







昨日、昼間運転をしながら、前の車の遅さを感じました。低速で走っています。
「うん、もうちょっと速く走ってくれないかなあ。」
と思いながら、後ろをついていきました。
後ろから前の車の運転する人を座席の上にでている姿を見ると、高齢のおじいさんでした。横には、帽子をかぶってちょこんと座っているおばあさんもいました。ときどき笑顔で話をしています。
きっと、たのしくいろいろと話をしながら、老夫婦で買い物などに行かれたのだろうなどといろいろ思いをはせめぐらせました。
父も母と一緒によく車で、病院や買い物に出かけていました。その姿とだぶり感慨深いものがありました。
父と母が買い物に行った後などはとても、にこやかな表情でかえってきました。父が肺を患って、思うように歩けないときは、ジャスコ等まで母を連れて行って、父は車の中で待つということもありました。父にとっては、車に乗ることが唯一の外に出る機会だし、移動手段だったと思います。
寂しく感じたことがありました。
それは、父の容体が次第に悪化して、
「もう、車に乗れん。車を持っていてももったいないので、車を廃車にしたい。」
と言われたときです。
ということは、もう車に乗れない、もう元の体には、戻れないという父が感じたということ、またそんな父の存在を認めたことになります。
「もう少し様子を見たら。」と言ったものの、強い父の意志で車を手放すことになりました。
ベッドでの生活の父を見ながらいつもの父の車の置き場所から、車がなくなったとき、もしかして・・・という父の最期も予感、覚悟をしました。
何となくそんなせつない気持ちになりました。
低速で走っている車でしたが、いろんな思いが交錯しました。
そのスローなスピードがかつての大切な思い出を自分に与えてくれたように思いました。