katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

母の病院と闘牛士のリピーターさん教室

2023-07-22 07:12:49 | モザイクタイル教室

今日は母の眼医者から・・・まぁ何とか午前中に終わるんで午後からのお教室が入れられるのが助かるのね。そんなこんなのリピーターさん教室。今日は後半にちょっとだけ指導らしい指導みたいな話をしたんだけれどね・・・まぁその理由も理解していると思うんだけど・・・。

それは、日頃常に行っている事なんだけれど、要するに考え方の問題で、レシピや図面、楽譜と言ったものがあるって考え方の場合、それを真似するってスタイルなんで、数学の公式のように決まりごとなのね。その最たるものがピアノのバイエルで、老若男女誰もが一緒ってあれね。

ルールなんで、そこに記載されている通りに真似をする。その考え方をもっと昇華させると、歌舞伎や能のような伝統芸能になり、古典落語だったり、何とか流の生花だったり、踊り、着付け・・・なんて事になれば、ただ動作の真似では無く、所作みたいに心持ち、気持ちと言った目に見えない事にまで発展する。

こんな考え方とは反対にあるものがオリジナル。こっちはさっきと違って常に考える事重視なのね。何せ自由だから。真似するものが無いのね。こうした物凄い違いがあるのね。まぁ比較しやすくする為に上げると、歌舞伎はスーパー歌舞伎となり、空を飛ぶ事になる。

古典落語のように台本通りでは無く、新作落語って事で、全て自分の台本で進む事になり、何とか流の生花は、假屋崎さんのような自由な表現になり、着付けも中森明菜さんのデザイヤーになったりする・・・こうした比較をするとニュアンスは伝わると思うのね。勿論ザックリなんだけれどね。

その時に、画像ありきで始めたこの闘牛士の背中の作品・・・真似をするって点では、前者になる訳で・・・。単純に言えばね。だって真似をしてそっくりにさせたいのだから。そしてこれがもし絵画なら、贋作を目指す事になり、本物と区別が出来ない・・・となれば完璧って話になるのね。

ただどんなに上手くなっても絵画では無いから、本物とは完全に見間違える事は無いのね。だから恐らく、似てるぅ、まるで本物ぽいってな表現になると思うのね。これが恐らく限界になる。そんな事を目指すんだろうけれど、まずそんなモザイクは切らないと始まらないのね。

そんな・・・とは?本物っぽい・・・これね。勿論モザイクにはドットアートって切らずに作るものもあるが、切らないって事は、似せる為に巨大になる。つまり壁画にしないと無理なのね。勿論、単なるお遊びならコースター程度でも、作れるが、条件は小学生でも一緒だし、大きな実力の差が、

判らないから、習ってまでやる事は無いと思うのね。ただパソコンでプログラミングさえ出来れば、大作でも簡単に出来るのね。でも壁画にならないと、全然似ていないし、そもそも業者の設定料金が大きく違うのだから、その差は歴然なのね。話は戻して、つまり考え方1つなんだけれど、

実は切るって方向に進んだ時点で、プロ顔負け・・・の方向に進んでいるのね。ただプロだって、大谷さんもプロだけれど、2軍、3軍でもプロなのね。つまりこれをどの辺目指してやろうかな・・・って話なのね。教える方としてはね。これは全ての事に通じる話で、学校も何処を目指すか?

で指導は大きく変わるし、塾を先生を一体何処の誰を選ぶか?みんな何処でもあるでしょ?そうやって世の中は比較するもんなのね。ほら医者だって、車だって家だって・・・何でも比較して選ぶ。だからこうしたリピーターさんって言うのは、先生として選んでくれた人なのね。

ほら体験の1回なら、近かった・・・とか、安かった・・・とか、一度やって見たかった・・・とかだから、何処でも誰でも良かったと思うのね。勿論だからと言って手を抜く訳では無く、楽しい・・・だけを重視にしているだけなのね。難しい指導は要らないってね。所がリピーターさんとなると、

選ばれた訳で・・・。そうなると、何処でも良い受験では無いから、目標や指針みたいな事が必要になるのね。じゃこんな感じを目指して・・・ってね。でもまずは素材や道具に慣れないと、ボールは取れないわ、バットに当たらないわでは、甲子園に出たいって言われてもね・・・。

そこで何しろ切って貰うのね。何しろ切る。この方の場合、白で縁取りを切ったのね。幅を統一したり、くびれを作ったり、段々と・・・のクレッシェンド、デクレッシェンドのように、繊細なタッチで・・・とかね。勿論、箸休めや口直しって言う、段落変え的に、囲んだ間の色を入れたりもしてね・・・。

ただ切るでは慣れると単調になりがち。だからこそ、ちょっだけ刺激になるように・・・みたいな事も入れつつ。ただそれも単調になって来ていて、この辺までは楽にこなせるようになった・・・そんな風にも思えたんで、帰り際に白で囲んだ間の紺みたいな部分やって見て・・・って言ったのね。

まずタイルは同じ1cmだから、切れない事は無く、ただ色が変わっただけ。条件は一緒なのね。ただ大きく違うのは、縁取りって言うのは、何も邪魔の無い更地に、好きに切ったパーツを置けるから、繊細な人は、その下絵通りに・・・と切るだろうし、まっ良いかって人は大体って進むのね。

じゃ繊細な人は、その白い間や隙間に切って入れようとする。多分意識としては、ピッタリ・・・って感じにね。この表現気にならない?隙間にピッタリ・・・何か能率効率の話に聞こえない?じゃ判りやすく、お弁当の隙間・・・もう1個、あっピッタリウインナー。何かどうだろうか?

これが、えっと全体的に茶色だし・・・卵焼きの黄色かな・・・嫌葉っぱの緑かぁ・・・って感じだと、美の意識な感じがするし、えっとカロリーは・・・とか、減塩で・・・とか、こうした意識は健康面を気にしている感じね。つまりピッタリ・・・は、入ったぁって聞こえるでしょ?

それでは美から大きく反れるのね。ただ切るのがやっとの人ならそれで良いのね。まだそこまで行かないのだから。でもこの方、中々なのね。それなら美にそろそろ入っても・・・になると、意識を日にして貰う工夫が必要なのね。その時に隙間にクラッシュ・・・って言うと、一番楽な方法なんだけれど、この楽って思う事が難しい人がいるのね。

それは自由が不自由な人なのね。そもそもランダムとは適当とか無作為とか、偶然とか自由感満載なのね。ただそもそも繊細でピッタリ・・・こんな意識の人なのね。ここが厄介なのね。そもそも繊細でピッタリ・・・これって古典落語、歌舞伎みたいに、レシピや図面、楽譜がある側の人なら、

完璧過ぎるでしょ・・・の方向だよね。でもね、良い事と悪い事は背中合わせなのね。つまりそれが自由の邪魔になるのね。きちんとちゃんとって入れたくなる。ほら入れるになっている・・・つまりここは三角ゾーンだな・・・って場所は、誰もがそう思うって事は、後は上手く切れたかどうか?

ここは切れる人は一切考えず、悩まず、何も意識せず進める、楽譜ゾーンな訳ね。だって誰もがそう思う場所なんだから。所が2cmも空いていたとすると、人それぞれの考え方になる。細かくすれば何枚も入るし、なるべく切らずにドンドーンって3枚とか・・・色を変えて見たり・・・。

ほらたった2cmの中にありとあらゆる方法が考えられる。でもタイルはみんな一緒・・・切る事には困らない・・・困っているのは何?それが考える・・・ってオリジナルに一番大事なものなのね。はぁ?でもこの作品、真似るじゃ無かった?そうなのね、真似るなのね。でも、でもなのね。

縁取りラインと違って、そうで無い部分ってハッキリとこう切って・・・って言う正解は無いのね。でも縁取りは大きければデブっちょだし、細ければガリガリになる。だから繊細さが要求され、ピアノの音の位置さえ合えば良いでは無くて、タッチが要求されていたのね。

でもそれは楽譜に記載されているものだったのね。所が隙間は記載されていないゾーンなのね。ただ1枚完結の三角ゾーンなら、誰が見てもそうなのだから、記載はされていないけれど、恐らくそうであろう・・・になる。感覚で言えば、多分この後、自習だろっ・・・とか、お父さん呑んで帰って

来るよ・・・きっと。みたいに、恐らくって感覚ね。それでも大体そうなのだから、予定通りの予定調和なのね。だから楽譜通りみたいな。所がたった2cmとは言え、1cmタイルを切った時点でパーツは数ミリ・・・何枚も入る事になる。これがプチっとオリジナル感の部分になるのね。

いくらか自分を出せて、いくらかその為に考えないとならない部分。この考える・・・って事は自分で見つけないと、俺がこうして・・・って切ったパーツを見せてしまっては、百聞は一見にしかず・・・切れる人にパーツを見せたら、何も考えずに真似をするだけ。いつも通りの展開で、何も

困らずに進む事になる。つまりこれを繰り返せば、どんなに上手くなっても、先生次はどうすれば良いんですか・・・って事になるのね。考えない流派の方の古典落語、歌舞伎のように、伝統や継承だから。所がオリジナルは、誰も教えては来れないのね・・・だって教えた時点で、俺じゃん。

だからヒントで気付いて貰うのね・・・こんなのもある、こんなのもある・・・こんなのも・・・って。最初は選択なんて手もあるが、慣れて来ると、底辺拡張の事例をあげさせるだけあげさせて、じゃこれを変えて・・・みたいに変化させたりして・・・常連になると、たちが悪くなるのね。

まぁ勿論それがオリジナルの原点で、オマージュって感じね。パクるは、あたかも自分が考えたようなそこに悪意すら感じるが、オマージュって言うのは、敬意や尊敬のように、大好きです・・・って感じられて、やられた方も笑顔にもなるかも知れないって違いがあると思うのね。

いずれにせよ、プチッとオリジナルの考えるゾーンと、一切考えずに良く見て真似るゾーンがあり、気持ちに余裕だったり、始めたばっかりの時間帯だったりするような時に、考えるゾーンにして、気持ちに余裕が無いとか、進みたいとか、そんな能率効率な気分な場合は真似るゾーンみたいに、

使い分けをして、深追いしないとか、能率効率なのか、心技体の心って言う目に見えない事を意識して、今日の自分はどっち?って問い掛けるようにすると、大きく外す事は無くなり、何か進まない・・・今日は調子が悪いのかな?なんてまるで偶然みたいな事は起こらなくなるのね。

全てが自分自身であって、ここに来るまでの時間に何があったか?そう言う気持ち、心持ちを踏まえての制作なのね。大作ってそれが一喜一憂してしまうくらいに、長い時間が掛かるものだから、なるべく一定に心を保たないと、気分一つで全てが終わるのね。継続は力なりなのね。

そもそも誰にでも出来る事なら、こんな事いちいち言わなくても、言葉として残さなくても良いのね。当たり前なんだから。でも残っている・・・それは簡単に出来ないから、教訓みたいなものなのね。男女平等・・・いちいち言わなきゃならないんだから、そうじゃ無いって事なんだろうね。

まぁ芸術ってさ、俺は学校出ていないから、あくまで想像だけど、人が気が付かない事を気付く事なんだろうね・・・きっと。それを芸術家ってのは、教える事無く、感性だけで自分を磨くけれど、腕はあっても話す能力が無い。そもそも伝える気のない人達だからね。

所が先生って教える前提の人ってのは、自分の得て来た知識や知恵をお金と引き換えに教えてしまうのね。つまり100あった実力を教えてしまうと、97になり、85にもなってしまうのね。だから、それを補充しないと、お母さんと子供のように、最初はハンカチちり紙持ったぁ・・・って言葉は、

有難うに聞けても、判ってんよっ・・・うっせーな・・・に変わり、有り難みは薄れて行く。まぁ成長とはそんなもんで、しかも歴史は繰り返すものだし、無くしてから気付くものだから、自分がそうなった時、あぁこんな気分だったんだなぁ・・・って頃にはその人は死んでいるって話ね。

こんな説明をする・・・って言うのは、必要な人には物凄く必要で、宗教チックだから、芸術や美術品ってのは拝むようにして見る。けれど、趣味趣向、流行りもの、楽しい・・・気分爽快の方側は、流れて行くはかないもの側だから、次々に新しいものにすげ替えられて行く。

こんな違いがあったりする。それをさかなクンは学者でありながら、子供達が聞けって言わなくても聞きたくなる説明をし、興味を持たせ、しかもハクまであるから信用出来る。普通学者は、学びたいって人だけにしか、伝わらないものなのね。物凄い差なのね。

きっと俺はあぁなりたいんだろうね・・・勿論タイルくんになりたいとは言わないけれどね。まぁ、そうなると、この説明文は長いし、詰まんないし、必要な人だけのもんだろうけれど・・・・

そして今日も下地・・・

 

 

 

 


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