「特攻死」を美化してはいけません。特攻死は「確定死」です。天皇の美名のもとに、靖国の美名のもとに、政軍官の国家指導者が「確定死」へ追いやったのです。
家族を守るため恋人や母と別れて確定死(特攻)に向かうストーリーがしばしば人気を呼びます。昭和天皇や政軍官国家指導者たちの責任、そして彼らに協力した報道陣の責任を問うことなしに、現代人が涙の追憶と称賛で迎える。そんなストーリーは、しかし、特攻死者の真の姿なのでしょうか?
朝日新聞2005年8月12日「声」欄の読者投書から転載します。
◇特攻の志願を執拗に迫られて 兵庫県・佐藤さん(男性76)
1945年(昭和20年)の初夏、東京の旧制中学4年だった私は突然、教務主任に呼び出され「船舶兵を志願するように」と言われた。
私は春に陸軍少年飛行学校に合格したところだった。「自分は入校の通知を待っているところであります」と言うと、いきなり殴り倒された。
「船舶兵として敵艦に体当たりして立派に戦死すれば、靖国神社に神としてまつられ、天皇陛下が参拝してくださるのだ。安心して志願しろ」というのだ。その後も、週に2日ぐらい呼び出され、執拗に迫られた。
敗戦後にわかったことだが、船舶兵とは、ベニヤのボートに250キロの爆雷をつけ、敵艦に体当たりする特攻兵のことであった。そのうち空襲が激しくなり私も疎開、やがて敗戦を迎えた。
11月になって登校して驚いた。あの教務主任が全校生徒に「民主主義っていうものはこういうものなんだ」と演説していたのだ。戦後60年、私は日本の民主主義など信じていない。愚かな戦争の責任を誰もとっていないからだ。国民の諸権利を獲得するためにどれだけの人が本当に闘ったのか。
歴史の教訓に学ばない我が国は、再び同じ過ちを繰り返し、第2次世界大戦を上回る大きな被害を内外にもたらすのではないかと危惧している。