◇死ねば焼却、遺骨・遺灰は廃棄処分
きのう書いたように、日本では一般に人間の死体(遺体)は焼却されます。わざわざ残るように焼かれた骨や灰は、その大部分が廃棄されます。小さな壺一杯の骨だけを大事に持ち帰って、墓石の下や納骨堂に収納されます。管理がずさんなお寺なんかの場合には、1カ所にまとめて積み上げているところもあるようです。
◇服喪が終われば遺骨とも永別
墓参りとか法事というものは、一家または一族の結束のための行事という意味合いがあります。ですから意識せずとも習慣的に、春秋のお彼岸、お盆、新年にそういう儀式をしっかり守っている家庭が大多数なのでしょう。
しかしその度に遺骨にお目通りする人は、まあ聞いたことがありません。いったん納められた骨自体は、何か事が起きないかぎり、それっきりです。実の父母兄弟姉妹あたりなら、その遺骨について何か事があれば守ろうとするでしょう。でも、祖父母となればけっこう忘れられてしまいます。配偶者方の父母なら、そういえば遺骨があったなあというくらいでしょう。
◇遺骨はモノ、死者は思い出に生き残る
人間は死ねば焼却処分になります。遺骨の大部分は廃棄物として処分されます。死んだ人と一番血縁の濃い人が、死んだ人の記念品として、ごく少量の骨を持ち帰ります。その少量の骨は服喪の日を終えると、保管していた肉親の家を離れて墓地や納骨堂その他に引き渡されます。それで終わりです。普通、再び肉親の家に帰ることはありません。
モノ(遺骨)との密接な関係はそれで終わりです。しかし、思い出はいつまでも残ります。夢に見ることもあります。私は、父が死んだときのその年齢を越えました。でも、父の顔・姿・声や体から発散するぬくもりまで、今ここで話をしているような感じで、いつも私といっしょにいます。
◇死者への所得差別は生者の虚栄
墓地はその墓園の格式や立地によって土地価格に差があります。面積の大小によって格差があります。墓石の種別によって価格差があります。墓石の大小によって格差があります。墓地へ行くのが不便であったり、値段が高かったりという理由で、納骨堂を利用する人もいます。それさえ叶わない人のために、都市部の寺院や墓園によっては合葬供養してくれるところもあります。
要するに、死んだ本人には関係ありませんが、死んだ後まで所得による格差、すなわち差別があります。生きている間にはいろいろあるでしょうが、死んだ後の処遇に格差があるのは、すなわち所得収入による差別があるのは納得ができません。
◇靖国神社による死者の選別
生者による死者への差別ということで思い出しましたが、靖国神社による死者の選別も大胆でした。敗戦後、占領政治の間隙を縫って、100万人だか200万人だかの軍籍戦没者をエイヤッとばかりに一括合祀しました。名簿だけでお祀りしました。名簿は当時の厚生省が提供したようです。
靖国神社で祀っているのは「国のために働いた英霊、御霊」とうやうやしく話しますが、もとはといえば名簿だけの一括合祀、すなわち名簿で一丁上がりというやり方です。……これでやっていけるのですね。
宗旨が違うのに知らないうちに肉親が靖国神社に祀られていた、外してほしい、と裁判を起こした人もいます。
一方で国内外合わせて100万人単位の民間人戦没者は祀られていません。対象外です。
※参考 2006/7/29 昭和天皇自身の戦争責任――戦友は靖国にはいない、故郷の墓にいる
徴兵されて敵に殺されたり、戦地で病死したり、餓死した人は祀る。 ひどい負け戦(軍や国の責任です)で敵に殺された民間人は祀らない。
靖国神社は天皇のために戦をした人のための神社なのです。もっとも大多数の兵士にとって、「戦場に否応なく送りこまれた人」という表現が正確だと思います。
◇葬儀不要、墓に入れるな
人体は死ねば焼却処分、焼却後の残余物(遺骨・遺灰)は廃棄処分になります。死んだ人は、私と私の父の関係のように(母は今私と暮らしています)、親愛の気持ちを持っている人と共にいつまでも生きています。私自身は墓の有無にこだわらず、儀式としての葬儀にもこだわっていません。しかし、それを始めるのは私からで、今実行しているわけではありません。私が死ぬときは、葬儀不要、わが家の墓にも入れるなと、子どもに言うつもりです。
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