今日は以前卒業生の代表の方お二人と打ち合わせを経て、学校で担任の先生を踏まえての打ち合わせ。その前に母の眼科への送迎もあったが、10時からには十分間に合うと判断したんで、送迎してその足で向かうと、やはり1時間弱前に到着。
流石に早過ぎるので、近辺で時間を潰して、それでもここまで早く来ているのに余裕を出して遅刻は嫌なんで、そろそろ小学校前で・・・と移動して数分すると、先日の代表の方がいらして下さり、学校内に移動となったのね。
流石に都会の小学校なんで、思ったような校庭で、そこを眺めつつ校門へ・・・そうね、俺の子供の頃の小学校とはちょっと雰囲気は違って、校門からしばらく歩いて校舎へ・・・では無くて、数歩で校舎へ。
それで部屋に案内される間に、色んな掲示物があって・・・当然、あの頃のような雰囲気のまま、小学校ってこんなだったな・・・って部分と、格式とか伝統を感じさせる、俺は今まで見た事が無い光景もあったりして・・・。
そんなこんなで案内された部屋に入ると、3人の先生と先日の代表の方がいらして、俺を含めた6人での打ち合わせになった。そして事前に子供達にどんなの作って見たいか?みたいな軽いアンケートを頼んでいたので、そんな事から始まったのね。
ただ、頼んで置いていかがなものか?って話なんだけれど、そもそも先生がモザイクって何?って感じだと思うのね。つまりその状況での子供達への質問は流石に乱暴な話だな・・・とは思ったが、趣味趣向的な事の様子伺い的なもの。
ただ何も無いよりもね。そもそも例えば、こんな依頼の場合、この絵を作りたい・・・って下絵ありきだったりして、それを制作依頼なのか?それとも一緒に作るのか?逆にデザインをこちらが考えて、それをやはり制作なのか?一緒になのか?
みたいないずれにせよ世の中ってくくれば、これが普通・・・って言う事があって、それを基準に何か事を進めようとするのね。それが予定調和なのね。安心安全ってね。でもね、それだと不公平なのね・・・だって子供達には、やった事も
見た事も無いような分野の話を突然されて、何が良いかな?って・・・でも大人達はきちんと説明を受けて話し合い。何か不公平でしょ?だから、みんなでちょっとずつ困るべきと思うのね。そもそも考えるって言う構想は楽じゃ無いのね。
何も無い事から生み出すって、例えば漫才のコンビがいて、片一方はネタを考えて、その時間に相方は酒吞んでいたりして遊んでいたら、ネタの通りの練習は一緒でも、一切考えていなかった事になる。でしょ?不公平じゃない?
勿論二人が納得していれば、別に関係無いけれど、今回のようなみんなで一緒に・・・なんて場合、趣旨の中に一緒にがある。となると、イーブンって訳には行かないけれど、ちょこっとずつ大変な事を背負って貰わないとね。
じゃ無いと、当日の数時間の制作では、楽しかっただけの薄い体験になる。その安い経験でその記憶を思い出に変える事が出来るだろうか?つまりあんこを甘くしたいのなら、少量の塩は必要なのね。ただ良い塩梅にするには、入れ過ぎず、
入れ無さ過ぎず・・・この分量が難しいのね。では一体何をモザイク以外でやって貰うか?そもそも簡単な話で、やった事が無い事をやって・・・って言うのが乱暴なら、モザイクは乱暴な事になる。ただね、それを出来るようにするのが、先生katsuの役目なら、モザイクに関しての話じゃ無いのね。
むしろそっちは簡単とは言わないが、目に見える話なんてのは、所詮反復練習のたまものなのね。大事なのは目に見えない事・・・では一旦、話をそらして、例えば犯人を見た目撃者は、記憶を辿ってその情報をモンタージュを描く警察の人に伝えないとならないのね。
では他には、お医者さんは患者さんに問診として、どうなさいました?熱は?喉は?と考えられる質問をして情報を提示して貰う訳ね。ほら一緒じゃ無いかな?つまりゴールにたどり着く為には、知らない情報提示は必須なのね。
当然俺にも提示して欲しいのね。俺の知らない学校、生徒達、たった3時間で俺以外の人達が経験したこの学校での思い出を・・・俺もこの学校の一員とまでは言わなくても、エキスだけは注入しないと・・・。
そうね、まっ普通は仕事をするんだろうね・・・でもね、仕事でやって思い出作りの手伝い?何か事務的になるんじゃ無いのかな?例えば、素晴らしい役者の演技は、演技を通り超えて、その役の人が実際存在するように思えるから、見ている
人が感情移入をして、感情を揺さぶられるものでしょ?つまり本物って言うのは、仕事を超越するようなものなのね。だとしたら、仕事で請け負ったら、子供になれる?親になれる?先生になれる?OG、OBになれる?・・・。
そんな大事な人達と一緒の気持ちになんてなれるはずが無いのね。でもそしたらただの仕事なのね。それなら俺じゃ無い人の方が仕事でやってくれるはずなのね。でも逆に俺にしか出来ない事って言うやり方があるって事なのね・・・。
この後、色んな行事の出来事だったり、子供達の様子、コロナ、何でも良いから思い付く、俺の知らない話をして頂いたのね。そしてそれぞれの教室も見せて貰ったのね。そこにあった1枚の張り紙が、最後の最後に響いた・・・。
しぐさ・・・とあった。俺の行ってた小学校も100年は優に超えている。歴史と言うならそこそこ同じだったりする。しかしながら、この先何百年続こうが、しぐさなんて言葉が張られることは無い。これは伺う前から意識していた事への、
事実確認であって、格式、伝統・・・いわゆるただ演者として上手いって技術だけでは無く、しぐさ・・・それは所作の事であり、だよな・・・の気持ちを上乗せする事になった。
俺は俺なりに気持ちを作ろうと、昨日から気分を高める為に、ベルサイユのばらのCDを聴いているのね。オスカルとアンドレってあれね。別に信長と秀吉でも良いし、仕えるって言う事の比喩であり、俺はその立場で何が出来るか?
それを当日まで持って、当日にはオスカルであり、信長のように逆の立場で仕切る・・・これが俺のプラン。それまでは、アンドレであり、秀吉であり、それらの生き方として、いかに仕えるか?俺はkatsuとしての仕え方があるのね。