんな下地になっているのね。
例えば三位一体的な話だと、心技体みたいな、元気な体、鍛え上げた腕、そしてそれらをつかさどる心みたいに、3つ揃って・・・とか、プレーヤーと技術と、それを応援するサポーターとか、大抵表現として、素晴らしいものはこうした事が
揃った上での結果・・・みたいになる。例えばそれを自分に当てはめたりすると、素晴らしい下絵に、それを彫る技術、そしてモザイクとなると、一番評価されているものはモザイクだとすると、他は何点?って話になるのね。
その時に、明らかに同じ人がやっているのに、見劣りするような事があれば、総合点は下がる。つまり逆の発想なら、良く先人の人達が、最初は真似から・・・ってあのセリフからすると、初心者の人なら、下絵を描かずコピーした絵で、モザイクだけに専念すれば、結果の良し悪しの確立を上げられる可能性がある事になる。
話を戻して、だから俺の場合、根本的にタイル屋から始まったのだから、技術屋出身として、絵を描くなんて技術よりも、木を彫るって言う技術の方が近道として、反復練習をしていたって事になる。
当然その回数が多ければ多いほど、身に付く訳で・・・これが事実なら、当時の彫る技術よりも今の方が断然上手くなっているし、知恵も増えた。だから当時は当時で一生懸命彫ったんだろうが、今の自分から見れば、見劣りする事はある。
つまりもし今、彫ったのならキウイに負担は少なかっただろうが、昔の実力のままの彫った部分を、今の実力のキウイが入れているって考えると、キウイのモザイク力に、以前の彫る技術の俺が助けられている・・・と言った感じになる。
では完成したとすると、キウイの作品は足掛け10年以上掛かった事になるのね。当然、キウイもあの頃よりも上手くなっているのね。それなら見劣りする部分もあるはずなんだけれど、同じようなパーツの繰り返しなんで、全く判らない。
その繰り返しの作品は、見劣りする箇所が無いから、結果が良く見える。そうなると、一番凄いのは、最後まで終わった事なのね・・・普通果てしな過ぎて諦めたりすると思うのね。心技体の心とはそんな事なのかも知れないと思うのね。
でも、じゃあそんな志みたいなものを最初から持っていたか?となると、まさかこんなに掛かるとは思っていなかっただろうし、もっと言えば、完成したとしても、最初の頃の気持ちとは変わっているだろうし・・・。
これは、中学生の頃に、友達の家に行ったら、数人がパイオニアのコンポ持ってて、俺も欲しくて親に言ったが、却下になって、意地になってバイトして、買おうとした時には高校2年・・・そんな熱も冷めたが、あの時以上のグレードの
ステレオを買った・・・それはそれで満足はしたが、欲しかった中学の自分の気持ちとは変わったのね。勿論一緒だとは思わないけど、それでも買ったか?買わなかったか?出来たか?出来ないか?の結果は大きく違うと思うのね・・・。
そこまでして得た事は、得た人にしか判らないし、いつか得られなかった人は、得られなかった事の理由を知る事になる訳で。こんな時期だから比較の話として、労作展なんてものがあるが、所詮中学生の夏休みの宿題でしょ?って位の考えなら、
何もそんなにやる必要は無いと思うのね。その時に、心って部分を考えると、中学生の宿題でしょ?・・・に続く言葉として、多分、だからそんなにやらなくても・・・とか、そんなもんじゃんとか、言う人と、中学生の宿題なんだけど・・・
とでは、大きく変わって来ると思うのね。まず最後の、・・・けど・・・。この場合、けどの後は否定文になるから、中学生の宿題だから・・・って気持ちはあるが、でも・・・みたいになり、もっと・・・っておかわりした感じね。
でも、前者の、そんなにやらなくても・・・の場合、既にやってもいないのに、終わりの日数を決めていて、それ以下で良い・・・って言った文章であり、そんなもんじゃん・・・は、想定した結果や時間になったって言う、自分の中で完結
した文章だと思うのね。こう比較すると、やる前から、中学生の宿題なんだけど・・・の、けどを使った人が、他よりずば抜けている事が判るのね。ただ、こうした掘り下げをしていなくて、ただ頑張ります・・・的な感じとか、出来ますか?
みたいな感じなんだと思うけどね。それでも、この時点の差は大きい。しかも、けど・・・で始めた人は、予想を上回る厳しさを後から知る事になり、他の2つの場合、何しろ作るファーストでは無く、なるべくそこそこ時間ファーストだから、
比較すると、相当な時間の差になる。しかももし友達だったりすると、まだやってんの・・・とか、俺終わったよみたいに、そそのかされると、慌てたり、挫けそうになったりもする。こんな事は、けど・・・の人にしか判らないのね。
これが宿題ってハードル、提出ってプレッシャーがあるから、ゴールに何とかたどり着けるものなのね。それを大人の人達に当てはめると、趣味だから・・・と、だからを使うのか?趣味だけど・・・と、だけどを使うのか?
これが全てだったりもするのね。だから・・・を使うのなら、何しろその時間内を楽しむ。ある意味、短編小説、100m走、自分料理・・・何でも良いんだけど、苦しむ時間はなるべく短く。楽しむファーストで、出来たら満足って感じ。
これはキャリア1・2年なんて人達なら良いと思うのね。ただ、中学生には当てはまらないのね。何しろ3年しか無いのだから。話をもどして、それを、だけど・・・で作ると、果てしなくなるのね。どうなるとゴールなのか?判りづらいのね。
例えば、ウチのペットを作りたい・・・これなら、1作完結だから、中学生と同じで、時間は掛かるが、それが終わるまで・・・の我慢。って感じなんで、目的意識がはっきりしている分、たどり着ける可能性はある。けど・・・。
けどなのね。良い事と悪い事は背中合わせ。そのペットが生存している間に終わらないと、意味が無いと思う人は、途中で挫折になるかも知れないし、そうなると、だから見たくない・・・になるし、逆にだから作るって事もある。
思い入れの強いモチーフって言うのは、こんな差もあるのね。でも、たどり着く可能性も高いが、終わった時に、それ以上の思い入れのあるモチーフが見つからないと、やる気も起きて来なかったりもするから、それで終わる人も少なくない。
それを何もかも超越して続ける・・・の続けるってシンプルな事で継続すると、長編小説、マラソン、人に振る舞う料理・・・みたいに、さっきとはちょっと違ったニュアンスになる。いっときの我慢じゃ無くて、成し遂げるまでの辛抱。
こうやって文章にすると、作る前の心持ちの違いが大きく変わっている事に気が付くのね。その心持ちの違いが作品の差になって行くものだと思うのね。だから楽しむなら、笑えた方が良いし、凄いものが作りたければ、人とは違う方向だから、
苦しいとか、悩むとか、試行錯誤なんて当たり前なのね。だから、結果が人と違って当然なのね。だから、と、けれど・・・使い方がおっかないものなのね。それで方向性が変わって来るのだから。そんな枕を入れて置いてからの、

まだアオリイカが終わっていないのに・・・シーバス。ただ、あんなに何を使おうか?悩んでいたのに、タイルを置いた瞬間、何だぁ、彫ってたkatsuはぺきぺきって決めてたんじゃん・・・って事だったのね。そうなると、アオリイカは1cmで、
いっぱいタイルを使うから、片付けも大変になり、お教室後じゃ無いと、広げづらいのね。しかしぺきぺきなら、色数は少ないし、あれこれ出さずに済むから、割とやり易く、お教室中も出来たりもするのね。
流石に1・2日って訳には行かないが、アオリイカより大きいのに、早くは終わると思うのね。もしそうなったら、楽になった事になり、楽って事は楽しいって事になる・・・つまり俺自身の体験教室的な作品って事になるから、俺に取っての、
コースターや鍋敷きのような作品って事になる。それで冒頭のモザイクが一番得意で、努力で木工を手に入れつつあって・・・となると、最後は素敵な下絵・・・可愛いキャラクター、素晴らしいデッサン力・・・つまり絵の向上って事になる。
今のままでは、最初の2つに大きく見劣りしていて、実力差を感じるのね。ただあの頃よりは、いくらかモザイクのkatsuにばかり負担が掛かっている感じではなくなって来たとは思うけれど、だから一瞬下地にひるんだモザイクkatsuがいたが、
始まって見ると、まだまだこんな絵かっ・・・って、見下されている下絵のkatsuがいたりする。ただ何しろこのスタイルの試作品。そう考えれば、そこまで卑下しなくても、まずまずなんじゃ無いの・・・って言いたい下絵katsuもいたりするのね。