「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらわれわたる 瀬々の網代木」
(百人一首 権中納言定頼の句より)
今日も梅雨空。野球の道具を見るために、日田に行きました。
せっかくここまで来たので、一度寄りたかったOJのハンバーガー&珈琲店に寄りました。

飲んでいると、携帯電話の警報アラームが鳴りました。
店内で響いたのでびっくりしました。

ここ何日間を通り過ぎれば、きっと、真夏の太陽が出てくることでしょう。
梅雨の終わりの大雨に注意です。
梅雨空の中で、川霧がかかっています。
またこの川面の風景がとても、山水画のようで、とてもきれいに感じます。

百人一首がうかんできます。
宇治の川霧と同じように、耶馬の川霧も趣があります。
写真でうまく採れませんでしたが、川霧の上に見える一戸城跡が美しくそびえていました。

侍たちがいた、耶馬溪、下郷の一ツ戸の城から、この川霧を楽しんでいた時代もあるのでしょう。

ちなみに一戸城の歴史は、
『下郷雲八幡から1キロあまり国道212号線をさかのぼりますと、山国川沿いの国道をふさぐようにそびえたつ、妙見嶽(374メートル)のふところに入ります。
一ツ戸トンネルです。
耶馬渓町一ツ戸と、山国町中摩の境界線上にどっしりと腰をすえた岩山で、鎌倉時代以来、この要塞地には山城が築かれていました。
一戸城といいます。

築城主は、長岩城主の野仲重房とも、中間の地頭友杉民部(ともすぎみんぶ)ともいわれていますが、とにかく、戦国時代の弘治2年(1556年)、長岩城主野仲重兼が、豊後の大友義鎮(宗麟)に長岩城を攻められた時、日田口のおさえとして、一戸与市にこの城を守らせたと古書に出ています。
よく弘治3年には、中間弾正忠が、野仲鎮兼とともに、長岩城から谷一つ東の大内氏(中国)の出城、馬台城を急襲して、城代豊田対馬守を自害させています。
一戸与市と中間弾正忠は同一人物らしいという説もあります。
とにかくこのころから、天正13年(1585年)、14年にかけては、下毛谷では、群を抜く野仲鎮兼の配下に甘んじていたものと思われます。
天下統一をめざす秀吉の代理人、黒田孝高が豊前に入国してくると、情勢は大きく変わってきます。
山国谷北口の守り土田城主百富河内守(ひゃくとみかわちのかみ)が黒田側にくだり、西口の守り一戸城主仲間統胤(むねたね)は、天正15年には黒田の配下に入っていました。
長岩城主野仲鎮兼は、天正16年の決戦を待たずして、謀略の大家、「目薬大名」の黒田孝高に負けていたのです。
一戸城は黒田氏の出城となりました。
現在残る遺構は黒田以降のものです。
この城については、一戸城研究家溝渕芳正氏が貴重な研究書『豊前 一戸城物語』を発表しています。
その中から、城構えの大略をひろってみます。

まず妙見嶽の本丸が、北側一つ戸谷、南側に神谷川、東側が本谷を塞ぐ山国川、西側は峻険な山岳地帯と、きわめて要害の地であることが一目瞭然です。
そのうえ、この城は2つの支城をもっていました。
一つが、本城と神谷川をへだてて相対する鳶(とび)ケ城(391メートル)と国道212号線の宮園橋右岸の下城です。
ところで、この城は本格的な合戦を経験しないまま江戸時代を迎えました。
日田が天領となり、四日市支庁や中津へ向かう代官道路のこの難所に、11代目の日田郡代、羽倉権九郎が、文化2年(1805年)にトンネルを含む岩切道を完成させました。
青の洞門の完成から50年経ってからです。
総延長180間9合(329メートル)で、トンネルの部分には、明り取りが7カ所もあったといいますから、なかなかの大工事だったことがわかります。
面白いことは、ここも青の洞門と同様、一時通行税をとっています。
それにもう一つ、文政元年(1818年)12月、日田から入渓してきた頼山陽が、完成後13年目のこの岩切道を通り、宮園に一泊しています。
頼山陽は、この時の感想を『耶馬渓図鑑記』に次のように書き入れています。
「山渓、相迫る山腹を鑿(うが)ちて道となし、また、牖(ゆう)(窓のこと)を穿(うが)ちて明を取る。余(自分)炬(タイマツ)を買うて以て入る。牖(ゆう)に遇(お)うて窺(うかが)えば、月
淡水に在りて朗然たるを見る。」
【物語 耶馬渓案内記 松林史郎著』

「耶馬三城を攻めろ」で、一度だけ、この歴史ある城跡に登ったことがあります。

兵どもの夢の跡です。
急な坂道でしたが、達成感はありました。
何かイベントある時でもぜひ、一戸城跡を訪れてみて下さい。